Les bonnes surprises de l’école 学校の素晴らしい驚き | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

どこかの国では、一生懸命働いていても納税額が「高額納税者」に足りないというだけで国家に牙をむかれるということが、以前からありましたが、ついに、「奨学金」という商品名のついた、自称「公」の教育ローンに手を出さざるを得ない学生にまで、牙をむいてきました。働けど働けど、高額納税者になれないのは私の自己責任(笑)であり、生きていること自体がこの国では「罪」だそうですから仕方ありませんが、罪のない学生にまで牙をむくとは、何と恐ろしい。

詳しくは、 村野瀬玲奈の秘書課広報室 | 借金させていただくために無報酬労働奉仕を強制される国、日本。(んげ。)  をご覧下さい。

これとは直接関係ありませんが、教育関係で訳したのに忘れていて埋もれていた記事があったのを思い出しました。

週刊誌 Le Nouvel Observateur の2010年8月26-9月1日(通巻2390)に掲載された Les bonnes surprises de l’école (学校の素晴らしい驚き)という記事です。



LES DÉBATS DE L’OBS

Les bonnes surprises de l’école

par Marie Duru-Bellat et François Dubet

 

学校の新学期に、多数の国々の教育制度を比較する刺激的なエッセー、『 les Sociétés et leur école (社会とその学校)』が出版される。その著者の二人との会談。


Le Nouvel Observateur. – 学校の新学期の直前に、あなた方は先進国の社会とその学校が維持する関係についての本を出版されました。この本は何か新しいことをもたらすでしょうか?
Marie Duru-Bellat. – しばしば信じられているように、私たちは学校が本当に社会に透写されているかを知りたいと思っていました。例えば、非常に不平等な社会では、学校もまた不平等なのか?この問いに答えるためには、様々な国の間で比較する必要がありました。そこで我々は今、相当量の国際比較を手にしています。

N. O. - あなた方は、それほど単純でないことを確認した・・・
M. Duru-Bellat. - 実際に。たとえ学校の不平等が社会的不平等を決定するとしても、全ての社会で、管理職の子どもが移民労働者の子どもよりも成功しやすいとしても、それが自動的ではないことが確認できます。一部の国では、社会と学校との間にやや不思議な隔たりがあります。例えばカナダでは、社会は不平等、つまり所得の格差が非常に大きいのですが、学校は比較的平等です。別の言い方をすれば、子どもたちの学校での成績はその出身階層にはほとんど関連していないということです。フランスでは反対に、学校は社会よりも不平等です。社会とその学校との接合は満足できるものではありません。関心は、その理由を理解することと、行動するための手がかりをそこから引き出すことでした。

N. O. - あなた方は、どのようにして研究しましたか?
François Dubet. - 私たちは卒業証書の社会的有用性、仕事を見つけ社会に組み込まれるための重要性に興味を持ちました。それは私たちが「卒業証書の支配」と呼んだものです。フランスでは、この支配はどちらかというと強く、いずれにしてもグランドゼコールのような非常に選別的な卒業証書に関してはそうです。しかし例えばイタリアでは、その支配ははるかに弱い。ブルデュー (Pierre Bourdieu) の意味での「遺産相続者たち les héritiers 」は、より高い学位の証書を手にすることができますが、そこから得られる特典はフランスよりも少ないのです。

N. O. - 卒業証書のこの強力な支配は何に結び付いているのですか?
François Dubet. - 全ての国々で確認される、一定の相関が存在します。卒業証書が重要な役割を演じれば演じるほど、学校の不平等は強くなります。そのことは容易に理解できます。私が、自分の子どもの将来の全てが学校にかかっていると信じていれば、子どもが成功するために圧力を強めることが得だということになり、こうした個人の動きは実際に、子どもの間の格差を拡大する集団効果を生むことになります。
M. Duru-Bellat. – 卒業証書は学校と社会の間の決定的な接点です。ところがその接点はほとんど研究されていませんでした。社会的再生産に関するブルデューとパスロン (Jean-Claude Passeron、『再生産』『遺産相続者たち』などの共著者)の理論では、全てが学校にかかっていて、続いて卒業証書が社会的特典に、機械的に変えられたという仮説が提示されていました。実際に、これは国によって多かれ少なかれ当てはまります。

