学区制廃止後の、フランスのある中学校の報告 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

前回の 「大いなるはったり」:フランスの学区制廃止 の末尾で、「次回は関連記事として、同誌に掲載された Reportage au collège Lenain-De-Tillemont - Quand les bons élèves partent (ルナン=ド=ティルモン中学のルポルタージュ - 優秀な生徒が出て行くとき)という記事を元にしたエントリーを掲載する予定です。」と記したように、該当記事を引用します。

不思議なことに、本誌では マルティーヌ・ル・ペネック Martine Le Pennec と記述されている、この学校の校長先生の名前が、リンク先のWebでは、Martine Le Pennée (マルティーヌ・ル・ペネ)と記述されています。最近、Le Nouvel Observateur のWebの記事は、異常に誤植が多いので、注意が必要です。できの悪いOCRを使っているのか、フランス語をわかっていない人が入力しているのか知りませんが。



REPORTAGE AU COLLÈGE LENAIN-DE-TILLEMONT 

Quand les bons élèves partent



「私たちの生徒の3分の1が消えてしまった」、モントルィユMontreuil (セーヌ=サン=ドニSeine-Saint-Denis)のルナン=ド=ティルモンLenain-de-Tillemont中学の校長、マルティーヌ・ル・ペネック Martine Le Pennec は嘆く。入り口のポーチの上では、振り子時計が止まっている。校内では、音響装置付きの中庭が不釣合いに大きく見える。そこでは、建物は半分が廃用になっている。「2007年から今日までに、生徒数は498人から311人になった。そして私たちに残された生徒は、大きな困難を抱えている。」 その声には怒りが含まれている。2007年からの学区の漸進的な廃止は、ここでは中学の生徒募集部門の削減を伴い、一つの破局となった。青々とした競技場と菜園のマルケトリの間にある灰色の柵の下で、ルナン=ド=ティルモンはゲットー化した。

マルティーヌ・ル・ペネックはその覚悟を決めていない。この地理学の上級教員にとって、最低限の混成なくして成功はない。ところがここでは、学区の改革によって、既に限定的だった社会的混成は、完全に消え去った。「私たちの生徒の88%は恵まれない階層の出身だ」と、彼女は続ける。ソーシャルワーカーは問題の重みに倒れ込む。20人以上の生徒が、宿泊施設か受け入れ家庭への収容の対象になっている。地区の問題に言及するための遠まわしの言い方をすれば、「複雑な」生活である。この日の朝、一人の少年は、一夜を勾留されて過ごしたために授業に出て来られなかった。もう一人の少年が病院にいる。虐待事件だ。ここでは、生命に関わる問題が扱われている。飢餓、住宅からの追い出し、冬の衣服の必要性。「ここでは、インフルエンザA(訳注:日本では「新型インフルエンザ」と呼ばれているもの)よりも結核のことが心配されている」と、校長は結論付ける。

木曜日10時。星の付いた眼鏡の奥に不安そうな目を覗かせる、茶色の髪を後ろに束ねた小柄な少女、カティアKatia、小太りの黒人の少年、アリAli、そして第6学級(中学1年、日本の小6に相当する年齢)のもう2人の生徒は、数学の若い教師と一緒に、映画館の入館料金とスケート場の入場券に取り組む。彼らは、無人となった教室で勉強している。「切符の値段を計算するためにスケート場が直角なのを知ることが役に立つの?」、教師が尋ねる。「僕は知らない」とアリが答える。週に12時間、これらの生徒は、補習のために自分たちのクラスを離れる。全体で、80人の第6学級の生徒のうち、13人がこうした補助に関係する。そのうち4人は、完全に文字が読めない。

「子供たちは学校の暗黙の了解を身につけていない。例えば、言うまでもない考え、楽しむためではなく、理解するために教科書を読むということ、あるいは、あなたに要求していることをするために、あるいはこの文章に関して別の物語を考えるということが」と、この学校で、補助対策を考える教師の手助けをするためにパートタイムで働いている教師、コリーヌ・エジネCorinne Eginerは分析する。彼女の目には、ある種の困惑が読み取れる。

