永遠を怖がるのは、「繰返す」と思っているからである。
死んでは生きて、死んでも生きてと、「繰返す」と思っている。輪廻転生に巻き込まれ、繰返し、自我の崩壊をしてなお生まれ変わり「繰返す」ことを、永遠と思いがちだが、そうではない。
無が有り、生と死は突然で、続いていくが終わりも訪れる。これらは「繰返す」と称される。
永遠を怖がることない。永遠という考え方自体、そもそも「無い」。
正確に言えば、永遠とは「繰返す」ことであり=「続く」ことである。
前述の通り、「続く」ことがあれば「終わり」が訪れる。それを堂々巡りで考えることに、「永遠」という名前がついたのだろう。(人の考え方は、言葉に感情に「名前」をつけるなんて、なんと素敵だろうか)
さておき、人生において、生きて、苦しんで、悦び、悲しみ、感動し、辛く、楽しいを経験する。
一度死んでもし人に生まれ変わるとしたら、またこの繰返し。記憶を受け継いで「次」が訪れたとしてもそれも「続いていく」と思うと「(どこまで続くのだろう…)」と怖くなっていく。
また「続く」ことに執着を置いているときは、「終わり」など意識していない。「終わり」を意識しているときは、「始まり」よりも「無」や「繰返す」ことを意識する。無が有るという「矛盾」に翻弄され、やはり「繰返す」。
「繰返す」という考え方に陥ったときは、400mトラックをグルグル廻るようなものなので、外に出て、海行ったり、山行ったり、コンビニ行ったりすればいい。
同じ場所で歩き続けるより、地球を周るくらいの気概でなければ、「繰返すループ」からはぬけられない。終わらない旅をするにしても、景色は変わった方がいい。
地球だって「永遠」に在るわけではなく、計算上、寿命はあと17億5千万年だそうだ。
「永遠」に畏怖を抱くのは、「繰返す」ことを恐れているのではない。
100周もすれば見る所もなくなるように、「同じ」景色が「続く」ことを恐れている。
つまり「同じところにいる」ことが苦痛である。
裏を返せば、「其処から動いていない」ということ。
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ありきたりの言葉だが、「昨日と今日は違う」。
朝起きて、飯食べて、便所行って、ゲームして、テレビ見て、洗濯して、料理して、ネット見て、仕事して、飲んで、寝る。
これを「日常」と呼ぶ。
「いつもの暮らし」を「日常」と呼ぶ。それが「楽しく」続くのであれば、問題ない。そこに少しでも『猜疑心』が生まれれば、永遠という言葉が針の穴程度のスキマから入り込んでくる。
これでいいのだろうか、これじゃだめだ、もっと違う事がしたい。
「昨日と今日は違う」。
朝起きる時間は10分遅れたおかげで虹が見れたり遅刻したり、ご飯はギネスに挑戦していない限り1年毎食同じとは限らないはずで、便も体調も変わるだろうし、ゲームもスコアが伸びるだろう、テレビもチャンネルは50以上はあるだろうし、洗濯も洋服はくたびれていくし、料理も上手くなる、ネット情報で蓄積される知識も多少なり増え、仕事で出世もするかもクビになるかも、飲みすぎれば肝臓わるくするし、寝てみる夢はどんどん変わるだろう。
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毎日は、決して「同じ」ではなく、せいぜい「似ている」留まりだ。
永遠を恐れるのは、「同じ」を「繰返す」ことを恐れているからだ。
「同じ」ことが景色であるならば、「其処から動けばいい」。一歩。
似ているだけで、「同じ」ではない、違う毎日を今も過ごしている。
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人は、「同じこと」に安心を感じ、「繰返す」ことを安定だと思う。
故郷、友だち、恋人が「同じ=変わらない」ことに安心感を抱き、生活、仕事、自分が「繰返す=変わらない」ことで安定感を保つ。
「今」が「変わらない」ことを「=日常」として捉える過ぎるため、少しの変化でも戸惑ってしまい「変化する」を敬遠してしまう。
外からの重力でバラバラになりそうな「これからの」自分を押さえ込む。
生活環境、仕事、自分のスタイルを「繰返す」ことで、外からの環境で押さえ込む。
内からの引力で逃げて行く「今まで」の自分を掴んで離さない。
故郷の思い出、友だちの繋がり、恋人と今が「同じ」であることを掴んで離さない。
人が「同じ」ことを「繰返し」てしまうのは、『自我の安定』のためであり、自分を『安心』させるためでもある。
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「ぐちゃぐちゃで整理できない自分」を忘れるために「楽しみ」に享受するのも、現実逃避という『考えなくていい』方法を取る。
自分を押さえ込んでいる重力から、自分を離さない引力から解き放つ、自暴自棄な方法。
別名「自望自棄」、自分に望みつつ、自分を棄てる、むちゃくちゃな方法。『考えなくていい』方法なのだからプラマイ『0』で合っている。
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永遠という考え方は、「繰返す」という基本的な主軸がある。
「いつまでも続く」という考え方は、『終わりがあるから美しい』という思想を台無しにするうえ、『始まり』すら否定してしまう。
永遠には、限りがある。地球にも、人間にも、限りがある。
きっとこれからも始まりも終わりもわからないまま生きる。
「続いている今」を楽しもう。できることは、それだけだ。