【続】自由という幻想:教育学者の指摘 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

前回の 自由という幻想:学校選択の帰結(Obsの記事)  の続き、というか補足です。

教育社会学者、Marie Duru-Bellat へのインタビューです。内容は極めて常識的なことですが、常識が通用しないところに、(新)自由主義を採る政権の支配する社会の怖さがあるのかもしれません。

タイトルは、簡単なようで訳すのが難しいので、直訳?すると、『それは、自分のための各自である!』 自分のためには自分で何とかしろ、ということでしょうか。

【追記】
村野瀬玲奈 さんからのコメントによると、「"chacun pour soi"とは、直訳すると「各自が自分のために」、つまり、「自分のことは自分だけで行なう」、とか、「自分のことは自分だけで好き勝手にする」とかいうときに使われる表現です。」文末にも補足しておきます。



TROIS QUESTIONS À MARIE DURU-BELLAT

« C’est le chacun pour soi ! »

教育社会学者が自由主義モデルの限界を指摘する



Le Nouvel Observateur. – 複数の研究者が今回の改革に非常に怒っています。なぜですか?
Marie Duru-Bellat. – なぜなら、研究者の意見を聞いていないからです。一度ならず、政府は研究者の業績を考慮しませんでした! 調査、国際比較は全て、学区を廃止することが学校の不平等を強めることを証明しました。英国でも、アメリカ合衆国でも… また、自由主義者が主張することとは反対に、これらの施策が制度の効率を改善しないことも証明しています。学校は、競争という圧力の下で開いたり閉鎖したりできる企業ではありません。父兄は、選択できるという印象を持ったことで満足しています。誰でも選択肢があることを好みます… しかし現実には、それは市民の大多数を抑圧する自由です。誰がそれを利用する手段を持っているでしょうか?

N. O. – なぜ政府は、以前に発表したようにこの学区を廃止しないのですか?
M. Duru-Bellat. – 実現不可能だからです。誰もが子供を入学させたいと夢見る、「優秀な」学校で席を2倍にすることはできません。最も慎ましい階層の子供たちがかなりの割合でそうした学校に入るのを認めるとしても、そのことが必ずしも期待された結果をもたらすわけではありません。本当の教育学的な付随策がなければ、挫折する可能性があります。外国での経験がそれを証明しました。

N. O. – それでは何が起こるでしょうか?
M. Duru-Bellat. –自己責任で各自が勝手に競争するという考えから脱却すべきです。結果をもたらすもの、それは公立学校全体が良質の教育業務を提供する手段を持つことです。公立学校を動かすことで、最優秀の生徒は極めて僅かしか失わず、最も弱い生徒が多くを得ることができ、当然、全体の水準は上昇します。


Propos recueillis par VÉRONIQUE RADIER 



LE NOUVEL OBSERVATEUR 2292 9-15 OCTOBRE 2008



http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2292/articles/a385298-«cest_le_chacun_pour_soi_».html




自分で書いていて忘れていましたが、2007年1月24日から数日間、英国の自由選択制についての記事を書いていました。その頃は、まだフォーマットが決まっていなかったことと、週刊誌Le Nouvel Observateur の記事全文をWebで無料で読めることを知らなかったことから、対訳式で書いていました。

フランス人が見た英国の学校選択制(1)

フランス人が見た英国の学校選択制(2)  


フランス人が見た英国の学校選択制(3)

フランス人が見た英国の学校選択制(最終回)

前回の 自由という幻想:学校選択の帰結(Obsの記事)  で登場した アニエス・ヴァン・ザンタン Agnès Van Zanten という名前は、この「最終回」のインタビューに登場しています。

その当時、まだサルコジ大統領は誕生していませんでした。英国で惨劇を生んだ制度を導入すると明言していた候補を、(CIAかロスチャイルドか何かの陰謀が絡んでいたかは知りませんが)フランス国民は選んでしまいました。それでも、学区制を緩和はしても廃止はできないでいます。日本の東京の一部の区が、フランスより過激とか言うつもりはありませんが、できないはずのことを強行してしまった罪はより大きいかもしれません。一部の区は、選択制の廃止に向けて動き出しています。


【補足】
村野瀬玲奈 さんからのコメント

「"chacun pour soi"とは、直訳すると「各自が自分のために」、つまり、「自分のことは自分だけで行なう」、とか、「自分のことは自分だけで好き勝手にする」とかいうときに使われる表現です。そこに定冠詞がついて"le chacun pour soi"となると、創作的な訳ですが、「自分のことは自分で勝手に行なうという考え方」ということになります。大胆に訳すなら、「自己責任という考え方」でも良いと思います。

そこで、デュリュ・ベラさんの3つめの発言の最初の一文、"Il faut sortir du chacun pour soi."ですが、"sortir de..."は「...から外に出る」ということですから、文全体で、「自己責任で各自が勝手に競争することが良い教育につながるという考え方から脱却しなければならない」という内容になります。」

こちらに基づいて、訳文の一部を修正しておきます。

"chacun pour soi"と、"le chacun pour soi"という表現について、大変勉強になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。