N. O. - 他の国ではフランスほど卒業証書が排他的な役割を演じていないということですか?
M. Duru-Bellat. - そうです。社会生活に参加するための他の手段が存在します。(短期)研修、職業生活を通じての訓練、生涯教育・・・ そして時に、自分の時間を取ることができます。例えばデンマークでは、20歳になると世界旅行に行くことができます。恐らく、大学学部に間違って進路指導されて1年間を失うことに比べたら有益な経験です。それから学業を再開するために大学に戻ることができます。

N. O. - 卒業証書の支配が非常に弱い国の例を挙げることができますか?
M. Duru-Bellat. - 北欧諸国と新しい自由の国々、すなわちオーストラリア、ニュージーランドです。実は、言葉の喜ばしい意味での我々のアメリカは今、オーストラリアであり、ニュージーランドです。仕事がないときに若者が行くのはそれらの国です。

N. O. - 卒業証書が世界中どこでも同じ重要性を持たないことをどのように説明すればよいでしょうか?
F. Dubet. - 労働組合と経営者団体が重要な役割を持っています。北欧諸国では、ある種の不公平と認識されている、当初の卒業証書に重要性を与え過ぎないように努めてきました。ドイツの場合、職業生活における訓練に非常に大きな重要性が与えられ、労働組合も経営者団体もその重要性を把握してきました。それは今まさしく、第二の機会になっています。その結果、学校に対する圧力を和らげ、学校の雰囲気はより緩やかになっています。

N. O. - フランスでは何が邪魔し、我々を外国と違うものにしているのでしょうか?
M. Duru-Bellat. - フランスには、ご存知のように、「王道」に由来する卒業証書、すなわちグランド・ゼコールの卒業証書の強力な支配があります。低学年のうちから、非常に早期に競争の論理に組み込まれます。これは非常に不安を引き起こします。子どもは実に早くから分類され、実に早いうちから採点されます。このことは外国の視察団を大いに驚かせます。子どもたちは、より良い中学、次により良い高校に行くために争い合うことになります。結果として、社会的結合の要因にならないことがよく理解できます。学校制度の勝者は、学校で失敗した生徒を軽蔑することを学びます。自分たちの労働者や従業員になる者として。
F. Dubet. - 学校に、本来学校が担うべきもの以上のことが期待されています。社会正義、国民の統合、経済的進歩、個人の自己実現・・・ たった一つに機関に対して多すぎます。期待されることが少なければ、恐らく学校にとっても生徒にとっても、より良い状態になるでしょう。

N. O. - フランスでは、なぜこれほどまでに学校に負担がかかるのでしょうか?学校は我々の社会の反映なのか、我々の社会が我々の学校の結果なのか?
F. Dubet. - ジュール・フェリー Jules Ferry は、フランスと共和国を作り上げるために、grande école républicaine (共和国の大学校制)を創設しました。現代的国民国家を作ったのは学校です。それはブルターニュ人とプロヴァンス人をフランス人に変えました。この学校制度は教会と救済のモデルを基に考えられました。学校は社会を接合し「救済し」なければならないと。我々国民の想像の世界では、学校での経歴だけが尊敬に値します。類稀な学業の成功のおかげで閣僚になった農民の子どもは、商業や工業で財を成した農民の子どもよりもずっと称賛されます。前者が必ずしもより有益というわけではないのに。15年前、よく勉強する子どもは社会で「飛躍」すべきだと断言したシラクによって始められた、社会的上昇機構の歴史を通じてこの表現は持続します。この上昇の機構は周縁的でしたが、今でも次のように言われるほどに真実であるかのように定着しています。つまり、郊外を救うためには、何人かの生徒を、上昇できるように、優れた学校に入れるべきだと。

N. O. - 社会的上昇は存在したことがなかったのですか?
M. Duru-Bellat. - 経済が門戸を開いているときには存在します!栄光の30年 Trente Glorieuses の間、学位取得者は殆どいませんでした。そのことが、たとえ学歴は低くても成長に貢献してきた管理職の雇用の増大を妨げることはありませんでした。この時代の要求は、学校のおかげではありませんでした。

