【籠城戦】加藤清正、玉砕覚悟の蔚山籠城 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

【籠城戦】加藤清正、玉砕覚悟の蔚山籠城

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で朝鮮半島に築かれた倭城のことを書きましたが、今回のピックアップ籠城戦はその際に少し触れた蔚山城(うるさんじょう)の戦いをテーマにしてみました。




主人公は加藤清正




清正と言えば虎退治熊本城、はたまた近頃では入場制限されるほど人気のパワースポットでおなじみの清正の井戸(城めぐりでは「彦根藩下屋敷」のある明治神宮内)など、いろいろと連想されるものが多いですが、個人的には蔚山城の戦いがもっとも男前に思えるのです。




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加藤清正、玉砕覚悟の蔚山籠城


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慶長2年(1597)、太閤秀吉は朝鮮への再出兵を諸将に通達した。慶長の役の始まりである。


文禄元年より実施された朝鮮半島への侵略(文禄の役)が明軍の来援や兵站の行き詰まりで頓挫し、明との間に持たれていた講和交渉も決裂したためである。




第一軍の加藤清正をはじめ、毛利秀元、宇喜多秀家など総勢14万の大軍が海を渡り、文禄の役の時と同様、緒戦は日本軍有利であった。日本軍の殺戮は執拗を極め、討ち取った者の耳や鼻を切り取り、戦果報告として秀吉のもとへ送るなどしている。




しかし、朝鮮側でも再度の侵攻を予期して迎撃体制を整えてきたこともあり、日本の勢いも早々に減退、朝鮮半島南部に倭城を築き、長期持久戦の様相を呈するようになった。先鋒を務めた加藤清正も、蔚山を城地に選定し、昼夜の突貫工事を行ってその普請を急いだ。




その蔚山城が、明・朝鮮の連合軍に襲われたのは、まさにこのような普請途中の出来事であった。


この時清正はたまたま水軍基地構築のために西生浦(そせんぽ)という地にいたが、急を聞いてわずかな手勢とともに蔚山城へ馳せ戻り、そのまま籠城戦へと突入した。




だが、城が未完成であったことで、籠城三日目には早くも水や食糧が尽き、加えて半島の厳しい冬の寒さに、立ったたまま凍死する兵も出る始末であった。




城を包囲するのは、明軍を主体とした6万近い大軍。一方、籠城側は清正や、浅野幸長、太田一吉ら1万に満たない兵力であったとも言われる。いずれにしても圧倒的な兵力差があったことは事実である。




連合軍の総攻撃が開始されると、東面を守備していた浅野幸長などは自ら負傷するほどの激戦を展開、他方面でも各将がまさに死戦を演じるが、準備不足は如何ともしがたく、その日の内に日本軍は大量の戦死者を出して、惣構の守備を放棄し、内側へと兵を退いた。




翌日以降も、寄せ手のかさにかかった波状攻撃が行われたが、日本側も清正自身が鉄砲を放ち士卒を叱咤、激しい攻撃からかろうじて城を維持する状態が続いた。籠城から1週間を過ぎた頃には、城兵の疲労は頂点に達し、負傷した者は言うまでもなく、無傷の者ですら壁土や雑草を口に入れることで飢えをしのぎ、とても組織的な戦いができるような状態ではなくなっていた。




清正は、「救援無き場合、上下おのおの決心するところあり」と書いた書状を密かに西生浦にいる毛利秀元へ送り、すでにこの時点で悲壮な決意を固めていたことが分かる。




「玉砕」という言葉がもはや現実のものとなりつつあった一方、連合軍側も日本軍の予想外の抵抗によって死傷者を増し、清正に対して開城交渉を始めるなど、和戦両様の構えを見せていた。清正自身、開城の呼びかけに応じることはなかったが、この交渉がもたらした空白の時間によって、蔚山城は救われた。




時をほぼ同じくして、西生浦において毛利秀元ら1万3千余りの後詰めが編成され、蔚山救援に進発したのである。




翌日、蔚山南方にひるがえる無数の援軍の旗を見た城兵は狂喜、最後の総攻撃を仕掛けた寄せ手を大いに撃退した。


さらに、連合軍は後詰めの数を6万ほどと誤認したために、退路を断たれることを警戒してその日のうちに囲みを解いて退却していった。こうして、籠城軍は絶体絶命の淵で城を持ちこたえたのであった。




しかし、すでに日本軍には退却する連合軍を追撃する余力はなく、この後、諸将の心は急速に撤退の方向へと向かっていくのである。


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一説によると、加藤清正はこの籠城を教訓にして、熊本城を築いた際に、天守の畳の芯に里芋の茎を織り込んだとかひらめき電球




猛将清正の生き様を見ることができる籠城戦でした。