「学校の病」 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

全く脈絡がありませんが、教育の話題です。

政権交代して、教員免許の更新制を廃止するという方向の議論が出てきているなど、保守・反動・権威主義化していた某国の教育にも良い兆候が現れていますが、これを機会に他国の事例(反省)も検討して、より良い方向に進むことが望ましいと思います。

以下は、週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年8月27-9月2日号(通巻2338)に掲載された対談 Les maux de l'école  (学校の病)という記事です。 



LES DÉBATS DE L’OBS

Les maux de l’école

Le face-à-face Richard Descoings et François Dubet.




高校に関する報告書の著者でシアンスポの主任(リシャール・デコワンRichard Descoings)と、教育社会学者(フランソワ・デュベFrançois Dubet)が、我が国の学校制度の不備を告発し、対処法を提案する。

Le Nouvel Observateur. - 学校をどう評価しますか?

François Dubet. – フランスの学校は不平等であり、むしろ社会そのものよりも不平等です。その水準は極端に高くはありません。労働市場との有機的連関が困難になっていて、そのことがそもそも、若者の悲観主義の原因になっています。結局、教育の状況はどちらかというと悪いと言えます。


N. O. - それはフランス固有の問題でしょうか?

Richard Descoings. - 全ての先進国でこうした問題が見られます。英国でもドイツでも。しかし、公正で、公平で有効な共和国の学校の創設の神話の上に生きているフランスではさらに深刻です。ところが現実には、学校の役割に関する社会的合意がありません。最も良い証拠は? 学校を改革するための論争が起こるたびに、本当に結論に至ることはありませんでした。

F. Dubet. – フランスでは、我々は学校とのほとんど宗教的な関係を守っています。それが我々の特異性です。共和国の学校は宗教モデルの中に入り込みました。学校は神を追い出しましたが、骨格を保ち続けました。卒業証書のほかには祝福はなく、社会的祝福も真の尊厳もありません。フランス人は、他国よりもずっと、学校だけが個人に社会的地位を与える資格があると信じ込んでいます。そして、そう信じるやいなや、張り詰めた、競争的で、非常に残酷な学校のゲームを創り出します。それは例えばカナダとは非常に異なっています。仮に学業に失敗したとしても、人生は終わったりしません。


N. O. - 学校教育は、まさしく、余りにも抽象的であり、国民のごく一部の層のために考えられたして非難されています。

F. Dubet. - 我々は古くからの状況を引き継いでいます。20年前、第6学級(中1、日本の小6に相当する年齢)の教育内容は、後に(グランド・ゼコール)準備学級を受ける生徒にとって理想的に組み立てられていました。だから、常に「スポーツ」の論理があり、最も速い人は全速力で峠を飛び越え、他の者は余り険しくない丘へと誘導されます。誰もが、チャンピオンからの距離によって決定されます。その失敗の程度によって。誰もが決して優秀ではないのが、学校の中でス。フランスの教育状況がこれだけひどいのは、そのためです。誰もが知っている状況で。欠席、暴力…

R. Descoings. - フランスはそもそも、「不吉な持続的特徴constante macabre」に頼る唯一の国です。この言葉は、教室の水準がどのようなものであれ(ルイ・ル・グランのグランド・ゼコール準備学級でさえ)、生徒を優等、中等、劣等の3つのグループに分ける方法を意味する半ば公然の用語です。もし誰もが数学の練習問題に正解したら、問題が易しすぎると見なされます。生徒の3分の1が常に失敗しなければならないのです。

F. Dubet. - 私は、グランド・ゼコール準備学級にも、優秀な生徒にも、一切の敵意を持ってはいません。問題は、そうした最優秀層が制度の論理を非難していることです。このエリート主義が支払うべき代償、それは職業高校の存在と、それが取り囲まれている軽蔑です。学校制度は最大多数の視点で評価されます。

R. Descoings. - 非常に具体的な事例があります。高校生の40%に関係する職業高校の大きな改革が現在行われています。40%!誰がそのことを話していますか?誰もいません。


N. O. - 誰も自分が優れていると決して感じることの無い学校は、生徒にとって破壊的ではありませんか?

R. Descoings. - 私が今年、高校で行った意見聴取の間、「屈辱humiliation」という言葉がいつも、非常に多くの青年の口から発せられていました。その中の一人は私に、「激しい恐怖effroi 」と「面倒ennui」とさえ言いました。宗教的観念が再発見されます。カトリシズムの残滓です。罪がなければならない、罰がなければならない、という。


N. O. - 学校には自己評価を確立する資質がなければならないのではないでしょうか?

F. Dubet. - そう!国際比較によると、フランスは若者自己と教師に対する信頼感が最も低い国です。外国では生徒の85%が、理解できないときは教師に質問すると言っています。フランスでは生徒の85%が、批判されることを恐れて質問しないといっています。デンマーク人は期待はずれの成績ですが、生徒が自己を信頼し、話すことを学び、他者とコミュニケーションし、集団で作業し、後に自己形成することができるようになる、学校制度を選んでいます。彼らは我々にこう言います、「あなた方フランス人は、何人かの学者を作るが、残りの人々は意地悪で、防御的で、攻撃的で、虚栄心が強い・・・」