N. O. - 生涯にわたる社会的地位を授ける卒業証書にこれほどまでに法外な比重をフランスで与えるようになったのはどうしてですか?
M. Duru-Bellat. - カトリックと共和主義のおかげもあって、経済による昇進には道義的に疑わしいものがあると考えられているからです。卒業証書と文化による昇進だけが尊敬に値するのです。卒業証書は「祝福すべき財産」であり、役に立つだけでなく、社会的で時に道徳的な尊厳を授けます。英国、ドイツあるいはアメリカ合衆国では、資本家のイメージは、貪欲で乱暴な起業家であるだけでなく、富と雇用の創造者でもある一方で、フランスでは資本家のイメージはむしろ、有閑階級の搾取者、遊び人、そしてしばしば不正直者のイメージです。反対に、ビジネスよりも理性に近い技師や教師には、ずっと肯定的な印象があります。

N. O. - 我国の卒業証書への競争は学校の雰囲気に影響していますか?
F. Dubet. - もちろん!フランスは学校の成績に関してはOECD諸国の平均にあります。しかし学校の雰囲気の認識は非常に悪いです。青少年は、自分の教師を殆ど信頼していないと断言し、学校にほとんど溶け込んでいないと感じています。フランスの学校は「感じがよい」ものではありません。生徒は友達がいるから学校に行くのであって、授業のためではありません。教師の側ではこう言っています、生徒が利口だったら上手く行くが、そうでなれば彼らに関わりたくない、と。外国の視察団は時に、我々の学校を、大人の集団と若者の集団の間の緊張状態として描きます。その結果、我々は、本来あるべきだった状態よりも暴力的な学校を持つことになります。英国にはフランスよりも和らいだ学校があります。学校と社会の不平等が必ずしも小さくないにも関わらず。
M. Duru-Bellat. - 私たちは、愛想の良い、好意的で注意深く、緊張が解けた学校が、より良い社会を作ると考えています。しかし、あえてそれを言われることはありません。余りにも「baba cool」に見えるようです。

N. O. - 何が学校の良い雰囲気を作り出すでしょうか?
M. Duru-Bellat. - 生徒を全体として世話することとの相関があることが観察されています。例えばイタリアでは、教師は学食で生徒と一緒に昼食を摂り、一日中学校にいて、家庭の状況も知っています・・・
F. Dubet. - フィンランドでは、教員は学校内にオフィスを持ち、全生徒が教員の携帯電話の番号とメールアドレスを知っています。自分を助けてもらうために、教員に接触できます。それが職業倫理の一部になっています。全員で生徒を助けます。フランスでは、しばしば、生徒は教室で質問をしようとしないほど、教師と同級生の反応を恐れています。

N. O. - 変わるための戦術の余地はありますか?
F. Dubet. - 国際的な比較が有用なのはその点です。カナダの例は興味深い。なぜなら、カナダ経済はアメリカ経済の延長だからです。ところがカナダ人はアメリカ人ほど学校にお金をかけませんが、より良い成績を収めています。生徒はずっと信頼しています。というのは、社会的出自が余り決定的な意味を持たないからです。カナダ人は医療制度にも余りお金をかけていませんが、より良好な健康状態にあります。犯罪発生率は有意に低いです。それが楽観主義の理由です。同じ経済モデルの内部で、実際に政治的行動の大きな余地があるのです。

N. O. - 状況を変えるためにフランスで何をすべきでしょうか?
F. Dubet. - まず第一に、エリートの選別に基づいて学校政策を築くことをやめるべきでしょう。そしてまた、基礎がなく、決して授業についていくことのできない、15%から20%の、最も学力の低い少年に「大金をつぎ込む」べきです。この数字は決して宿命ではありません。我国では近隣諸国よりも高いのです。次に、学校が社会的地位の授与の独占権を持つべきではありません。私は16歳で学校で躓きましたが、それで? 私には別のことを再び始める権利があります。
M. Duru-Bellat. - あらゆる職業に就くための、複数の経路を増やすべきです。そのことは、全ての人に知識の共通の基盤を保障することを前提とします。若者の運命を閉ざすもの、それは一部の人がこの共通の基盤を身につけられないということです。

