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PAGES D'ECRITURE

フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

一時陥っていた、生命の危機からは程なく脱しましたが、この年齢になると、過労に陥って著しく疲弊した状態から元通りに回復することは容易ではありません。

このブログの本来の更新を続けることが困難になってきました。





自分にとっては余りにも切実なせいもあり、訳したまま忘れていた記事がありました。

余りにも古すぎて申し訳ありませんが、嫌なら読まなければいいだけですので。

週刊誌 Le Nouvel Observateur の2013年11月7-13日(通巻2557)に掲載された、CRÉANCIERS ET DÉBITEURS / LA DETTE HUMAINE (債権者と債務者 / 人類の借金)という記事です。



dette humaine




LES DÉBATS DE UOBS

CRÉANCIERS ET DÉBITEURS

LA DETTE HUMAINE



Le best-seller de l'anthropologue et économiste américain a eu un retentissement politique considérable en  revisitant l'histoire de la dette depuis 5000 ans


ENTRETIEN AVEC DAVID GRAEBER



Le Nouvel Observateur あなたは著書『借金。5000年の歴史』で、債務を弁済することができないことは非道徳的であるという、何世紀にもわたって生き残っている考えに異議を申し立てています。歴史と宗教は我々に、借金を返すことが優先的な義務であると教えているわけですが。
David Graeber 債務とは、債務者によって債権者に対してなされる約束です。もちろん、人が何らかの約束をしたとkは、できる限りその約束を守るために努力すべきです。しかし私が考え込まされたことは、この種の経済的約束に付される、かなりの程度の道徳的重さです。選挙運動の際に政治家が当選するために途方もない約束をしたときと、政府が予め早めに固定された金利で銀行に支払うことを約束した時、二つの約束のうち、後者が絶対的に神聖であるかのように見える一方で、前者は守られないことが運命づけられていると考える傾向にあります。この本は、私が戻ってきたばかりだったマダガスカルへのIMFの介入に関する左派の弁護士との、ロンドンでの論争から出発しています。IMFが要求した財政再建策が実施されたとき、とりわけ、マダガスカル国家に財政手段がなかったためにマラリアの伝染が何千人もの子供たちの生命を奪っていたとき、この国では恐るべきことが起こっていました。私は彼女に、債務の免除は良いことだ、マダガスカル国民は既に多額の返済をしていたのだから、と言いました。それに対して彼女は答えました、「しかし借金は常に返さなければならない。」 これは経済的ではなく、道徳的言説です。なぜ、債務の道徳が他のあらゆる形の道徳よりも上位にあるように見えるのでしょうか? それにしても、何千人もの子供の死を正当化しかねない高圧的な道徳的義務とはどのようなものでしょうか? この本はこうした問いかけと反発から生まれました。

非常に多くの宗教が、神、神性、自然…に対する人間の原初からの債務という考えに基づいていると、あなたは書かれています。人間は永遠の債務者ということになるのでしょうか?
この問題に言及する宗教的文献の大多数が、道徳は順守すべき問題だといっています。生命とは神に対して契約された債務である、しかし人が賢明さを発明した者に対して債務を負っていることから免責されるのは自身が賢明になることによってであると、バラモン教は教えています。

生贄のよっても。
そう、生贄は先払いであり、死ぬ時に清算します。しかし債務の道徳という概念は、神なるものに借金を返すために自分自身が賢者にならなければならない、親に対する借金を返すためには子供を持たなければならないという事実にぶつかります。アラム語では、同じ一つの単語が債務と原罪または罪責感を意味します。聖書では、罪びとは神に対する道徳的債務を弁済するものと捉えられていますが、同じ聖書が続いて、この債務は結局は神聖なものでも何でもなく、最終手kには神が消し去ってしまうと説明しています。聖書の文言では、「贖罪」は債務の影響からの解放、最終的な売却を意味します。モーゼの時代の非常に古いユダヤ法はJubilé (50年節)の法でした。その法はあらゆる債務が7年毎に自動的に取り消されること、これらの債務が理由で奴隷となった人々は解放されることを規定していました。おわかりのように、債権の放棄とは非常に古くからの概念なのです。

我々の共通の用語や儀礼上の言い回しが債務というイデオロギーに深く影響されていることも、あなたは指摘されています。
我々の用語は義務への準拠に影響されていて、心躍らせることではあります。「ありがとうmerci」と言うときは慈悲を求めつつ、象徴的には債権者の「意のまま」に自らを置いています。英語の「thank you」は「think」すなわち「考える」に由来します。本来この表現は、「あなたが私のためにしてくれたこと、私があなたに負っていることを覚えています」という意味でした。英語の「much obliged」、ポルトガル語の「obrigado」、(フランス語の)「je suis obligé」という言い回しは全て、そのものを物語っています。全て、「私にはあなたに対して債務があります」という意味です。「Pardonすみません」は人が誰かに対して罪を犯したことを暗に意味しています。Pater Nosterの祈りで、人は神に、我々の罪、冒涜と債務を「赦す」こと、すなわち債務を免除することを求めます。言葉は聖なる記憶なのです! 

あなたの指摘によると、借金はいつの時代も権力と暴力の手段の役割を果たしてきました。
暴力に基づいた関係を正当化し、それらを道徳として通用させるための最良の手段は、それらを債務という言葉に翻訳することだと、歴史は証明しています。それが悪事を働くのは犠牲者だという幻想を創り出しているのです。債務は、富者と強者によって発明された、最も有効な政治的テコです。それは債権者と債務者の間の最も暴力的な不平等を道徳性といううわべで飾り立て、おまけに犠牲者である債務者に自らが罪を犯しているという感覚も与えます。ずっと昔からの、征服軍の言葉です。諸君は我々に命を借りている、なぜなら我々は命を助けたからだ。そして我々は寛容だから、諸君は最初の年は何も払う必要はないが、次の年から払ってもらうことになる。

あなたは、マダガスカルの植民地化とハイチの独立の、信じがたいフランスの二つの事例を引用されています。
そう。驚くべきことです。1885年、フランスはマダガスカルを侵略し、この島をフランスの植民地であると宣言しました。「平定」の後、ガリエニ将軍は、マダガスカル住民が侵略と占領によって生じた費用を返済することを要求するという、邪悪な考えを抱きました。ハイチの事例はさらにずっと狂っています。1825年、奴隷の反乱のおかげで独立を勝ち取った新生ハイチ共和国は、独立の際に追放された奴隷商の旧植民に「損害賠償する」ために1億5千万フランをフランスから借りたことにさせられました! 奴隷の子孫は、五世代にわたって、親の代の解放のために支払い続けなければなりませんでした。「ハイチ」という言葉は、この時代から、借金、貧困、悲惨の同義語であり続けてきました。

あなたは、奴隷貿易と貸付制度の強い関連を明確にしています。
そう。これは滅多に語られない物語です。大西洋をまたぐ黒人奴隷の売買は、貸付と債務の管理に基づいていました。絵国やフランスの銀行家は、欧州の奴隷商人に金を貸し付け、彼らも今度はアフリカの同業者に貸し付け、そして今度は仲介者に貸し付けていました。奴隷貿易に参加する者は全て、債務のスパイラルに囚われていました。

負債は常に反乱を引き起こしてきたと、あなたは書かれています。
歴史における反乱の圧倒的多数は、借金に苦しむ人民によって起こされてきました。何千年もの間、富者と貧者の闘いは、債権者と債務者の紛争という形を取ってきました。人民の反乱は全て、同じような仕方で始まりました。借用書と債権者の帳簿の儀式的な破壊からです。

「Occupy Wall Street」の活動家であるあなたにとって、債務の免除は今日、ユートピアですか?考えられることですか? 
避けられないことです。現代の債務の水準は、返済が不可能なほどです。ギリシャは自国の債務を返済できないでしょうし、自分の教育のために首まで借金に浸かり、銀行の罠にはまって、職を得ることもできないアメリカの学生のように、借金漬けになった個人は返済の約束を守ることもできないでしょう。問題は債務が免除されるか否かということではなく、むしろ、どの割合で、どのような条件で、そしていつまでに、ということです。国際的な債務と同時に消費者の債務に関わる、聖書のような定期的な債務の免除は有益なものとなるでしょう。なぜならそれは、人類の苦しみを減らし、お金が神聖なものではなく、債務を返済することが道徳の本質ではないことを思い起こさせるからです。この免責は、下から、大衆運動によって行使される政治的圧力という事実から来ることになるでしょうか、あるいは上から、最小限の変革によって存在する社会的不平等を最大限に保つ方法によって来ることになるでしょうか? 今日、真の闘いが存在するのは、その点です。


PROPOS RECUEILLIS PAR GILLES ANQUETIL



Le Nouvel Obsemateur du 7 au 12 novembre 2013, N° 2557



「俺の借金を棒引きしろ」とか言うつもりはありません。

しかし、ここに出てくるマダガスカルやハイチの事例は、現代の強者と弱者の関係にも当てはまることでしょう。



今回の更新が最期になるか、まだ忘れている記事があったり、さらに新しい記事を掲載する余力があったりするかは、予断を許さない状況です。



3年前に入院を余儀なくされた疾病(詳細は省くが、戦前だったら致死率100%)の再発により、一時は死を覚悟しましたが、そんなに簡単には死なせてもらえませんでした。

ということで無事ですが、2月の豪雪、その他の影響により、比ゆ的な意味で「死にかけ」ました。

先日、北陸自動車道で高速バスの死亡事故が発生しました。犠牲になった運転手は、2月に3日しか休めなかったそうですが、私もまた、2月には3日しか休めませんでした(どっちみち3日と4日では、大差ないとも言えますが)。どんなに過労でも、他人に危害が及ぶような仕事でないことは不幸中の幸いです。自分が過労死するだけですが、いずれにしても、簡単には死なせてもらえそうにありません。





