以下に引用するのは、週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年10月8-14日(通巻2344)に掲載された Pour une veritable égalite des chances - Les fausses promesses de la méritocratie (真の機会平等のために - 能力主義という偽の約束)という記事です。
これがなぜか、フランス以外の国で販売されるであろう「国債版」には掲載されていなくて、「国内版」とWebのみの掲載です。
Pour une veritable égalité des chances
Les fausses promesses de la méritocratie
最も「能力のある者」を奨励することは、根底から不公平な学校を正当化するのに役立つと、社会学者マリー・デュリュ=ベラMarie Duru-Bellatの著作(*)は非難する。
(*) « Le Mérite contre la justice » (正義に反する能力)
Le Nouvel Observateur. – 能力、優秀さに報いることは、特に学校では、当然のことではないのでしょうか?
Marie Duru-Bellat. - 努力、勉強を奨励することは、もちろん避けて通れません。私たちは皆、子供たちにこう言います、「よく勉強しなさい。そうすればご褒美がもらえるから。」 1789年の「人間と市民の権利の宣言 Déclaration des droits de l’homme et du citoyen (いわゆるフランス人権宣言)」以来認められてきた、民主主義の基礎に近いものです。最も能力のある者には、社会的出自あるいはその生まれがいかなるものであろうと、最も良い社会的地位を、ということです。そして全ての人が権利において平等であるとき、事実上の不平等を、受け入れられる仕方で、宣言が言う「共同の利益に基づいて」、整理しなければなりません。しかし、物事が急速に複雑になるのは、この能力の尺度を定義し組織化するときからです。何を考慮すべきでしょうか?努力でしょうか、結果でしょうか?フランスでは、他国以上に、各人の能力に目盛りを付ける役割を学校に基づかせています。そしてそれが生涯にわたっています。一方でアメリカでは、卒業証書のない人にとっても、アメリカンドリームの約束が、自らの努力と才能によって、地位を向上させることに成功する希望を残しています。我国では、機会の平等を保証するには程遠い状態です。我国の学校は不平等を是正しません。学校教育の期間を通じて、社会生活に入るまで、社会的に最も恵まれた層は最も良い条件を享受しています。教育程度が高く情報に強い両親に支えられて、恵まれた子供たちは、最も優れた学校で教育されます。そこでは、訓練の効果が彼らの水準を改善し、さらに最も恵まれた進路を選ぶことを可能にします。成功への重要な要素の一つである、最も経験豊富な教員がいるのもまた、そうした学校です。こうした状況で、能力はどこに位置しますか?
N. O. – なぜ、積極的差別が状況を少しも変えないのでしょうか?
M. Duru-Bellat. - これらの多様な取り組みは、周辺でしか作用せず、結局は最大多数の教育ではなく、エリートの養成に特化した学校の機能を正当化することに役立っています。「能力」の過大評価は、教育の社会的使命を忘れさせます。第三共和制の下で施行されたとき、義務教育は、普通選挙に引き続いて、全ての市民に自分で学び判断する手段を与えることを特に目指していたことがしばしば忘れられています。少しずつ、結果の論理が居座ってきました。最も望まれる地位を手にする人にとって、その結果は学校の成績のおかげであり、したがって全て最善を尽くしていることになります。しかし、ごく少数の質素な階層の出身の生徒にごく僅かな機会を与えることは、彼らにとっては非常に良いことですが、制度を是正することは全くありません。
N. O. – それでは、我国の教育に少しでも公平さをもたらすにはどうしたらよいでしょうか?
M. Duru-Bellat. - 出発点からの均衡を復活させることです。例えば、2歳の時から、子供の間で言語の熟練に関してかなりの開きがあることが確認されています。2歳からの学校教育は、他の子供に追いつけるように、最も能力の低い子供に割り当てられるべきでしょう。ごく単純に、グランドゼコールを廃止することもできるでしょう。そこでは、恵まれた若者が圧倒的多数を占めており、特権的な学校であるだけになおさらそうです。かなりの手段を備えているグランドゼコールが、ごく一部の卒業生だけを教育する一方で、同世代の圧倒的多数は大学に行きます。最も良いことは、確かに少し空想的ですが、全てが望ましくなるために、社会的地位、職業の間の不平等を減らすことでしょう。
Propos recueillis par
VÉRONIQUE RADIER
Le Nouvel Observateur 2344 8-14 OCTOBRE 2009
http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2344/articles/a410409-les_fausses_promesses_de_la_m%C3%A9ritocratie.html
このMarie Duru-Bellat という方は、教育関係ではよく目にする名前でしたが、久しく遠ざかっていました。
約1年前のエントリー
【続】自由という幻想:教育学者の指摘 2008-10-23
こちらも同氏のインタビューです。
なお、「機会平等」ということに関しては、10月24日の『毎日新聞』朝刊の「教育の森」に、少し前向きな話題が載っていました。
◇人権規約にのっとり無償化/非常勤より「正規」増やす--鈴木寛副文科相に聞く
鈴木寛副文科相に概算要求の狙いなどを聞いた。
--高校無償化を最優先する理由は。
民主党は「学ぶ権利」を中心に考える。国際人権規約の締約国160カ国のうち、「中・高等教育の無償化」を定めた条項の批准を留保しているのは日本とマダガスカルだけ。規約違反が何十年も放置されてきた。日本を普通の国にしたい。
(以下略)
http://mainichi.jp/life/edu/news/20091024ddm090100091000c.html
これまでの政権は、国連の人権規約(社会権規約)の「中・高等教育の無償化」という条項の批准を留保してきたことを公に はしてきませんでした。2006年中の回答を国連に求められても、知らぬ存ぜぬでした。
最近まで日本とマダガスカルとルワンダ、その後ルワンダが批准して残る2カ国だけになっていたことも、広く知られることはありませんでした。このような事実が副大臣の口から、公に語られたことは、政権交代の一つの成果と言えるでしょう。これまで無視してきた国連からの回答要求に、少しは答えられる準備の、第一歩というところです。(あくまで、第一歩に過ぎませんが、ジミントー政権のままだったら、この第一歩すらなかったのです)
いつか、この条項も批准して、「普通の国」にさらに近付くことができるでしょうか。こういうことですら「ばらまき」等と言ってマスゴミが批判するような国で。(なお、おアメリカ合衆国さまは、人権規約そのものを批准していません)