Text or Nothing -102ページ目

「世界の涯てとは、てめえ自身の夢のことだ」

『レミング』の終盤、どうもどれもこれも夢らしいということが明らかになる。
夢から醒めたのか、夢が始まったのかがわからないが、とにかくなにか境界を跨ぎ越したらしいことは明らか。序盤からダイナミックかつ不思議な「壁」のテーマはこうして夢の有無を表すメタファとなる。

王という名の調理師が言う :
夢から醒めたのかな? それとも、ようやく一人前に、夢が見られるようになったのかな?
[…]
(倒れている一人に)すばらしい夕暮れだ。ちょっと起きてみませんか?
夢の中では壁という壁が正体をかくすのです。
[…]
なあに、簡単なこった。お前らを消すのは、たやすいことなんだ。ただ、目をとじさえすりゃいいんだ。ただ一寸、目をとじるだけで、世界を爆発させる力がえられる。
[…]
おれは長いあいだ、夢の出口をさがしていた。夢にドリルで穴をあけて、這いだす方法。夢に見られたら、そいつを夢で見返す方法。夢抜け、夢破り。

この芝居には、劇中劇をこれまた台本どおりに演じる撮影隊が現れる。
どこからどこまでがアドリブなのかも分からない。
撮影中に挿まれる「休憩にします」さえも台本どおりだと言う。

(寺山修司『レミング』『寺山修司幻想劇集』所収、平凡社ライブラリー、2005年)

これはまるで、夢の中で夢を見て、そのなかでまた別の夢にでくわしたような、複雑な入れ子構造に身を置かれた時の困惑した感覚に通ずるだろう。現実というのは、どこに身を置いているかによってかわってくる相対的なもの。今日これが現実だと思っても、それは明日になったら夢かもしれない。そして、カルデロンの名言のように「人生は夢」なのかもしれない。(いや、むしろそうであってほしいというのが本音かも。こんなつらい人生が現実だなんて…。そうだ、ずっと夢を見ているのだと思えばいい。どんな恥だって夢だと思って笑い飛ばそう。)面白いのはそれぞれの世界の壁を取り外して行ったり来たりすることなのかもしれない。

最後に王氏の科白を一つ引用しよう。

「世界の涯てとは、てめえ自身の夢のことだ」