2011年1月17日、急病で入院してから既に3年以上がたちました。

この間、強制的な暴飲暴食により糖尿病を発症させられたおかげで、逆に糖質依存症という「悪」から脱却することができ、病前よりもむしろ健康的になることができたと勝手に思い込んでいましたが、今朝、目覚めたのち、身体が3年前の入院直前の状態に陥っていることに気づきました。

常識的な仕事をしていれば、休んで病院受診、場合によっては入院となるところですが、そういうことができない異常な職種のため、元気なふりして働いて運よく治るのを待つか、休んで直ちに死ぬかしか、選択肢がありません。

いずれにしても更新は当分不可能になりました。3か月更新がなかったから、私は死んだものと思ってください。


【追記】1月26日
本日の時点では、生命に別条はないようであり、緊急入院の必要もなさそうですが、いつまで続くかわかりません。

10月に投稿しかけて、忘れていた記事がありました。
なぜ忘れていたかは、あえて記しません。

もう遅いですが、内容そのものは古びていないと思います。

読んだ当初は、興味深い視点だと思ったのですが…


週刊誌 Le Nouvel Obsemateur の2013年9月19-25日(通巻2550)に掲載された Le pétrole contre la démocratie (民主主義に反する石油)という記事です。




PAGES D'ECRITURE-democratie-petrole




ÉNERGIES

LE PÉTROLE
CONTRE LA DÉMOCRATIE



UN ENTRETIEN AVEC TIMOTHY MITCHELL



Le charbon et le pétrole ont façonné les démocraties modernes : si le premier a favorisé la réduction des inégalités, le second les a creusées. Analyse de l’historien américain


(石炭と石油は現代の民主主義に影響を及ぼしてきた。前者が不平等の縮小を促進したとすれば、後者は不平等を拡大した。アメリカ人歴史学者の分析)


Le Nouvel Observateur 周知のように、2世紀前から化石エネルギーは我々の工業化社会の燃料となっています。著書『カーボン・デモクラシー』であなたは、それらのエネルギーがさらに、我々の政治体制の構造に深い影響を及ぼしてきたことを示しています。この影響はどのように発揮されているのでしょうか?

Timothy Mitchell 石油は民主主義には好ましくありません。産油国は他の国々に比べて民主主義的でない傾向があり、石油の多国籍企業は政治の腐敗を助長する利益で肥太り、石油は受益者である政府に、自国民から切り離す巨大な力をもたらします。しかし、ひとたび生産されると石油がもたらす効果がそこにあります。「上流」の効果です。本の中で私は下流に行き、化石エネルギーの構造を分析しようと試みています。それらはどのようにして大地からでてくるのか? 誰が生産し、輸送し、分配するのか? 地下に埋没した炭素がどのようにして機械的エネルギー、電力、暖房、さらには食料品に変わるのか? なぜなら、これらの過程は弱点や多様な当事者間の紛争が現れる機会でもあるからです。したがって、化石エネルギーが西洋の民主主義に影響を与えた点を把握できるのが、そのレベルにあるのです。


あなたは石油から始めています。それが労働者運動の出現を促進したとして。

19世紀の終わり、工業国はかつてない依存の状況にありました。それまで、川、森、動物などが、暖を取り機械を動かし移動する手段を供給していました… それからは、先進国が必要とする莫大な量のエネルギーはたった一つのエネルギー源、石炭から得られるようになったのです。ところが石炭はある特殊な立地でしか得られず、工場、発電所や都市に向けて、鉄道か航行可能な経路で輸送される必要があります。阻止するには一度の労働者のストライキで十分な工程です。炭鉱労働者、鉄道員、港湾労働者の同盟が一つの国全体を麻痺させることができます。それが後に、ゼネストと呼ばれるものです。1880年から大戦後まで、ゼネストの脅威のために支配階級は大規模な譲歩を強いられてきました。普通選挙、年金、労災や失業保険、社会住宅、教育と医療の無償化などです。数十年の間に、工業国の国民は前例のない目覚ましい生活水準の改善の恩恵に浴してきました。


そのことが、ストライキに対して脆くない石油に支配階級が全力で移行しようとしたことの理由なのですね。結果として、石油は反民主的だと言うことができるのですか?

とりわけ交通に必要な燃料を供給するために、別のエネルギー源を手に入れることは、是念ストのリスクに対する有効な武器でした。確かに、メキシコ、イラン、サウジアラビアやイラクで、石油労働者のストライキはありました。しかし石油の採掘は、その輸送と同じく、石炭に比べてはるかに少ない人数の労働者しか必要としません。石油は大洋を横断して、容易に輸送されるし、一つの港が封鎖されても、他の港に移動すれば十分です。さらに、消費地に対して生産が極端に遠くで行われることにより、異なる職業集団の間で同盟を構成することが困難になっています。石炭から石油に移行することで、工業化社会は「外部化」、さらには「国外移転」という非常に効率的な戦略を実行してきました。1980年代から企業が商品生産を国外移転してきたことと全く同様に、です。したがって石油は産油国だけに影響を与えたわけではありません。労働運動の作用を弱めて、消費国における社会の進歩を破壊し不平等を拡大するという作用ももたらしました。


非常に明快な一節の中であなたは、経済学が通貨問題だけに集中するために天然資源から背を向けることを石油が可能にしたことを示しています。結局、石油は我々に自然を忘れさせた、ということです。

ほぼ一世紀の間、石油は豊富で安価なエネルギーを供給してきました。経済学者らにとって、資源の枯渇にも環境への損害にも気を遣う必要はもはやありませんでした。経済学が天然資源でもエネルギーの流通でもなく、価格とキャッシュフローの研究をめぐって構成されたのは、1930から1940年代の、その時期です。この新しい方向性に引っかかって、一国の経済は天然資源と全く関係なく、無限に巨大化すると見なされる、抽象的な対象になりました。ところが、天然資源の中でも主要なもの、化石エネルギーは、どこでもない場所から来るわけではありません。一つだけ数字を挙げましょう。我々がたったの一年間で消費する化石燃料を生産するために、400年の間に地球全体で植物と動物によって生産された有機物が必要だったのです。


アラブ革命には石油という側面があるのですか?

それらは2008年の金融危機の結果に含まれています。金融危機そのものが、世界の石油生産が新たな時代に突入した時期に起こりました。1バレルの価格が4倍になり、機械、肥料、交通機関に強く依存していた食料品の費用は2倍になりました。アラブ世界の中には、石油から有意な所得を得てきたものの、湾岸諸国やアルジェリアよりも明らかに生産水準が低く、その生産が減少している国々の集団が存在します。チュニジア、エジプト、シリア、イエメンやバーレーンがそれに当たり、まさしく革命運動が発展した国々です。


今度はシェールガスが2000年代の民主主義に一定の影響を及ぼすことになるのでしょうか?

シェールガスの急増は、通常の石油が達した生産の頂点の帰結です。開発するのに費用が掛かり過ぎていた埋蔵炭化水素(頁岩層、アスファルト混合砂、深海底)は魅力あるものになります。アメリカ合衆国では、銀行や個人投資家にとってシュールガスが金融冬季の場に変わりました。不動産担保ローンの崩壊(サブプライム危機)後、金融資本家は新たな狩場を探し求めていました。彼らは広大な土地を買収し、多くの国々では、シェールガスの開発が、大企業の穀物プランテーションを抜いて、大多数の国土を占拠しています。そして、期待された利益が予定通りにならない可能性があるために、一連の破産、合併と買収…を覚悟しなければなりません。それらは銀行にとって同様に手数料を生じることになります。


「カーボン・デモクラシー」の未来を、あなたはどのように考えますか?

今日、資本の流れは産業よりも金融投機に向かっています。システムの脆弱性、したがってそれをひっくり返す可能性は、追放された住人による家屋の占拠(「home repossession」)あるいは学生の借金に反対する運動の付近で探すべきです。それに加えて、価格の上昇は石油産業を脆弱化します。ますます多額になり、ますます危険性の高い投資が必要になり、そこで我々は、地球を救うためには、この炭素を地下に埋もれたままにしておく方が良いことを理解しようとしています。来る十年間に、民主政体は二つの領域の交点に移動するでしょう。金融とエネルギーの。


PROPOS RECUEILLIS PAR ERIC AESCHIMANN


Le Nouvel Obsemateur du 19 au 25 septembre 2013, N° 2550


Professeur à l’université Columbia, TIMOTHY MITCHELL est l’une des grandes figures des études post-coloniales américaines. Il vient de publier « Carbon Democracy. Le pouvoir politique à l’ère du pétrole » (La Découverte), un essai original qui confronte des champs d'analyse souvent isolés : la politique, l’écologie, l’industrie.




『Carbon Democracy 』の原著そのものは、2011年に発売されていたようです。
以下は、今年発売されたペーパバック版です。(英語版)
参考までに。




Carbon Democracy: Political Power in the Age of Oil







7月、8月と更新できませんでしたが、死んでいたわけではありません(当たり前)。
細かい事情は省略しますが、久々に更新します。

今回で最後… にするつもりはありません。
既に準備中の記事もあるし、這ってでも続けるつもりです(生きていれば)。

昨今のこの国のニュースとは関係ありませんが、興味をひかれた記事で、掲載するのを忘れていた者がありました。
週刊誌 Le Nouvel Obsemateur の2013年8月15-21日(通巻2545)に掲載された Ce monde qui s'emmure (壁に閉じこもる世界)という記事です。副題の 18 000 KILOMÈTRES DE BARRIÈRES ENTRE LES HOMMES... は、『人々の間の18000キロメートルの障壁』というような意味です。



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Monde

18 000 KILOMÈTRES DE BARRIÈRES ENTRE LES HOMMES...