優秀な生徒は去ってしまった。3年前から、マルティーヌ・ペネックは、特例の申請が通過するのを見ている。「CM2(中級課程2年、小学校の最終学年)のトップが全員」。アンヌ=リーズAnne-Liseのように、ルールを守る父兄は稀だ。彼女は製本職人で、学校からすぐ近くの工房に住んでいる。その息子ギヨームGuillaumeは青い目をしたブロンドの少年で、オーボエとサックスの奏者であり、黒人の仲間の中ではしっくりしない。「他の学校に登録することなど、考えたこともなかった。多様な世界で成長することが良いと思う。なすがままにしたい。自分と違う人たちと比較して自分を位置づけるのは、自分自身だ。そこから出て行くのなら、結局どこに行っても出て行くことになる」と彼女は説明する。勇敢な母親。一部の父兄は、カミカゼだと思う。

学校の教員チームは闘い続ける。学級を2つに分け、数え切れないほどの「支援のモジュール」、生徒間の競争を再現させるための二重のレベルを提案する。教員は適応する。「私は第6学級の自分の授業を全て見直さなければならなかった。なぜなら、今の生徒は着いていけないからだ」と、フランス語教師、モルガーヌ・ボルヌMorgane Borneは説明する。この忌々しい改革は、既にかみそりの刃の上にいた学校で、全てを混乱させた。そして男女同数の法則をひっくり返しさえした。新学期には、女子は男子よりも27人少なかった。3年前から、新学期ごとに、男女の人数格差は少しずつ開いている。女子はしばしば優秀な生徒であり、その親は、娘を学校の暴力から守ることに満足する余り、一歩踏み越える。

運命の皮肉というべきか、生徒を失うにつれて、学校は徐々に静けさを取り戻してきた。「躾に手間取るよりも、授業に時間を割けるようになってきた」と、英語教師、ジュスティーヌ・ポルトロンJustine Portronは認める。そもそも、人数は非常に減っていて、校長がセーヌ=サン=ドニ県の学区監査機関に警鐘を鳴らしに行ったほどだった。「300人を切ると、学校は存続できなかった。」 これまでのような特例が適用され続けると、彼女の学校は閉鎖されてしまい、その生徒は他の学校に受け入れなければならなくなるところだった。「その脅威に考えさせられた」と、彼女はからかう。監査機関は出血を食い止め、ルナン=ド=ティルモンは危機的水準の上に留まり、マルティーヌ・ル・ペネックは要求した全ての予算を獲得する。この信用が、「Ambition Réussite (成功の野心)」対策の名目で恩恵を受ける人々に加わり、この施策が中学に追加の補助と職員を保証する。しかしいつまで?


« Classes d’excellence »


要するに、人がいなくなった中学は多くの手段を保ち、それによって卒業時の結果を改善することができる。一方で、教職員のチームは最も弱い生徒を助け、他方で、「優秀さの教室」を創る。この第4学級の「ピアノ」のように。「私は、君の言葉による意図が知りたい。君はそれを演奏することで伝える」と、若い音楽教師マリー・パンMarie Pinは、ぎこちない指を鍵盤に置くマリナMarinaに説明する。音楽室では、8人の生徒が、この日の朝は半分のグループになって、それぞれが、二人で連弾の曲を練習し、あるいはヘッドホンをつけて、5台の電子ピアノで練習する。Aminé、SamantaとLorenzo… は1ヶ月前に始め、既に音楽性について語っている。生徒たちはまた、第5学級から中国語とドイツ語を、あるいは第6学級から英語・ドイツ語の二カ国後を学ぶことができる。学区の改革以来、誰もが独創性を発揮しなければならない。うわべの混成を維持しようとするために、何をしないのだろうか?


Caroline Brizard

Le Nouvel Observateur 2345 15-21 OCTOBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2345/articles/a410875-quand_les_bons_%C3%A9l%C3%A8ves_partent.html


登場する生徒の名前は変えられているとしても、実在する学校の名前を出して、このような記事が書かれたことには、批判も少なくありません。日本だったらできないでしょう。

国境なき記者団によると、フランスの報道の自由度は、日本よりも下だそうですが・・・

日本の報道の自由というのは、嘘の記事を書いても、テレビで嘘を垂れ流しても、真剣に謝罪しなくてもいいという自由(みのもんたとか、捏造報道バカキシャとか)、官僚に都合の悪いことは隠して、都合のいいところだけ報道する自由(医療費に関する一連の報道など)、被害者の人権を侵害する自由(自ら積極的にマスゴミに出ようとする一部の被害者遺族を除く、ほとんど全ての犯罪報道)、病院の医療機器のコンセントを引き抜いて、患者を死の危険に直面させても、罪に問われない自由(NHKの某地方局)、推定無罪の原則を無視する自由(ほとんど全ての犯罪報道)・・・なのかと皮肉りたくなります。話は脱線しましたが。