N. O. - 能力別学級では、生徒の自己評価が高くなり、より多く進歩するのではないですか?

F. Dubet. - もし優秀な生徒と成績の悪い生徒を分離したら、優等生の水準をこれほどまでに上げることはないし、成績の悪い生徒の水準をずっと引き下げることになります。したがって結局は社会も多くを失います。道徳的問題を抜きにしても。一体どこまで行くでしょう?結局、美しい人と醜い人をなぜ分けないのか?男子と女子は?人を分離し始めれば、止まる理由はまったくありません・・・ 問題は、学校が年々積み重なる不平等を治す術をもたないことです。貧しい家庭に生まれる、これが第一の不平等です。余り優秀でなく、教師の経験の浅い学校に行く、もう一つの不平等。両親が進路に関して野心的でないこと、これがさらにもう一つの不平等。流暢な生きた外国語の力が必要な選抜試験を受けなければならない、ところが、外国で過ごしたことが全くない・・・ そして結局、18歳の時点で、学校の成績の格差は、石材業の職業バカロレアを受ける人と、グランド・ゼコール準備学級に行く人の間で、莫大なものになっています。

R. Descoings. - この経験された現実は、フランスが平等に関する大言壮語を我々に使い続けているだけになおさら、耐え難いものになっています。


N. O. - フランスは文化的革命の機が熟しているのでしょうか?より競争的でない学校、より抽象的でない教育内容を受け入れる準備ができているのでしょうか?

R. Descoings. - 準備学級、グランド・ゼコールと、そこに導く高校の一般課程という三部作を修正する覚悟がフランスにあるとは、私は思いません。

F. Dubet. - 他の国々とは反対に、フランスには改革すべき問題があります。アメリカは1986年に、その制度が良くないことを発見し、改革しました。フィンランド人は20年前、自国の学校に満足していませんでした。そして、今では世界中が褒めそやしている別の学校制度を作りました。フランスでは、子供たちの運命のほとんど全てが学校にかかっている、ほとんど宗教的な方法と思われるとしても、あらゆる変化が脅威のように見えます。そしてもし、根本では、この制度がこのままであった方が好ましいと思うとしたら、教養のある中流階級の場合ですが、子供の将来が問題であるがゆえに、決定的な有利さを奪うことになる変化を、どのような名目で受け入れるのか、私にはわかりません。

R. Descoings. - 学校の競争の敗者が意見を言おうとしないだけになおさら、学校制度は閉ざされてきています。彼らは学校に関する論争に介入する根拠がないと感じています。生徒の父兄の代表が教員であることは頻繁にあります。

F. Dubet. - 学校の世界は恐ろしいまでに内発的です。教職員が、自分たちだけの専用の組合ではなくてCGTやCFDTに加入していたら、企業の従業員、労働者、技術者・・・といった同僚に、困難な状況にある生徒を職業教育校に振り向けなければならないと、あえて説明することはしなかったでしょう。学校の世界は、学校によって明らかにされる能力しか認めません。弱い生徒を職業学校に振り向けるのは、そこに入るには能力が必要ないと確信しているからです。ディーゼルエンジンを分解することには、フロベールのテクストを解釈するのと同じか、それ以上の能力は必要でないかのように。


N. O. - フランスにとって望ましい学校とは、何に似ているのでしょうか?

F. Dubet. - 何よりもまず、社会を全ての欠陥から救済すると見なされる完璧な学校という考えを諦めなければならないでしょう。良い学校がどんなものであるか、誰もが知っています。子供たちが多くのことを学び、全ての学校が選別するものである限り、最も不公平でない仕方で、可能な限り残酷でない仕方で選別する学校、そして生徒が、気持ちよく通える学校です。

R. Descoings. - 付け加えるならば、改革したいと言うのを止めることができる学校です。今日、国民教育が苦しんでいることは、管理されていないということです。生徒のレベル、困難さ、社会的出自を考慮せずに、生徒の数に応じて機械的に教員のポストを割り当てる管理を、どう考えますか?それでも、実際に行われているのはこのようなことなのです。

F. Dubet. - 学校は管理されています、統治されていないのです。バカロレアが毎年、何の支障もなく行われていることは、奇跡に似ています。船は動いています。しかし操縦されていますか?あらゆる証拠から、違うと言えます。制度を変える政治的能力は弱い。改革は制度の中で始められるので、希釈され消えていきます。


N. O. - 教室で働く別の方法を推薦しなければならないのですか?

F. Dubet. - しかし教員はプロフェッショナルです!教員が教室を作る方法を決めるのは、教員自身です。彼らが得る結果が、期待されたものであることを共同体のために保証するという条件で。教師を査察するのはやめましょう!むしろ、若者が何かを学んだかを見るようにしましょう。子供たちに数えたり読んだりすることを教える方法を話し合うことに国家が関わることはおかしいと私は思います。我々を世界中で奇妙なものにしている、いくつかの対立は、なくても済むはずです。「教育学者」を「共和主義者」と対立させる論争のように!このことをドイツ人に説明して御覧なさい。

