――胸糞悪い。
 本を閉じて一番最初にそう思った。口の奥で血の味がするような感覚に似た気持ち悪さだった。
 ミステリー小説を読む際に殺人事件は付きものだと言うことは理解していた。しかし、もっとマシな表現の仕方があっただろう、と思うことがある。血しぶきが上がるだの肉片が飛び散るだの、やたらグロテスクに描写した所でまったくリアリティ。そういった文章はいくら読み進んでいっても面白みが無い。結局は作者のネガティブな妄想を延々と聞かされているだけに過ぎない。
 私は絶対にこうなりたくない。読み終わった本の表紙を眺めながらそう思った。3部作だと書かれている作品の続きを読むことはきっと無いだろう。
 不倫すらも美しく書けるあの人の様に、何度だって恋をしたいと思えるそんな文章を書けるようになりたいと改めて感じた。
 少しだけ嫌なものを見て、少しだけ前に進めた。そう思ったら1冊の本に費やした時間は無駄じゃないと思えた。


 


 駅の階段を登り、外に出ると微かにコーヒーの香りがした。その空気を吸い込むと身体中に幸せが満ちていく感覚がした。
 まだ朝が早く殆ど機能していない駅前の商店街もトンネルのイラストも全てが私の心の刺を少しずつ柔らかくしていった。
 走り出したい気持ちを抑えながら家へと向かう朝の道は何もかもがキラキラしていた。
 数日ぶりの我が家はいつもと変わらぬ様子で呼吸をしていて、離れていた時間が悪い夢を見ていたのと同じに思えた。
 眠っている彼の隣に寝転がり、ただいまと心の中で呟いた。そっと彼の手に触れると、足の先から頭の先まで幸せでいっぱいになっていくのが分かった。
 寝返りを打って私の方を向いた彼がとても眠そうな顔をしながらも腕を広げてくれたので、コロンと転がって腕の中に収まった。そんな当たり前の仕草が自然に出来る。それさえも今の私には怖いくらい幸せに思えた。
 彼の腕の中にいると、あんなに怯えて過ごしていた日々が遠い昔の様に思えた。ここにいれば何も怖くない。自分を見失わずに真っ直ぐ進める。そう感じた。




 どちらが現実でどちらが夢なのかは分かっていた。
 秋の気配を含んだ風と押しボタン式の信号機。容赦なく毒の付いた刃を突き刺すように、発される言葉。
 心が折れそうになって軋む音がした。
 この旅が終わったら、この苦しい時間が終わったら、遠くに逃げてしまいたいと思った。誰にも邪魔されない場所に。
 今の私には泣く場所すら与えてもらえない。