Ce monde
qui s'emmure



Peur du terrorisme, de l’immigration, du trafic de drogue, peur des nouveaux envahisseurs, peur de l’autre... A l’heure où la mondialisation semble effacer les frontières, partout les Etats se bardent de remparts 


テロリズム、移民、薬物密売を恐れ、新たな侵略者を恐れ、他者を恐れ… 世界化が国境を消し去るように見える時代に、至る所で諸国家は城塞で身を守る


壁、城壁、要塞、城塞、ヴォバン、ローマとトロイ戦争… 我々は皆、子供の頃、古代と、中世の騎士を夢見てきた。我々の本の中で、壁は歴史を握っていた。紀元127年以来のハドリアヌスの壁は、野蛮人の侵略からローマ帝国を守るために、アイルランド海から北海までおよそ百キロにわたっていた。そして、高さ8メートル、幅6メートルに及ぶ、紀元前3世紀の万里の長城は、中華帝国を7000キロにわたって囲んでいた。栄光に満ちた過去。しかし時代は過ぎたか。全くそうではない。

 驚愕の事態!1961年8月、イデオロギーを混ぜ合わせないために、西ドイツと東ドイツの間に鉄のカーテンが降ろされる。ベルリンでは、壁が首都とヨーロッパを二つに切り裂く。人はそれを恐れ、罵倒し、スプレーで落書きし、時には訪問する。それは、歩み続ける歴史の鼻の上の醜いイボとして、そこに立ち続ける。それを消すのに、1989年11月9日を待たなければならない。その日、東ドイツ側では、多くの家族が、喜びに熱狂して、取り戻した自由を叫びながら亀裂に殺到した。壁は現代性の奇形でしかなかった。それは国境の上に、崩れ落ちた! 民主主義と移動の自由に万歳! そして世界化よ、ようこそ。

 四半世紀経って、どうなっているだろうか? 過去が我々に追いついてきた。中東、アジア、アフリカ、そしてアメリカ大陸と、至る所で、強大な壁、電気が流れた防壁、死の囲みあるいは乗り越えられない要塞がそびえたっている。それらは既に、18000キロメートルの陸上の国境を覆っている。地球の円周の半分近くを! 2002年から、ゲットーの悲劇を経験したイスラエル国民は、地上からの攻撃を妨げるために、ヨルダン川西岸地区から隔てる「緑の線」に沿った650キロの「防衛的柵」の建設を始める。障壁はすぐに、検問所、監視塔と鉄条網を備えた巨大な壁になる。非常に異論の多いその輪郭は、畑、道路とパレスチナの村々を、事実上、将来のイスラエル国境を画定するように、真中で切断している。今日、ベツレヘムからエルサレムに移動する訪問者には、暗い廊下、鋼鉄で覆われた扉と回転ドアで作られ、拡声器でガイドされる、カフカ的な迷路を進むことが強いられる。もはや互いに知らず、無視し合い、憎み合う二つの世界の間で。

 そこから数万キロ離れて、メキシコの国境の街ティファナでは、不法入国者がカリフォルニに移動するのを妨害するアメリカ側の壁に十字架と棺が釘付けにされている。国境警備隊に打ち殺されたり、リオグランデで溺れたり、アリゾナ砂漠でミイラになったりした、15年前からの2000人のメキシコ人を追悼して。2006年以降、彼らは極度に洗練された壁にぶつかっている。ヘリコプター、カメラとレーダーを備え、80億ドルという怪物的な費用のかかった、1130キロにわたって国境を閉鎖する壁だ。新たな壁の計画、合衆国と…カナダの間の壁の計画を除いても。

 別の砂漠には、別の壁がある。サウジアラビアでは、石油を産出する首長があまりにも惨めな隣国を軽蔑している。したがって彼らは南側、イエメンに面して、高さ3メートルのコンクリート柱の施設を建てた。それは王国全体を閉じ込めるようにして、きな臭いイラク国境まで、北に向かって延長されるに違いない。最終的には、レーダー監視システムが、4400キロにわたる国境に沿って、陸からでも海からでも、あらゆる侵入を捕捉するのだろう。100億ドルに及ぶ計画である。

 西サハラでは、より少ない金とはるかに多い砂で、モロッコ人が2720キロにわたって、二重の列の砂丘を造った。ポリサリオ戦線の侵入から守るために、地雷と鉄条網が移植され、「モロッコの大城塞」、砂の防壁に面して、12万人の兵士が常時動員されてきた。< br>
 南アフリカで恐怖をもたらすのは、意地悪なムガベのジンバブエである。アパルトヘイト終結直後、解放された国は直ちに、壁、チェックポイントと電気が流れる障壁から成る、複雑な迷路を備えた。それは直ちにボツワナに真似される。

 時として障壁はよりおおざっぱだ。特に国がインドのような巨大な亜大陸の場合には。同国は隣国のバングラデシュ、パキスタン、ビルマとの間に分離壁を築いたし、異議が多く、分離され要塞化されたカシミール地方の中心部もある。イランの側では、パキスタンに対して壁を築いた。そして最も貧困な国々が続いた。ウズベキスタンはキルギジスタンとの国境を囲んだし、トゥルクメニスタンはウズベキスタンとの国境を、アラブ首長国連邦はオマーンとの、ブラジルはパラグアイとの…

 世界中で、人は閉じこもる。二つの朝鮮の間の国境線では、既に半世紀も前から時代遅れになった体制を閉じ込める要塞化された国境線のおかげで、惰性的に。今回は帝国に南側に、長城を再び築いた中国のように、念のために。あるいは、相互間にコンクリートと鋼鉄bの国境を築くことに同意した、タイとマレーシアのような良き隣人の間での、相互の合意によって。野蛮なのか現代性なのか?

 1970年からアイルランドのカトリックとベルファストのプロテスタントを隔てる、コンクリートと金属と鉄格子の8メートルの高さの囲いを消し去ることのできないヨーロッパは答えを持たない。あるいは、キプロスをギリシャ人とトルコ人の小さな塊に分割する、180キロメートルの「緑の線」も。まだましだ! 最近数年間に、現代スペインはアフリカの不法移民から守るために、セウタとメリリャの飛び地を6メートルの高さの壁で封鎖した。

 治安への備え、移民、薬物密売への恐怖、新たな野蛮人の侵略者への恐怖、他者への恐怖… 黒人と白人、金髪と茶髪、肉食者と菜食者、喫煙者と非喫煙者を隔てるための壁が築かれなかったことが一日たりともないのはなぜか? 笑ってはいけない。隣人への恐怖のために、800万のアメリカ人は自宅に閉じこもるようになったのだ。ゲーテッドコミュニティ、つまり閉ざされた村は、安全性を高められ、一日24時間見張りのついた飛び地だ。それらh100人から2万人の住民を数え、カナダ、ラテンアメリカ、東ヨーロッパ、そしてアフリカにまで広がろうとしている。

 国内では、どちらかというと金持ちで臆病だが、世界中から来た製品を山ほど抱え込んだ市民。何といっても、世界化! 商品は大歓迎だが、人間はいらない。

 

JEAN-PAUL MARI

Le Nouvel Obsemateur du 15 au 21 août 2013, N° 2545


だからどうした、と言われればそれまでです。




↓参考まで


鉄条網の歴史 ~自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明




久々の更新です。
これが最後の更新かもしれないし、そうでないかもしれません。

2009年の政権交代で、某国は国連の社会権規約に定める、中高等教育の無償化への努力に向けて、「千里の道」の最初の一歩を歩み始めたかに見えましたが、昨年の再交代によって、無に帰し、さらには逆行さえしかねないようです。

その「逆行」の一歩先を行く、国連の人権規約を批准すらしていない某超大国での教育ローンのお話です。


週刊誌 Le Nouvel Observateur  の2013年5月9-10日(通巻2531)に掲載された、 Gare à la dette étudiante (学生の借金に注意せよ) という記事です。

副題、“C’EST AUSSI RISQUÉ QUE DE JOUER AU CASINO’は、「それはカジノで遊ぶのと同じくらいリスクが高い」というような意味です。

画像は記事のイメージ、その下に見出しと訳を載せておきます。




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Economie

“C’EST AUSSI RISQUE QUE DE JOUER AU CASINO’’


Gare à la dette étudiante


Crédit facile, dérapage des frais d’inscription universitaires... les Etats-Unis se réveillent avec 1000 milliards de dollars de dette étudiante. Une menace pour le “rêve américain” et pour la croissance future

(安易な与信、大学の入学費用の暴騰… アメリカ合衆国は1兆ドルの学生の借金に目が覚める。「アメリカンドリーム」への、そして未来の成長への脅威である。)


DE NOTRE CORRESPONDANTE À CHICAGO


ロリ・ダンコ Lori Danko は勉強することをいつも夢見ていた。しかし家庭にはそのための金も野心もなかった。18歳で結婚し25歳で離婚し、ミドルウェストの貧民街、グランド・ラピッズGrand Rapids の側で育った、二児の母は、運命の成り行きを変えるために闘ってきた。30歳で看護助手となり、その後看護師になった。楽々と手に入れたこの免状の背後に、5年間のアルバイト、徹夜続きの生活…そして10万ドルを超える、天文学的な借金がある。自分の教育の資金とするために10年前に契約された借り入れは現在、利子も含めて、14万ドルに達する。ロリはシカゴの大病院の救急部で働く。憧れの仕事だ。しかし、税込で3500ドルの月給では、返済期限を守ることは不可能だ。毎月700ドルを銀行の一つに返済しているが、辛うじて金利を埋めているに過ぎない。「世界の最高の善意があっても、私にはこれ以上できない。」 他の債権者に対して、彼女は待ってもらうよう説得を試みている。そうこうするうちに、自動車を買うことも、引退後に備えて僅かな金額を取っておくこともえできない。次に大学に行こうとする、長女の保証人になることなど尚更だ。そのことが彼女の心を折る。「この借金と、私は一緒に死ぬ、それは確実だ」と、嘆息する。

