Text or Nothing -48ページ目

世界時計の思い出

たいしたことではないのだけれど、ふと思い出した。

私は昔、世界時計というようなのを見るのが好きだった。

デパートのトラベルセンターや、東京銀行(当時)のショーウィンドウに、世界地図と一緒に、各地の現地時刻を示す時計がいっぱい並んでいて、通りすがりにたいてい兄が率先して「ニューヨークは今○時だよ」みたいなことを言っていて、私はへぇそうかぁと、想像もつかない時差というものを想像してみては、意味分かんないのとおもしろそうなのとの両方で楽しんでいた。


そうした世界時計を見られるスポットに来ると、必ず、どこそこの都市では今何時なのかを確認するのがお決まりになっていた。べつに、確認しようとしまいと、時差があるのは当然のことなのに… それでも、まず物珍しかったし、日常の中で時差を確認できるのはそうした世界時計のある場所だけだったので、なおさら、そこを通るときは外国の時刻を確かめるのが義務のようになっていた。まるで、浜松町の駅を通過するときは、必ずしょんべん小僧を見守るのが欠かせなかったかのように。


時は流れて、今ではパソコン上で、いくつもいくつも世界の時計を出せるようになった。


アナログの世界でしか味わえなかった、「あそこに行かなければ分からない何か」というのが、段々減ってきているような気がする。


敢えて世界時計の話をするまでもなかったけれど、たとえば、小学生の頃は、調べ物というと、図書室に行って書架にあたって調べなければならなかったし、どの本を見たらよいかさえなかなか分からなかったものだ。しかも、情報を見つけたところで、自分でそれを書き写したり、あるいはコピーしたりしなければ、情報を手元に置いておくことはできなかった。それが今はインターネットですぐに分かるようになってしまった。小学校の社会科の先生が特別にコピってくれて、ずっとずっと大切にしていたある日本史に関するリストのコピーがむなしく思えてくる。もちろん、それはそれでよい思い出だけれど。


なんというか、今時は、「ネットで見れる~♪」という気持ちから、「ここでしか分からない」というような緊迫感が薄れているのかも知れない。パーソナル・コンピュータの普及は authenticity への冒涜ではないだろうか。