N. O. - 第二の機会の学校ということですが?
F. Dubet. - そう。断絶した青年を再び就学させる高校、そして平行な経路、見習い、学業の再開、生涯教育・・・のように。企業にその責任を負わせることも必要です。企業には養成の義務があります。欧州での比較は、学業、実習、労働を結び付ける大学制度が、学ぶにしても働くにしても、フランス式のチューブよりもずっと有効で、学生は幸福であるということを示しています。職業的能力の価値をより高めることで、完璧な世界が創れるわけではありませんが、緊張を緩和することはできます。ところがフランスでは、学校の状況ははるかに緊張し、フランスの生徒は不安になり、自分自身も教師も信頼していません。このことが陰鬱で、臆病で、階級低下の恐怖にとりつかれた社会の形成に関与しています。

N. O. - 学校での圧力と学校への圧力が少なくなることは、ある意味フランスにおける文化革命ではないでしょうか?br> F. Dubet. - 我々はそう信じています、そして我々には希望の義務があります! もしも左翼に、学校の選別の勝者が必ずしも聞きたがらないことを言う勇気があれば、こう断言できたでしょう。「学校は世界をもっと過酷でないものにすることができる。しかし人は学校に、社会を救うこと、郊外の問題を解決すること、社会の不平等をなくすこと、そして全ての問題を解決することを要求すべきではない・・・」と。この常に裏切られる作り話を無限に繰り返すことをやめましょう。学校が非常に変化し現在、同学年に1950年代の初等教育修了証書所持者よりも多くのバカロレア所持者がいるときに、1880年に作り上げられた学校という想像世界と決別すべきです。
M. Duru-Bellat. - このモデルの変化は欧州レベルでの動きの中にあります。教育に関する論争で、主題は古くから、学業の期間を長くしよう、同一年齢層の50%を大学へ・・・というものでした。最近数年間でメッセージは変わってきています。成人のための教育訓練のテーマが、幼少期への援助のテーマと同様に、戻ってきています。学校における不平等が持続的であることが実感され、それを根元から捉えるか後で治療することが必要であると実感されています。学校への圧力を強めるよりも、鎖の両端に介入するべきです。


Propos recueillis par
CAROLINE BRIZARD et PATRICK FAUCONNIER


Le Nouvel Observateur 2390 26 AOÛT-1 SEPTEMBRE 2010


http://hebdo.nouvelobs.com/sommaire/les-debats/100147/les-bonnes-surprises-de-l-ecole.html


借金させていただくために無報酬労働奉仕を強制される、んげ。な国 とは全く関係ありません。というか、そういう国の話は出てきません。同じく、奨学金という名の教育ローンが貧困ビジネスになっていて、連邦破産法も適用されず、死ぬまで借金が追いかけてくる、否、死んでも逃れられない、某宗主国さまのことも、カナダとの比較で出てくるだけです。

今回引用したのはかなり古い記事であり、ここで言及されている『 les Sociétés et leur école (社会とその学校)』という本は既に出版されているはずです。この中で、借金させていただくために無報酬労働奉仕を強制される、んげ。な国 がどのように扱われているのかは気になるところですが、なんともいえません。

せめて、国際人権規約の社会権規約(A規約)の、中・高等教育の無償化 に対する留保を解除してから、国際比較の場面に登場すべきでしょう、借金させていただくために無報酬労働奉仕を強制される、んげ。な国は。

それから、無利子であっても返済義務のあるものは、「教育ローン」であって、奨学金ではないということは、国際的には常識です。借金させていただくために無報酬労働奉仕を強制される、んげ。な国は、「奨学金」という名の金融商品を「売って」いるのだから、低利であっても無利子であっても、返済義務以外に無償労働奉仕の強制など、余計な義務を課すことは狂っています(金利の代償として働けというのなら、それは「無償」労働ではありませんが、そんなもん、「奨学金」を名乗ったら詐欺でしょう)。銀行から住宅ローンを借りたら、銀行のためにただ働きしろなどと(ただでさえ金利分を貢いでいるのに)言われる筋合いが、世界のどこにあるでしょうか。(宗主国にはあったりするのかな)