 アメリカでは、ロリのように学生ローンの重みに耐えている人々が3800万人にも上る。20年前の2倍だ。借り手を保護することになっている消費者金融保護局によると、平均して25000ドルの借金を背負っているが、はるかに多額であることがしばしばだ。3分の1は、月々の返済額が収入の30%に達する。この問題は決して目新しいものではないが、今日、憂慮すべき様相を呈している。4月、学生の借金は1兆ドルという巨額に達した! ニューヨークの連邦準備制度によると、8年間で3倍になった。そして国の経済全体を脅かす、真の時限爆弾だ。どうしてこのような事態に至ったのか? アメリカ人自身が、損害の規模に気づいて茫然自失している。

 高等教育の学費がこれほど高くなったことはなかった。確かに、アメリカの大学学部の費用はいつも高かった。中流階級の親は、「アメリカンドリーム」の必要不可欠な部分である教育を子供が確実に受けられるようにしたければ、生まれてすぐから貯金しなければならないことを知っている。しかし経済危機がこの方程式を深刻なまでに複雑化した。失業に直面した多くの家庭は、過去に自分たちの家庭がそうしたように、子供たちを助けることができない。子供の側では、必要な費用の一部でも得ることができるような、学生のアルバイトを以前ほど容易に手にすることができない。とりわけ、大学の費用は莫大に上昇した。公的補助の明白な切り捨てが理由だが、それだけではない。

 ホワイトハウスに着任したバラク・オバマは、大学入学資格者が一人として、経済的理由によって大学からはいじょされることは問題外だと宣言した。そして連邦貸付金を大量に開放sチア。しかしこの賞賛すべき意図は倒錯した効果を生んだ。学生がほとんど無条件で貸付を得られることを知っている大学は、費用を引き締めて学費を安定化させるための努力を殆どしなかったのだ。学長の給与という例を挙げるだけで十分だろう。それらは今、多国籍企業の最高経営責任者の所得と並んでいる。二流の施設の経営陣で、140万ドルの基本給、250万ドルのボーナス、年間80万ドルの年金… 「この国では、教育は他と全く同じビジネスになってしまった」、86000ドルの借金を引きずる学生、ジョン・スケリー John Skelly は断言する。規制がないため、20年前にはほとんど無償の教育を提供していた州立大学が今では、これも学費が暴騰している私立大学と、ほとんど同じくらい高くなってしまった。ところが、収益を考える投資ファンドが大半を所有する私立大学もまた、学生に就職先を最小限にしか提供できない… 真の悪循環だ。「そして実にこれが、アメリカが世界中に輸出しようとしているモデルだ!」、アンドリュー・ロス Andrew Ross は抗議する。自分の学部に、6桁の数の借金を持つ学生から成る、「100のクラブ」があることを知った、ニューヨーク大学の社会学教授は、学生たちに資金的抵抗運動を呼びかけることにした。要するに、払うのを止めるのだ。断固として。「一つの世代全体を奴隷状態にするのは異常だ、ましてや、我々が今経験している雇用状況では」と説明する。「多くの学生が、自分が入り込もうとしていることを理解することもなく、借金を背負っている。彼らがそれに気づくときには、しばしば手遅れになっている。罠にはまっているのだ。」

 学生にとっては、こう言わなければならない、貸し付けを得るほど単純なことは何もないと。金融を学ぶにしても、古代ギリシャ語にしても社会学にしても。連邦政府の貸し付けは、単純な申請に対して、自動的に付与される。そして、議会によって決められた利率が、8%を上回るとしても、どうでもよい。20歳にして、それらの詳細を心配する者は稀だ。私的銀行に関しては、キャンパスや大学のインターネットのサイト上で直接的に勧誘するという具合に、学生は大歓迎だ。「彼らは、”未来に投資しなければならない“、金は問題ではない、我々は返済を始めるまで数年間ある、と繰り返す」、32歳の図書館司書、アニタは嘆息する。税込28000ドルの年収と50000ドルの借金を負う。確かに、奨学金はある。しかしそれは大学の全課程のごく一部をカバーするに過ぎない。結果として、大学の学費が年間15000から50000ドルの国で、多くの借り手が40代を過ぎてもまだ借金を背負ったままになる。バラク・オバマ自身、8年前まで自らの借金を返し終えていなかったことを認めた。デトロイト(ミシガン州)の総合医、51歳のアンドリューは、最後の月払い額を支払い終えたばかりだが、その直後に今度は息子の勉学に金を出すために新たな借り入れを背負うことになる。「息子には私と同じような負担を一生引きずってほしくない。」 結果として、ますます多くの学生が今では、勉強することを、ハイリスクの賭けと見なすようになっている。「いずれにしても、統計的には、依然として良好な投資のままだ」と、消費者金融保護局のロヒト・チョプらRohit Chopra は含みを持たせる。「学卒者の失業率は、非学卒者よりも4%低いままだし、労働市場への参入時の給与は大幅に高い。」 まだそこに場所を見出さなければならない。失業中の弁護士、29歳のジルは、まだ払わなければならない30000ドルを返済し終えることができないで、母親のもとで生活しに戻らなければならなかった。まだ6万ドルの借金を背負っている、働き口のない27歳のデザイナー、アンドリューは、自分の夢の仕事を始めることができるようになるものの、借金をさらに3万ドル増やすことになる、1年間の修士課程を埋めることを躊躇している。「結局、カジノに賭けるのと同じくらいリスクが高い。ジャックポットで勝つかもしれないが、反対に、負けを取り戻そうと期待しながら穴の底に堕ちるかもしれない。」 

 妥当な線を越えて過剰債務に陥った個人と、犯罪まがいの銀行。何も思い出さないだろうか? 2008年、サブプライム危機の時のように、学生の借金の3分の1以上に相当する4000億ドルが「証券化」され、つまり、再構成された後に派生商品の形で投資家に譲渡されている。心配ではないだろうか? 同じ原因が、それでも必ずしも同じ効果をもたらすわけではない。「今回は、システムよりも個人に重くのしかかる脅威だ」と、ボストン大学の経済学教授、ケビン・ラング Kevin Lang は明確に言う。サブプライム危機の時には実際、銀行は過剰債務に陥った家計の家屋を大挙して差し押さえたため、不動産市場の崩壊を引き起こし、金融危機を経済危機へと変質させた。学生に対しては、差し押さえる物は何もなく、借り入れの主要部分は公的信用機関によって保有されているために、金融危機は今のところ、今日的な話題になっていない。「反対に」、ケビン・ラングは続ける、「この借金が消費、不動産、自動車市場に重くのしかかる可能性はかなり高い。」 そしてだから、いずれは、経済成長に対しても。


NATACHA TATU


Le Nouvel Observateur du 9 à 15 mai 2013, n° 2531


どこかの国とかどこかの国の教育費が、常識とか良識の枠を超えて天文学的に高額であるなどという話は、過去に何度も触れたことがあるので、今さら繰り返しません。


訳文中の 「これが、アメリカが世界中に輸出しようとしているモデルだ!(c’est un modèle que l’on veut exporter dans le monde entier ! )」 の、最も忠実な輸入国の一つが、恐らくこの某国なのでしょう。

おまけにここでは、(低利子とはいえ)教育ローンの一種が「奨学金」を名乗っていて、本来の奨学金と紛らわしいという問題もあります。たとえ無利子であっても、返済義務のあるものは「教育ローン」であって「奨学金」ではないという、世界の常識が通用しません。これらは、「ショーガクキーン」という名称の金融商品であるということを周知させないで借りさせておいて、返せなかったら「ブラックリスト」入りというのでは、国家レベルの詐欺と言われてしかるべきです。以下略します。



どこかの国の某首相が、これまでさんざん放置してきた某団体の(犯罪の域にすら達している)暴力的な差別的言動を批判するようなことを言ったとか言わないとか。自分の熱心な支持層の言動を批判するとはいい度胸だと思う今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?

実に久し振りに更新します。しかも、日本の話題です。


週刊誌 Le Nouvel Observateur  の2013年4月4-10日(通巻2526)に掲載された、 Japon : à droite toute !  (日本:完全に右へ!)という記事です。

副題は、『「家族、伝統、祖国」三部作に基づいた憲法?』というようなことです。
画像は記事のイメージ、その下に訳を載せておきます。


PAGES D'ECRITURE-Obs-Japon01 PAGES D'ECRITURE-Obs-Japon02







Monde

UNE CONSTITUTION FONDÉE SUR LA TRILOGIE “FAMILLE, TRADITION, PATRIE” ?

Japon : à droite toute ! 


 


Dépassé par la Chine, talonné par les dragons de la nouvelle Asie, le Japon souffre d’un sentiment de déclassement qui profite comme toujours à l’extrême-droite et aux populistes. Avec un Premier ministre qui flirte avec certains démons du passé... 