R. Descoings. - 爆笑するでしょう!


N. O. - 各学校のレベルで、より中央集権的でない制度を薦めるべきですか?

F. Dubet. - うまく行っているモデルは、知られています。それは、各学校が自立していて、センターが強力であるという体制です。フランスでは、全く逆になっています。我国には弱いセンターと、できることを何とかしている、ほとんど自立していない学校があります。恐らく、運営の仕方を変えることが必要でしょう。

R. Descoings. - しかしそのために法律は必要ありません。高校と中学は既に、理事会が備わった公共施設になっています。しかし、10年前から、予算の自立性を全て奪われています。変革したいと思っている教員のチームに、追加の手段を与える必要があります。事態を動かすために重要なことは、教育のチームであり、教育省からの通達ではありません。それは政治的な時間とは矛盾する、息の長い仕事です。政治家は、すぐに効果の現れる改革を要求します。

F. Dubet. - しかし改革がどのようなものであれ、困難な点と取り組まなければならないでしょう。教員の地位と職務です。教員が15時間か18時間の授業を保証しなければならない限り、もちろん、ずっと多くの時間、働くことになりますが、あなたの活動能力は弱くなります。教師には、こう言う権利が常にあります。「私の仕事は数学を教えることであり、それ以上の何ものでもない。」 別の難点、それは配属のシステムです。外国では、教員は学校ごとに採用されます。フランスでは、コンピューターによって割り振られるために教員を選べない学校長の活動の余地はどのようなものでしょう?

R. Descoings. - 私は、教員の地位に関する議論を全国的な選挙運動に持ち込むべきだと思います。思い出してみると、セゴレーヌ・ロワイヤルは、教師には私的な施設で個人授業を行う時間があるのだから、学校にもっと長い時間いることができるはずだと発言することで、多くの支持を失いました。この問題は実に微妙です。いかなる閣僚も、事前に選挙による白紙委任を受けなければ、この問題に取り組むことはできません。

F. Dubet. - そして、始めるためには、左翼は沈黙から抜け出す必要があります。かつて学校の変化の力を体現していた左翼は、今日、次のように言うだけで満足しています。学校はうまく行っていない、しかし同じことをするためにより多くの手段があれば、全て解決する、と。社会党は教育について曖昧に語り、結局は自らの支持者と考える側に同調します。それでは少し足りない。かつて、教員組合は同業組合的でしたが、計画も持っていました。今日、それらは単に同業組合に過ぎません。それでも、あなたに起こることは、非常に興味深いのです。あなたの報告書が出る前でさえ、このような発言がありました。「この報告書は受け入れられない。あるいはいずれにしても、地位、労働時間、プログラム、専門課程に関わる限り、我々は拒否する。」


N. O. - それではどのようにして教員を動かすのでしょうか?

F. Dubet. - 教員という職業は大きく変わりました。辛い仕事です。極度に弱体化した教師にとって、全ての変化はより悪いことの約束になります。理解させるには、改革派の大臣が「お前たちを働かせる」式の、ペール・フエタールpère Fouettard (悪い子をお仕置きする鞭打ちおじさん)のような言い回しを止めることから始めるべきでしょう。教員は、より多くの時間を教室ではなく学校で過ごすことで彼らを納得させるべきであり、そうすれば労働条件を改善できるでしょう。政治的意思がなく、世論へ訴えることもなくて、この閉塞からどのようにしたら抜け出せるか、私にはわかりません。

R. Descoings. - 私が薦める政策には、二つのアプローチがあります。一つは、選挙運動で採られる取り組みに実際に関わることであり、もう一つは学校における教員のチームの動員に基づいています。現場から出発すれば、大きく前進することができると、私は考えます。


Propos recueillis par CAROLINE BRIZARD,
PATRICK FAUCONNIER et JACQUELINE DE LINARES



Le Nouvel Observateur 2338 27 AOÛT - 2 SEPTEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2338/articles/a407457-les_maux_de_l%C3%A9cole.html


以前、日本の高校生の自己評価が「世界」と比べて低いという記事がどこかに出たことがありましたが、比較対象が米国・韓国・中国だけというのでは、どこが「世界」なのでしょうか。米・韓といえば、日本と並んで、教育に対する公的支出が極端に低い国の代表です。中国が「普通の国」だと思っている人は、余りいないと思います。フランスが「普通」かどうかは知りませんが、少なくとも教育に対する公的支出に関しては、他の欧州大陸諸国と同程度には「普通」です。こうした「普通」の国々と比較しないと意味がないと思いますが、マスゴミ改め「マス麻薬 」(by「ヘンリーオーツ 」様)には、CIAの手先である限り、「普通」の視点は望めないでしょう。