フランスの高校生、怒りの理由 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

5月14日の 日本の学生運動の記憶に関するル・モンドの記事  を基に、みんななかよく  のkuronekoさんが 連合赤軍をフランスから見ると  という記事を書いてくださいました。私の御礼のコメントに対するご返事の最後に、「フランスなどは恒常的に学生が異議申し立てをしているのかもしれませんが。」と書かれていたことが気になったこともあって、今回起こっている高校生の抗議行動について記事を探していましたが、とても追いきれませんでした。(日々のニュースを追いかけることは、例の「誤報」騒ぎで懲りてもいますし)

抗議行動を起こしている高校生側の代表ともいえる人物が書いた、「高校生、怒りの理由」Lycéens : les raisons de la colèreと題した記事を、『ル・モンド』のOpinion欄で見つけました。

訳文では原則として、lycée は「高校」、 lycéen(ne)は「高校生」としておきます。



Point de vue

Lycéens : les raisons de la colère, par Florian Lecoultre

LE MONDE | 14.05.08 | 13h52 • Mis à jour le 14.05.08 | 13h52



2ヶ月前から高校生が街に繰り出しているとすれば、それはもちろん、彼らの運動が公共教育サービスの未来の本質的な争点に関わるからである。教員、父兄、生徒を結びつけている局所的な結集は、2008年から2009年の年度に機能すると見なされている時間的な割り当ての各学校への通告から始まった。2008年の新学期の11200のポスト以外に、向こう3年間で予告されている80000の職の廃止が、2003年以降に削減された25300のポストに加わる。このことは、教育界に脅威を与えている。

実際、生徒数は増えているのに、学業の挫折と社会的再生産と、どのように闘うのか、生徒の個別化された追跡手段を廃止して、どのようにして教育水準を上げるのか?現場ではこれらの予算の削減の効果は既に強く感じられている。今や学級は頻繁に35人の生徒を越え、多くの選択科目は廃止され、一部の学校ではゲットー化が加速している・・・ 現在、高校では引き返し不可能な地点まで来てしまったという印象が支配的である。

ポストの削減は今、不満を結晶化している。というのは、この削減があらゆる教育的願望に背を向けた、短期的な視野の政策を表しているからである。最近のテレビ出演の際、共和国大統領は不幸にも、政府の教育改革の純粋に会計的な目的を確証した。高校生抜きで行われた職業バカロレアの改革は、その典型的な例だ。その二軍落ちのイメージからこの専門課程を抜け出させようとも、職業高校の生徒が犠牲となる大量の落第を減らそうともせずに、その改革は1年間の教育を廃止する会計的な目的を追求するだけのようだ。

高校生は保守的ではない。むしろ逆であり、改革を要求している。しかし、改革はより公正な学校という目的に答え、若者の開放と国民の教育水準の向上を可能とするという、教育的野心を持たなければならない。その手段は学校に定められた政策の目的に由来しなければならず、低い目標に帰るように導く前提条件になってはならない。高校生全国連合は教育制度を改革するための多くの提案を持っている。それは社会的混成の場に再びなることを可能にするために特定の教育を多様化する、全国共通の中学の改革であり、中等教育と高等教育の関連の強化であり、全ての生徒に無料で質の高い教育を与えることのできる進路指導の真の公共サービスである。

進路変更を有利にし、同じ施設の中で職業課程、技術課程と総合課程を混ぜ合わせるのは教科自由選択高校である。学校の使命を保証するために、課程が私立学校に頼るのを避けることができるのは学校の援助の公共サービスである、学際的教育である。学校教育のリズムと課程の全面改訂、評価とバカロレア試験の新しい骨組みである。探索すべき道筋は数多く、高校生の提案は詳細で信頼すべきものである。

共和国大統領には理がある。高校生が結集するとすれば、それは彼らが自らの未来に不安を抱き、過酷な状況という祭壇で犠牲になる世代だという感覚を持っているからである。この状況は正常というには程遠く、政治家階級全体を憤慨させるはずだった。原則として若者が将来への不安と同義語であると実際に理論付けるのはどうしてか?フランスの若者がヨーロッパで最も悲観的であるという覚悟を決めるのはどうしてか?反対に、高校生は結集しながら未来への権利を守り、青年期が解放と可能性の開放の瞬間でなければならないことを証明することを望んでいる。

2005年の、郊外の危機とバカロレア改革に反対する高校生の運動、2006年の反CPE(初期雇用契約)運動、2007年の大学の自由と責任に関する法律に反対する大学生と高校生の運動、若者の結集の頻繁さは、儀式的な伝統どころか、フランス全体に染み込む社会的で世代共通的な危機の大きさを証明している。政府は若者のメッセージを聞いて強く着想を得たはずであり、それがなければ国全体の将来が危険に晒されるだろう。

高校生は、明確な主張と提案を中心に結集し、自らの責任を引き受け、結集する若者に対してもたらされた人心操作のための相も変らぬ非難の愚かさを証明した。5月10日、グザビエ・ダルコス(教育相)との面会の際、彼らは政府側の最初の譲歩を勝ち取った。高校生の現実の社会的地位の確立、あるいはさらに真の内容を与えられた進路指導の公共サービスのような、高校の未来の改革のために良い方向に進むテーマ群が明らかにされた。これらの前進が大きな意味を持つとして、十分と考えることはできず、高校生は今後、大臣が 国民教育においては公共機能において優先する大規模な廃止の論理に例外を設けることによって教育制度のための願望を再び主張することを期待する。


Florian Lecoultre, président de l'Union nationale lycéenne





筆者の Florian Lecoultre (フロリアン・ルクルトル)は、l'Union nationale lycéenne  (全国高校生連合?)の議長ということです。反対するだけでなく、多くの提案を掲げて行動するところは見習いたいものですが、確かに、何かの機会があると「恒常的に異議申し立てしている」ように見えます。

教員のポストを削減しながら、教育水準を上げるなどというのは、無理難題というものでしょう。

2003年からの措置で、既に35人を超える学級が頻出しているとのこと。

一方で日本でも、教育に対する公的支出は先進国では最低水準で、教員数も自然減、とてもではありませんが、1学級あたりの児童生徒数を減らすなど夢の世界であり、これで授業数は増やして学力向上などお笑い種です。結果が出るのに半年かそこらかかるような全国学力試験とやらの費用は乏しい予算を削って捻出するのに。そんな時間があったら授業に当ててもらったほうが余程マシです・・・ 数え上げればキリがありませんが、乏しい教育環境でも曲がりなりにも学力が維持できていたのは、教師や児童生徒、父兄の努力の賜物だったのでしょう。乾いた雑巾を絞るように、現場に負担を強いるのはいい加減にして欲しい。口を出すなら金を出せ、というところでしょうか。

フランスのように、教員、生徒、父兄が連合して立ち向かわないのは、教師と父兄を分断するマスコミをも使った情報操作も影響しているのでしょう。乾いた雑巾問題といい、医療者側と患者側の分断といい、教育と医療は状況が似ているように思います(政治屋の利権になりにくいからでしょうか)。