(中国に追い越され、アジアのドラゴンに追いつかれた日本は、いつものように極右と大衆迎合主義者を利する落伍感に苦しむ。ある種の過去の悪魔と戯れる首相とともに…)


DE NOTRE ENVOYÉE SPÉCIALE


二倍の人数の警官に護衛された彼らは、ジーンズとバスケットシューズを履いた、せいぜい十人程度の若者たちだ。東京の静かな小路、北朝鮮代表部が入る人気のないビルの前で立ち止まる。「朝鮮人は出て行け!」若い女が拡声器で喚き立てる。「お前たちは日本の金をすすっている! お前たちはキム・ジョンウンの腹を肥やすために我々の金を吸い上げている! とっとと失せろ! お前たちはここにはいらない!」 ひょろ長い男が彼女に続ける、「お前ら愚か者、卑怯者、お前らは爆弾で韓国を脅迫してばかりいるが、失せろ! 我々を喜ばせろ、半島全部を吹き飛ばせ! 南も北も、お前ら朝鮮人全員片づけてやる!」 こうした幼児的な攻撃性を持った熱弁が繰り広げられる間、地面に置かれたパソコンがその場面全体を撮影する。示威行動が解散するとすぐに、ビデオはインターネットに投稿され、そこでは匿名の加入者の集団が見ることになる。

 2007年に創設された、在特会、「在日特権を許さない市民の会」と名付けられた、この極右の集団はソーシャルネットワーク上でその人気が跳ね上がり、現在では12000人の共鳴者を数える。3月のこの日曜日のように、200から300の会員が、大半が軍国主義時代の強制連行された労働者の子孫である、韓国人の強固な共同体が住むことで有名な地区、新大久保の広場などに集まる週末にしばしば彼らを目にする。いかなる挑発にも屈せず、極右主義者らは、日出る日本の正統な国旗ではなく軍国主義帝国の、太陽が血の色の光の筋の冠を広げる大量の旗を振りかざす。「“Go Home ! ” AIDSを撒き散らす朝鮮人の売春婦を追い出そう! 立ち去れ!我々はお前たちにも、お前たちの妻にも子供たちにも、一切容赦しない!」と、はっきりと叫ぶ。反対する少数の集団が彼らを黙らせようとすると、口調は一気に強くなる。「裏切り者! 恥知らず! 朝鮮人をガス室で殺せ! 不法入国者を全員首つりにしろ ! ゴキブリに死を!」 敵対する双方の間に入るにとどまる警察官の落ち着いた視線の下で、在特会は喚く。

 その伝説的な礼儀正しさと、慎みという素晴らしい知恵を持つ日本文化が、どうしてこのようなおびただしい怒号を生み出すことができたのだろうか? アメリカ法の影響を受けた体系の中で、ヘイトスピーチを抑圧する法律のないことが、まず原因に挙げられる。しかしとりわけ、否定論すれすれの正当化のせいでもある。「我が国にはユダヤ人も黒人奴隷もいないし、アパルトヘイトもなかったという理由で、我々は差別主義と無縁だと信じている」と、哲学者の鵜飼哲は嘆息する。彼は1980年代のフランス留学中に差別主義の問題を発見したことを告白する。「この韓国と中国に対する排外主義は純粋な人種差別主義であり、表現の自由を口実にそれと闘わないようにしている、というのが真実だ!」

 ジャーナリストで、在特会に関する本の著者である安田浩一もまた、憂慮している。「“在特会”員には、目的が一つしかない。彼らの想像の中で不当な特権を享受する韓国人に対する憎悪を喚き立てること… イデオローグもトップもいない。頭が空っぽの欲求不満になった集団がいるだけだ」と、彼は判断する。しかし彼らのアジテーションが本当の恐怖の雰囲気を醸し出しつつある。」 実際、これらの狂信者たちは、日本に対してほんの少しでも批判を表明した人物を攻撃し、Eメール、ファックスで爆撃し、自宅の門の前で百人連なって示威行動する… こうして彼らは、第二次世界大戦の間ニッポン軍に性的どれとして仕えることを強いられた、韓国、中国、マレーシアの女性たち、「慰安婦」という常にタブーとされてきた問題のための写真展を中止させることに成功した。同じく、ある韓国の女優が広告のために選ばれたことを知って、嫌がらせによって力ずくで辞めさせた… 安田に関しては、脅迫のEメールも脅迫電話も数えきれない。あるデモ行進に彼がいることがわかったとき、極右集団は叫び始めた。「安田、死ね! 安田、死刑台に行け!」

 この喧嘩腰は、彼によると、40%が不安定雇用と派遣というアルバイトしか経験したことのない20から35歳の世代の絶望によって部分的に説明できるという。かなり前から日本に影響を及ぼしている経済停滞とともに、彼らの憎しみは歴史的地位の低下に痛めつけられた社会の右傾化に寄与している。「明治時代から、日本は自らアジアの全ての国々よりも優れていると感じてきた」、東京外国語大学教授、西谷修は説明する。まず、ヨーロッパのどの植民地帝国とも同じように、近隣諸国を蹂躙してきた植民地支配者として。次に、第二次世界大戦後、日本を第三世界の大海の中の唯一の現代国家にした、目覚ましい経済成長のおかげで。そして今、中国が日本を追い越し、韓国がすぐ後ろを負い、台湾が近くで追ってくる… 日本は実際に、深い脱落感に苦しんでいる。」

 こうした痛々しい感情を、一部の血の気の多い議員が和らげようとする。最も輝かしいのは、疑いなく、石原慎太郎である。80歳の前都知事、昨年秋に、尖閣諸島の買収の企ての結果として、たった一人で中国との重大極まりない危機の火付け役となった。作家で、成功した脚本家で、三島由紀夫の友人だった石原は、同胞の誇りを回復して自国が“has been”ではないことを証明することを夢見て、際限なく甲高い国粋主義を吹聴する。「日本は中国に嘲弄され、愛人のようにアメリカに誘惑されている… 我が国の政界の終わりのない漂流と決別するために、官僚と利益団体の支配を砕くことのできる、強い指導者が我々には必要だ」、いつものようにそう断言する。ちょっと誇大妄想のようだが、救い主の役割には実によく合っているようだ。

 自らの野望を実現するために、石原はもう一人の大衆迎合主義の大物、43歳のカリスマ的な大阪市長、橋下徹とくっついた。一緒になって、彼らは新党、日本維新の会を結成したところだ。同党は昨年の国政選挙で54議席を獲得し第三党となった。橋下は橋下で、地方と中央の依存関係を断ち切って、ドイツ流の抜本的な地方分権のために闘う。その究極の目的は同じだ。強い権力、さらには「独裁的な」権力を、重荷とコンプレックスを断ち切った日本に打ち立てることである。

 極右の前の世代が皇室への信仰に集中していたのに対して、「たくましい」新世代の極右は、中国、韓国、ロシアといった近隣諸国に対してあえて態度を明確にし、領土の主張に抵抗する。次第に多くの声が今や、1946年の平和憲法、特に軍を単なる「自衛力」に貶めている第9条の見直しを呼びかけている。

 それが、もう一人の象徴的な人物、新首相、安倍晋三が強く固執する点の一つである。政界の「保守」派に属するとされる安倍はしかしながら、有効な戦闘を開始するために現地でアメリカの同盟に追随することのできる、軍隊を日本のために望んでいる。彼が「国防軍」と改名することを望んでいるものだ。彼はまた、減少する一方だった軍事予算を増額したいとも思っている。多くの点で、日本の新たな指導者は、自らが党首を務める、尊敬すべきはずの「自由民主党」よりもポピュリストに近いように見える。

 首相の立場には同調しないが、元外務副大臣のジミントー衆院議員、伊藤信太郎は「他のどのような独立国」と同じように、憲法の再検討の可能性を擁護する。「結局それは、ハムラビ法典でも聖書でもない!」と彼は強調する。「この条文はアメリカ人によって英語で書かれ、日本人の精神に適応していない。日本は多宗教国家であるのに、キリスト教の概念に基づいている。我々を防衛することに“自然”権を援用するのに何の問題もない…」

 非常に尊敬されている憲法学者の樋口陽一はずっと批判的だ。改憲案を子細に検討すると、それが「真の国粋主義革命」であることが明らかになると、彼は評価する。「政治のマス目を右に押しやり、政府を過激な国粋主義に押しやる、安倍の個人的な素因が存在する」と、樋口は分析する。「処刑を免れて1957年に首相になった、祖父の岸信介への、真の信仰に身をささげているように見える。」

 祖父が支配的な人物だった軍国日本の栄光を安上がりに洗い流すという誘惑にどう考えても強くかられた、安倍の歴史修正主義的な宣言を捕えるのに、他の評論家は苦労しない。「慰安婦」? その存在を否定しないが、安倍は帝国の軍隊が演じた役割についての疑いを表明する。皇族、現地のマフィア、さらには利益誘導に関する責任を拒絶する否定論者のように。その選挙運動で、安倍はそもそも、内閣官房長官だった河野洋平がこれらの犯罪における日本の責任を認めた、1993年の「河野談話」を見直すと約束していた。もう一つの不一致点は、1937年に日本の占領軍によって20万から30万人が殺害されたとされる南京大虐殺である。安倍の党のおよそ百人の議員は、この犯罪を、日本を汚すために創られた「神話」として、激しく否定している。

 哲学者の鵜飼哲は、アジア地域の全ての国々における国粋主義の高まりを、不安を抱きながら観察する。「あらゆる方面のこうした怒号を見て、何も思い出しませんか? 百年遅れで、我々は第一次世界大戦前夜のヨーロッパと同じ状況にいるのです。何もしなければ、破局の可能性も否定できません…」


URSULA GAUTHIER

Le Nouvel Observateur 4-10 AVRIL 2013, N° 2526



文句 コメント がある人は、元記事の執筆者か版元に直接言ってくださいね。
私は、あくまでも参考文献として引用しただけです。






個人的な話ですが、ここ最近腹の立ったことの一つが、3月18日だったかに日本糖尿病学会が発表した「糖質制限は勧めなられない」などという見解を、大手マスゴミが持ち上げたことでした。(記事へのリンクはしません。「糖質制限 糖尿病学会」とでも検索してみてください)

欧米の研究の対象者と日本人とでは肥満度が異なるから、「いまだ十分なエビデンスが揃っているとは言えない」とのことらしいですが、これまで、欧米の論文の手前味噌な引用ばかりしてきたくせに、ここにきて「日本人と欧米人は違う」という論法にはあきれるばかりです。

この糖尿病「増加」学会の見解の報道と前後して自宅に届いた週刊誌、Le Nouvel Observateur の2013年3月14-20日(通巻2523)に、以下のような記事が掲載されていました。

PLUS DE LA MOITIÉ DES AMÉRICAINS SONT EN SURPOIDS... La victoire des lobbies du sucre(アメリカ人の過半数は太り過ぎている… 砂糖のロビーの勝利)という記事です。同号の多国籍企業を取り上げた特集、Les vrais maîtres du monde (世界の真の支配者)という一連の記事の中の一本です。アメリカの砂糖「マフィア」の話ではありますが、某国のDM (糖尿病) マフィアにつながるような話でもあるような…




PLUS DE LA MOITIÉ DES AMÉRICAINS SONT EN SURPOIDS...

