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小説について

現代はすっかり散文の時代になった。
大衆的に支持される書は実用書や啓発ものだから、断章形式によるエッセイ風の読み物が好まれるのかもしれない。だが、それにしても『1Q84』人気が示すように、愛読家寄りの人々からもっとも親しまれているのはまぎれもなく小説である。人気作家と言えば、小説家である。歌人や俳人、詩人は別扱いのよう。演劇にについて聞いたところでは、日本の場合長期にわたる公演は珍しく、興行収入はかんばしくないようで、劇場へ足を伸ばす人は少ないらしい。

小説のなにが人々の心をとらえるのだろう。
小説は昔から、まことしやかさを追究するジャンルであった。実際には起こっていないことを、あたかも本当らしく語ること、これが小説の目指すところであり、その限界へ達すること、あるいは限界の超克が多様に試みられてきた。多くの小説には語り手が存在し、語り手が語る場と、語られる物語の場とが存在した。小説が誕生して間もない頃は、物語はその証言者や紹介者によって語られるという体裁をとっていた。だがだんだんとフレームストーリのうちのフレームが強くフレーム内の物語内容に働きかけるようになってきて、しまいに語る者が「これは嘘です。でっちあげです」と語るようにもなり、そして禁じての極みとして無名の語り手が登場するようになる。

こうした変遷はよく知られたことで、じつに詠み惚れるような研究はどっさりあるのだけれど、なぜ書き手あるいは語り手の位置が大切なのか、なぜこれほどさまざまな試みがなされ、そのたびに読者のハートを捉えてきたのか、もうちょっと解明したい。

本当らしさの追究とは、進めば進むほど「これは虚構です」と強調しているのだろうか。本当らしさの追究という役割のほか、小説は現実世界の捉え方を提示する役割も持つ。するとある種の mind representation のようにして提示された現実の表象についての模索も、フィクションの一部であって、いかに本当らしさに接近しようとも、「現実との関わりに関するゲーム」なのだろう。

本当らしさへの接近とは、ありそうにないことの実現であり、虚構性に負っているはず。
人はなぜ、虚構をもとめて小説を読みながら、そこにまことしやかさのすごみを発見して恍惚とするのか?

こんなことを書きながら、一応具体的な作品は思い浮かんだものの、年代も題名の綴りもうろ覚えなので、具体的な論証はまたいつか。