La victoire des lobbies du sucre



Les géants américains de l’agroalimentaire emploient les mêmes méthodes que l’industrie du tabac : financement d’études bidon, pression sur les élus... 



アメリカの農産物加工業界の巨人はタバコ産業と同じ手法を用いる。インチキな研究への資金供与、議員団への圧力…


砂糖の猛威、クリスティン・コウゼンズ Christin Couzens はそれをいやというほど知っている。この若き女性歯科医はデンバーの貧しい地区で何年もの間、クリニックを経営してきた。彼女の天命は、少し後、2007年11月のある日、シアトルの有名ホテルで生まれた。保険会社の医療担当幹部になった彼女は、糖尿病に関するシンポジウムに出席する。驚くべきことに、糖の危険性には殆ど言及されなかった! 脂肪、塩、太り過ぎ、運動不足は確かにそうだ。しかし糖については一言もなかった。歯科医に向けて配布された予防のためのパンフレットにも、一行たりとも。「太り過ぎのことしか話されなかった。しかし糖尿病患者が全員太っているというわけではない! 私は自分の目が信じられなかった。」 1リットル当たり44グラムの砂糖が入ったアイスティーの小瓶をガブ飲みすることはまずまずの体重におさまっている限り健康には悪くないと断言した有名な栄養学者を、廊下で追いかけたことを彼女は覚えている。「彼は、砂糖が慢性疾患の原因になり得ることを証明した研究は一切なかったと断言しながら、私を見下したようにじろりと見て…逃げ出した。」

 その日、クリスティンは抵抗運動に入った。数か月後、ジュリア・ロバーツが演じた怒れる活動家、エリン・ブロコビッチが環境保護運動で演じた役割を彼女は砂糖反対運動で担うようになった。砂糖の巨大企業(ドミノ、クリスタル)、砂糖入り飲料(コカコーラ、ペプシコ)と農産物加工業(ナビスコ、ジェネラルミルズ、クラフト、ネスレ)はじっとしているしかなかった! 15か月間の全方位にわたる調査の後、宝の山を見つけた。ある破産宣告した製糖会社の記録、30年間のロビー活動と情報操作を物語る、1500ページの秘密文書である。彼女の極めて丹念に掘り下げた調査結果は、2012年12月に雑誌『マザー・ジョーンズ Mother Jones』に掲載された。製糖業者を結集する強大なSugar Association (砂糖協会)が、予定された衰退を食い止めるために、世論をひっくり返すことに、1970年代からいかにして成功してきたかを彼女は発見した。健康を損なう影響を科学者たちが突き止めていた食物を、全米糖尿病対策協会も心臓病の専門家も、100万ドル近い年間広報予算を与えられて、何も批判する所のない無害な栄養分に変えることができたのは、どうしてか。最も有名な大学に侵入して、結論が自分の気に入らない可能性が出てくるとすぐに息の根を止め、反対に脂肪の危険性を前面に出すときには賄賂を贈って、いかにして砂糖協会は直接に研究に資金供与したのか。

 「1980年代、二つの学派が対立していた」、カリフォルニア大学の有名な内分泌学者で肥満の専門家、ロバート・ラスティグRobert Lustig は説明する。「一方はアメリカの栄養学者アンセル・キーズAncel Keys に率いられ、脂質を叩いていた。ロンドン大学教授、ジョン・ユドキンJohn Yudkin 率いるもう一方は、糖質を非難していた。3つの科学的研究に基づいて、ユドキンは敗れ、文字通り相手方に叩き潰された。彼の業績は信用を失った。しかし誰もが知らなかったことは、これら3つの研究が砂糖のロビーから資金提供を受けていたということだ!」

 コウゼンズの調査はユドキンの研究を名誉回復しただけではない。それらはまた、製糖業界の研究会であるISRF(国際砂糖研究財団)がいかにして公衆衛生局に影響を与えることに成功したか、あるいは、それが不可能だったときに、矛盾した研究を発表することで疑問の種をまくことに成功したかを明らかにする。インチキな研究のおかげで、合成甘味料への道をいかにして全面的に切断し、さらには一部を禁止させさえしたのか。全てが逆の結論を証明していたにもかかわらず、糖質の治療的効用を証明する研究を発表させる力業をいかにして完成させたのか。これらロビイストたちの一人には、続いて葉巻製造業の協会のトップを約束されるに値し、砂糖協会にとっては、「世論を作り上げることに貢献した」ことで、広告業界のオスカー、シルバー・アンビル賞を獲得するに値する勝利だった! 実際、よくぞ騙されてきた。20年近くもの間、脂質が全ての病気の原因にされてきたにもかかわらず、糖質の消費と慢性疾患との関係に関する研究は殆ど行われないことになる。

 1980年代、それは低脂肪製品の爆発だ。ロバート・ラスティグの表現を借りれば、ペストのように避けること。「食品から脂肪分を取り去れば、実に味気ない。消費者に気に入られ続けるために、業者は脂肪を置き換えることになる…糖質で!」 この医師によれば、まさにもっと悪いことである。「良い糖質などない。良い脂質はあるのに。」  20年足らずのうちに、米国では肥満者の数は2倍になった。アメリカ人の半数以上は現在、太り過ぎでありそのうち900万人は子供である。2400万人が糖尿病にかかり、7900万人が糖尿病予備軍の兆候を示している。肥満は今日、この国の2番目の死因とされる。

 確かに、砂糖のロビーだけが問題であるわけではない。しかし、ロバート・ラスティグによれば、非常に広範囲に責任がある。「食物脂肪の組織されたロビーはない。非常に古く、実によく組織され、相当な金銭的手段を備えた、砂糖のロビーがある一方で。」 1世紀を超える歴史を持った同ロビーはリチャード・ニクソンの1970年代に定着することになる。農産物価格の高騰の最中に、再選を目論んだ大統領は、後に農産物加工業に革命をもたらすことになる、トウモロコシの集中的生産という大規模な計画を開始する。それは、価格を維持することを目的としていた、生産割り当てを終わらせる。生産できるだけ生産するように奨励された農家は、億万長者になる。

 過剰生産が原因で価格が暴落したとき、日本で発明された新しい手法が、余剰生産物を売りさばくために都合よく現れる。それがコーンシロップの到来である。栄養学的な恐怖だが、商業的には思いがけない贈り物だ。ヨーロッパではブドウ糖果糖と呼ばれ、アメリカではHFCS(高濃度果糖コーンシロップ)と呼ばれる、非常に甘く、砂糖よりはずっと安く、料理のより長期の保存を可能にする、このトウモロコシ由来の製品は、後にアメリカのほぼ全ての食品に浸透することになる。パン、肉、砂糖菓子、ケーキ、ヨーグルト… 至る所で見られる。炭酸飲料を始めとして。コカコーラが、1980年代にHFCSのために砂糖を捨てる最初の会社の一つとなり、競合他社が後に続いた。

 公衆衛生に関して莫大な被害をもたらすこれらの飲料は今、平均して一人当たり年間190リットル飲むアメリカ人の食生活における第一の糖質摂取元になっている… 肥満そして糖尿病との関係はもはや疑いようもない。それでも農業省は2010年に二つ科学的報告に基づいて、糖分まみれの飲料が肥満につながるわけではないと図々しくも断言して憚らなかった。それら二つの報告の一つは砂糖事務所(砂糖協会の英国版)を顧客に持つコンサルタントの指揮下で書かれた。二番目は直接IRSFによって指揮されている。

 「それはまさしく、タバコ産業の方法だ」と、クリスティン・コウゼンズは強調する。「タバコ産業のように、製糖業界は非常に手際が良い。疾病と砂糖製品との間に何の関係もないと証明することを目的とした研究を行う科学者に金を払いもする。市民団体や消費者団体に幅広い献金をして、社会や議員の支持を買収してきた」と、イェール大学教授で肥満の専門家、ケリー・ブラウネル Kelly Brownell は付け加える。実例は? ニューヨーク市長、マイケル・ブルームバーグは、フィラデルフィア市長と同じように、砂糖まみれの飲料への課税を実施しようと試みた。コカとペプシはすぐに、公権力が人々の消費するものに介入すべきではない、そのような税は決して機能しないと主張して、集中的なロビー活動を開始した。また、子供の肥満に対処するためにフィラデルフィアの小児病院でのサービスに資金を提供することができるようにした、1000万ドルの資金を持つ「アメリカ健康財団」も創設した。肺がん治療センターのスポンサーになるタバコ製造会社のように…


NATACHA TATU

Le Nouvel Observateur du 14 au 20 mars 2013, no 2525



詳細は記しませんが、糖質制限に出会っていなかったら、私が今、ここでこうして生きていることもなかったかもしれません。日本糖尿病作成学会が勧める、総摂取カロリーの55~60%を糖質にするなどという、極端な高糖質・カロリー制限食を真に受けて実践していたら・・・ 想像することさえ恐ろしい。

同学会はよく、糖質制限食の「長期的影響」が明らかではないという論法を用いますが、では彼らが勧める、極端な高糖質食はどうなのでしょうか? 短期的にもどうにもならない治療法では、もはや長期的成績などと口にするのも憚られるような程度のものではないでしょうか。文句があるなら、エビデンス(笑)を示してください。

糖質制限食の「長期的影響」を云々して批判する側が薬物の長期的影響を云々しないのは、いずれ無効化するか、合併症で患者側の身がもたないかのいずれかで、最初から長期的影響を考慮する必要もないからではと、突っ込みたくもなります。本来の記事から少々脱線してしまいましたが…



参考:

ドクター江部の糖尿病徒然日記

新しい創傷治癒:糖質制限







このブログを始めてから、下らない短い記事でもなんでも、少なくとも1か月に1度は更新してきましたが、とうとう先月は途切れてしまいました。こうなってしまうと、恐らく近いうちに、このブログは消滅してしまうだろうと思われても不思議ではないし、私自身、そう思っています。自らの生命と同様に。

自分にとってはこれで最終になるかもしれない記事を紹介しておきます。

かなり古くて申し訳ありませんが、週刊誌 Le Nouvel Observateur の2012年8月30-9月5日(通巻2495)に掲載された、下記の題名の記事です。




Les débats de l’Ohs 

L’économie ne fait pas le bonheur



Exclusif. L’économiste publie “Homo economicus” chez Albin Michel, un nouvel essai passionnant dans lequel il propose une réflexion au long cours sur le rapport entre la quête du bonheur individuel et la marche des sociétés

(経済学者ダニエル・コーエンはアルバン・ミシェルから夢中にさせる新しいエッセー、『ホモ・エコノミクス』を出版した。その中で、個人の幸福追求と社会の進歩との関係に関する長期にわたる考察を提案する)


UN ENTRETIEN AVEC DANIEL COHEN  




Le Nouvel Observateur あなたの新著では、「ホモ・エコノミクス」を「新時代の血迷った予言者」として幅を利かせる、世界の主人として描いています。なぜですか?

Daniel Cohen この本は、問題を巧みに要約する逸話で始まります。輸血センターの局長がストックを増やしたいと考え、そうするために、献血者に奨励金を出します。しかし、彼が茫然としたことに、献血者の人数は激減します! マヤ・ボヴァレ Maya Beauvallet の名著、『 les Stratégies absurdes (不条理な戦略)』からお借りしたこの逸話は、何が問題になっているかを完璧に示しています。人々は利害によっても道徳的配慮によっても行動するが、同時に両方ではないということです! 局長は、他者の利益のために献血するという、道徳による奨励と、奨励金とを加算できると考えました。ところが、選ばなければならないのです。そこから、元に戻ることもできるし、さらに先に進むこと、つまり、献血者が戻ってくるように、報奨金を増やすこともできます。1980年代の転換点以後に資本主義が選んだのが、この後者の道です。資本主義は努力を促すために報奨金を増やし罰則を強化します。そうすることで、「労働の価値」を破壊します。良いことをする配慮、同僚に尊敬されること、などの。殆ど全ての分野で、労働は経済学の本に記述されているようなもの、すなわち生きる糧を稼ぐための喜ばしくない手段になってしまいました。労働はもはやそれ自体が満足の源ではありません。


あなたは協力と競争の間の均衡の断絶と言われます…

現代社会は実際、はるかにより競争的になっています。特別手当、あらゆる境域の格付けがいたるところで増えています。競争は協力よりも優位に立っています。ところが社会全体はその二つを結びつける義務があります。「人は人にとって狼である…」などという、この種の格言を口実にして競争が第一であると考えるのは人類学的な過ちでしょう。実験心理学の数多くの経験が、互いに信頼しあう、他者に対して相互性を示す、自発的な傾向を示しています…

資本主義そのものは、その論理が非常に異なる二つの型の機構に基づいています。つまり市場と企業であり、前者は競争を組織するために、後者は協力のために存在します。1980年代初めから金融資本主義によって引き起こされた断絶は、企業の内部そのものに市場の論理を押し付けることでした。しばしば個別化される特別手当、ボーナスは、労働との新たな関係を想像します。次第に多くなる仕事の外部化がさらなる圧力を加えます。至る所で、競争が前進し協力は後退します。


あなたの説では、以前よりもずっと増えた物質的豊かさにもかかわらず、フランスでも他の国でも、豊かな社会において、幸福は減少するか停滞するかしています。なぜですか?

この欲求不満を説明する心理的メカニズムは先験的には、極めて単純です。人々は、何事にも慣れるため、決して満足することがありません。しかし、経済学者が最終的に理解するに至った、本質的な点は、人類がこの適応そのものを予想することができない、ということです。人々は、現在持っているよりも多く持つことで幸福になると考えますが、それは単に、ひとたび豊かになれば、自分の必要も変わっていくということを理解できないでいるためにすぎません。豊かになることで手に入れると考える喜びは消え失せ、さらに多くが必要になりますが、常に無駄に終わります。

もう一つ別の要因が、より豊かであるという満足感を消し去ります。他者との比較です。誰もが、自分と比べる他人よりも相対的に成功することを望みます。そこでカーチェースが、誰もその論理を抑えることなく、始まります。私は隣人よりも豊かでありたい、そして隣人もまたそうでありたい、そして最後には競走は徒労になります。この理屈を用いる限り、幸福の追求は全体としては無駄です。人類は二度、失敗します。自分自身の憧れを理解することと、他者の決定に自己の決定を調和させることに。新本主義が可能とした恐るべき富の蓄積は、幸福な厳密な追求に関連付けるとすれば、不条理な原理に基づいていることになります。


この幸福への競走を規制することはできるでしょうか?

非常に難しいです。幸福は、人間自身の熱望を否定しては得られないからです。所得の下から4分の1の層にとって、月末は数十ユーロで決まります。彼らに例えば、「携帯電話は余計な贅沢品だ」などと言うのは、愚かしいことでしょう。誰もが人類の共同体の一部を成したいと思っています。このことが、社会の残り全体の進歩に比例して、必需品の水準を引き上げます。別の具体的な例を取り上げましょう。あらゆる調査が、一人の人生で最も苦痛に満ちた二つの瞬間が、離婚と解雇のそれであることを示しています。これらは最も頻繁になってしまいました。人が幸福を見つけられなくても驚くことではありません! 離婚は我々の社会で作用しているメカニズムの一部を明らかにします。私は、他者を愛さなくなれば離婚しますが、逆もまた真であって、結婚はより不安定的になり、結婚の競争はより深刻になっています。明らかに認めなければならないことですが、愛するという自由を口実に、しかし事実全体は変わっていません。解雇に関する新しいマネージメントの方法の影響を加えれば、社会は息苦しいものになりかねません。どのようにしてそこから脱却するか? 現代社会の罠について共同で考えることで。個人の幸福と我々の社会の歩みとの関係を緊急に考え直す必要があります。


あなたの考えでは、個人の幸福という問題は経済的思想から除外できません。「悲しき世界化」の時代に、これからは「国内総幸福(BIB、英語だったらGDH)」の範囲で考えることが急を要するのでしょうか?

PIB(国内総生産、GDP)は物質的財産しか考慮しませんが、それらは問題の一部を形作るだけです。経済学者ブリュノ・フレー (Bruno Frey) は人を幸せにする二つのカテゴリーの財産を区別しました。外部的財産と内在的財産です。前者は、威信への社会闘争に勝つことを可能にする、地位や、大きな車、しゃれた家を人に与えます。後者のカテゴリーはより静かな喜び、友人との会話がもたらす喜びあなたを育てる本、近親者への愛がもたらす喜びによって形作られます。聖人か社交界の人間でもない限り、幸せであるためには2種類の財産が確かに必要です。しかしここでの問題もまた、内在的財産がもたらす満足を人は過小評価しがちだということです。人は素晴らしい家を欲しがり、土地の価格を減らすために都心から遠くに家を買わなければならないと考えます。しかしそうすることで、移動の心理的費用を低く見積もり、結局、そう認めることなく、不幸になります。幸福に関する調査は、25歳から60歳にかけて、幸福度が低下する傾向にありますが、続いて再び上昇し始め、徐々に青年期の水準よりも高くなることを示しています。その理由はおそらく、年齢が上昇すると内在的財産により注意深くなるからでしょう… したがって、わずかな費用で幸福を増やせるようになります…


あなたは現在の世界の脱中心化を強調しています。今や70%が新興国からもたらされている世界の経済成長がこの変動を証明しているとあなたは記しています。それはつまり、人口統計、人口の比重が再び世界の富の均衡を再び支配し始めるということなのでしょうか?

1990年代の初めには、世界の成長は実際に70%が富裕国から、30%が貧困国から得られていました。象徴的に、2001年、二つの曲線が交差しました。その後、比率は逆転しました。世界の成長は今や70%が新興国を源としています。我々は議論の余地なく、世界の富の再分配のやり直しの時代を生きています。最も貧しい国々はまた、20世紀には最も人口の多い国々でした。これらの国々は住民一人当たりの所得に関して我々に追いつこうと、したがって全体の富としては我々を追い越そうとしています。過去と同様に、人口統計の比重が再び、力の均衡を決定づけようとしています。そのため、人口動態から旧貧困国が有利になります。それはそれとして、個人の満足に関しては新興国も既に富裕国と同じ障害に直面しています。幸福の経済分析の父、リチャード・イースタリンが、中国における満足度の指標を研究しました。20年間に平均所得が4倍( !)になったにもかかわらず、中国人の幸福感の指標は平均して停滞しています。上位3分の1は確かに増加しましたが、下位3分の1の層の低下分に応じて、であり、中位3分の1は20年前と同じ低水準に留まっています。イースタリンやこの現象を研究した他の著者によれば、極度の社会的な対抗意識が、所得上昇の効果を弱めて、中国の幸福を減少させています。


西洋の金融危機は、その取り返しのつかない衰退を現しているのでしょうか?

世界の金融危機は、これらのあらゆる要素が交わったところに位置しています。新しい金融資本主義は、1950年代と60年代にアメリカに存在することができた中流階級の社会を撲滅しました。アメリカ的な不平等の増大は、中流階級と大衆階級に、社会の中で自らの位置を保つための借金しか残しませんでした。どれだけのアメリカの政治制度がこれらの問題を解決するために理解されるのに苦労しているかは、目覚ましいものがあります。社会が衰退したままにするという驚くほどの諦めがあります。アメリカの市民精神の衰退はその点で、危機の本質的な所与でもあります。社会学者ロバート・パットナムは、著書『 Bowling Alone (孤独なボウリング)』で、アメリカ人が自らの社会生活を形成していた制度全体が崩壊するままにしていたことを示しています。トクヴィルが注意を促していたように、アメリカの個人主義は、教会、保護者会、ボーリング・クラブ…といった、あらゆる種類のコミュニティーを形成したいという正反対の偏執との関係で把握されなければ、理解できません。過去50年間で、この社会構造はほどかれてきました。一人でボウリングをし、選挙へ参加と全く同じように、保護者会は二つに分裂し… その結果、自分が幸せだと言うアメリカ人の割合は3分の1減少しました。

私はこの本の中で、公的財政の危機と道徳的指針の喪失の影響によって既に、3世紀から亀裂が入っていた、ローマ社会との相似性を分析しています。この時代の最も偉大な専門家の一人、ピーター・ブラウンによると、3世紀は強者が、自らの富を白日の下にさらけ出すままにした時代です。私有の別荘が神にささげられた寺院よりも高くなります。彼が説明するには、この時代は均衡の時代から野望の時代への移行を意味しています。自らの成功を、突然流行遅れになった慎みから覆い隠していたエリートが、屈託なくひけらかします。現在のアメリカ社会の危機を記述するために用いられた表現だと思われるでしょう! キリスト教がローマ社会の問題に解決をもたらすことになります。またしてもブラウンによると、他人に「私はキリスト教徒です」と言い、「私もそうです」という答えを聞くことは、社会が解決できずにいた緊張によって蝕まれた社会に解決をもたらすことになります…


だからアメリカの衰退をローマの衰退に喩えるべきなのですか?

たとえ比喩が魅力的であっても、私は衰退という意味での分析は好みません。なぜならこうした分析は歴史を衰退する文明と侵入する野蛮の間の永遠の紛争に固めてしまうからです。私はもっとずっと幅広い問いかけを想定します。中国そのものが、不平等、社会規範の喪失というアメリカと同じ病に苦しむ、老いつつある国民です。それ自身が大きな経済危機には非常に脆弱です。私の目には、世界の不安定さの主な要因がそこにあります。衰退という表現を繰り返すなら、中国の早期の衰退です…


「我々の時代の中心的な逆説は次のようのものである。社会的欲求が商業の論理に組み込まれるのに苦労している時に、経済が世界の指揮を執ることを求められていることだ。」とあなたは書いています。伝統的な経済の型に収まらない、脱工業化社会の欲求とはどのようなものですか?

現代の逆説とは実際、経済は至る所で自らのモデルを書き取らせる傾向にあるが、それは社会的欲求の変化が別の方向に向かっている時だということです。特に教育と健康がそうであるような、脱工業化社会の大きな関心の中心は商業社会の枠には収まりません。教員や医師に、例えば成果に応じて奨励金を与えようと試みれば、直ちに教育や健康の破局に至ります。あなたがある教師に、バカロレアの結果に応じて特別手当を出すと言うとしたら、あなたは彼に、何の機会も持たない最も出来の悪い生徒と、いずれにしても機会のある最も出来の良い生徒を見捨てる気にさせているということです! 結局、効果を上げると見なされる手当は教師に、クラスのごく少数の生徒にしか関心を持たせないようにすることになります! これは何もしてはならないということを意味するのではなく、政権に就いた左翼の試練の一つが、商業の論理から着想を得たものとは異なる規制の手段を作り出すことでしょう。医療制度についても同じことが言えます。


それではデジタル革命は?

デジタルの世界は脱工業化社会のもう一つの側面です。いまでもまだ、自らの「ビジネスモデル」を見出すのに苦労しています。報道、音楽編集といった自らが関わる部門の価値観を破壊しますが、なおも自らにとって効率の良いモデルを探しています。グーグルやフェースブックといった巨人は、その利用者の相当の人数という力によって金を稼ぐことに成功しています。しかしフェースブックは登録者一人につき年間で3ユーロ足らずの売り上げを生んでいるだけです。マルクスは私的所有制と生産力と彼が読んでいたものの発達との矛盾による資本主義の衰退を予測していました。デジタルの世界でも、同じ状態にあります…


あなたによれば、「新技術の経済全体に対する牽引力は不確実なままです。20世紀の産業の成長を繰り返すこと、さらにはそれに近づくことを可能にすることはありそうにないようです」。人類は拡大した貧困化を余儀なくされているのでしょうか?

今日、経済活動の中心は近場のサービス業と無形物の生産にあります。そこでは、著しい生産性と成長の向上が特に情報革命のおかげで可能になっています。しかし、産業革命、情報技術による革命と、それに先立つ、前世紀の電力によるそれと、その前の世紀の蒸気機関による革命との間には、根本的な違いがあります。先の二つはエネルギー革命であり、労働者の力を機械的に増大させました。情報革命は、労働を再構成し強化し、無駄な時間を減らし、重複をなくし、勤労者の同時多重活動を組むことでしか生産性を増大させることができません。フィリップ・アスケナジが「ネオ・スタハノフ運動 néo-statkhanovisme 」と呼ぶものを生み出します。したがって成長は別の性質のものであり、生産の拡大よりもコストカッティング、つまり費用の削減に働きます。その潜在的可能性は、大量生産の偉大な時代よりも弱くならざるを得ません。


あなたの考えでは、ユーロは新たな「黄金の牢獄」に変質してしまい、「弱い国々に押し付けられた緊縮策は病より悪い治療薬を創っている」ということになります。何をすべきでしょうか?

ヨーロッパは実存の危機に直面しています。欧州建設のパイオニアたちは、経済統合が政治統合へと至ることに賭けていました。現在の指導者層は、それが予想通りには進まないという、苦痛に満ちた発見をします。経済はそれ自身にしか通じないし、政治的市民権には至らないのです。今日、ドイツ人はギリシャ人やスペイン人のために金を払いたいと思っていないし、それによって1930年代と同じ過ちを繰り返しています。つまり、結集力も指針もないままに金融市場が冷静さを失うに任せています。ケインズは戦後、中央銀行の金準備高に制約されることなく、困難に陥った国々に流動性を提供することができる、超国家的な通貨の創設を弁護していました。実に、ケインズが強く求めた手段であるユーロが創設されたわけですが、我々はそれを利用することを拒否しています! 現在の問題は次の点に要約されます。ドイツ人が、欧州中央銀行が市場の意に反して国家を防衛することを認めるのか、市場は国家が服従するべき真実を持っていると考え続けるのか、と。ここで人は、理性と迷信の間を漂っています… 経済は市民権には通じていませんが、連帯と混沌の間で選択することを強いるのは経済の機能不全です… ルーズベルトは、1930年代の危機から脱出するためにアメリカ国民にニューディールを提供することができましたが、続いて新しい連帯という理想を創り出すのはとりわけ、戦争です。平時に、同じ努力をしなければならないのです! 


Propos recueillis par
FRANÇOIS ARMANET et GILLES ANQUETIL


Le Nouvel Observateu du 30 août au 5 septembre 2012, n° 2495


DANIEL COHEN est professeur à l’Ecole normale supérieure, vice-président de l’Ecole d’Economie de Paris et directeur du Centre pour la Recherche économique et ses Applications (Cepremap). Son précédent ouvrage, « la Prospérité du vice » (Albin Michel, 2009), a été vendu à 100000 exemplaires.


PAGES D'ECRITURE-HOMO ECONOMICUS

“Homo economicus, prophète (égaré) des temps nouveaux”
. Dans son nouveau livre, Daniel Cohen propose une réflexion au long cours sur le rapport entre la quête du bonheur individuel et la marche des sociétés. Passant de la Rome antique au Pékin d’aujourd’hui, scrutant les enjeux des révolutions numérique et génétique, il remet en question l’économie qui impose son modèle hégémonique, celui où la compétition féroce l’emporte sur la coopération. Pour l’économiste, rien n’est pourtant inéluctable dans ces évolutions, et il ouvre de nouvelles pistes.



ここに挙げた本を紀伊國屋書店で1か月かかって取り寄せて、実際に読んだときの知的興奮は忘れられません。特に、皮肉にも新宿の献血ルームの待合室で、序文の献血に関する話題を読んでいるときの皮肉さといったら… この本を訳して、このブログに掲載することも一時考えましたが、現在の仕事の多忙さと片道100キロ超の通勤距離から考えて、とても無理のように思えます。


【追記】
この後、著者による別の著書、La prospérité du vice (悪徳の栄え)の邦訳が出版されていました。



経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える