週刊誌Le Nouvel Observateur の先週号(2008年2月21-27日、通巻2259)には、学校の暴力に関する記事が掲載されていました。今回はそれに先駆けて、平手打gifle事件の概要を伝える記事を引用します。
なお、原文は一段落から成っていますが、長すぎるので訳は二段落にわけてあります。
( さんのコメントでご指摘いただいた部分は修正してあります。)
『ベルレモンの平手打ち
ジョゼが壊れた日』
LA GIFLE DE BERLAIMONT
Le jour où José a craqué
ノール県、ベルレモンのジル・ド・シャン中学は、無人だ。2週間前から、メディアの嵐を経験した後、新たに炎上した学校は冬休みのために校門を閉めていた。事件の痕跡は、職員室の窓に括り付けられたままの横断幕だけだ。「ジョゼ、我々は君を支持する」。そして、校門には、別の横断幕が広がる。「教師+平手打ち=10年?」と「生徒+侮辱=3日」。大騒ぎの元となった49歳の技術教師ジョゼ・ラブルゥールは隣の村に住んでいる。事件以来、彼は病気休暇を取っている。「休息を取っている」、彼は説明する。彼の重い声には皮肉な疑念がよぎっている。彼は自分に起こったことを思い出したくない、「ゴシップ誌に全部書いてある」。さる1月28日、彼は自分を「バカ」呼ばわりした第6学級の生徒を平手打ちした。取り立てて変わったことのなかった彼の教員人生がその時動いた。憲兵でもある、子供の父親は訴訟を起こす。警察はジョゼ・ラブルゥールを自宅で逮捕した。このようなありふれた軽犯罪で、彼は24時間拘留され、写真と指紋を採られた。
司法手続きが開始された。これから1ヶ月と少しの間に、この教師は「未成年に対する重大な暴力」の容疑でアヴェーヌ・シュレルプの軽罪裁判所に出頭することになる。「不均衡」、「不当」、単なる平手打ちに対して、警察署おける拘留は、教育界に深い衝撃をもたらした。翌日から、父兄と教員が彼を支援するために学校の前に集まった。この共感の運動はすぐに全国レベルに広がった。教員組合、生徒の父兄の連合は次から次へと、「教員を尊敬させるのに無関心で無能な国家」を告発する、復讐的で過剰な声明を発表した。数千の署名を集めた嘆願書が、ネットで公開された。2人の大臣、グザビエ・ダルコスとフランソワ・フィヨンもまた、教員に対する支援を表明した。週末には、ジョゼ・ラブルゥールの不幸な事件は、火薬庫で働いていると感じているあらゆる職業を象徴するものとなっていた。「彼の怒りの行動は、我々の誰もが持っていたかもしれなかった」と、中等学校教員の主要な組合、SNESの北部支部のジョエル・ティエリーは要約する。学校側でも、良識によるこの行動は広がった。ジョゼ・ラブルゥールは結局、教育区による処分は受けなかった。彼は地位を守り、3月10日には職場に復帰する。しかし司法の側では、緊張は依然として強い。3月27日、ジョゼ・ラブルゥールが法廷に立つとき、彼らの同僚である全ての学校教員が彼の後ろにいるだろう。もし彼が有罪なら、「火薬庫」は吹っ飛ぶ危険がある。
CAROLINE BRIZARD
出典
LE NOUVEL OBSERVATEUR 2259 21-27 FÉVRIER 2008
http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2259/articles/a367045-le_jour_où_josé_a_craqué.html
この事件を知ったのは、同誌の前号(2208年2月14-20、通巻2258)の、Chronique de Jacques Julliard からでした。Julliard氏の文章はいつも難しく、訳すのに苦労し、自然な日本語にはとてもできませんでした。
『一つの平手打ちについて』
La chronique de Jacques Julliard
A propos d’une gifle
教師と生徒の関係が暴力か裁判で解決されるとき、責任があるのは学校そのものだ。
想像してみよう。あなたが北フランスにあるベルレモンの中学の技術教師だとする。苛立った態度で、あなたは言うことを聞かない生徒(11歳)の持ち物を投げ捨てる。「バカ野郎」、生徒は言い返した。どうすべきか?あなたには、反応するための時間が2秒ある。もし何もしなければ、2秒間にもし手をこまねいていたら、あなたの権威にさようなら、だ。次回には、別の生徒があなたを逃さないだろう。一方、飛び出した平手打ちが解決にはならない。教師は生徒を殴ってはならない。しかし、それはもはや意図的な暴力行為ではない。保全のための対策だ。続きを見てみよう・・・
教室は絶え間ないサイコドラマだから。いつも何かが起こっている。教師と生徒の、相互の誘惑か脅迫。教師がひとたびその権威を失ったら、二度とそれを取り戻すことはない。抑制を失えば、崩壊は確実だ。教師の人生は地獄となり、その教室は大混乱の場と化す。教育学の祝福されたおべっか使いは、馬鹿扱いされたときにすべきことを何も言わない。誰よりも偽善者である、母性的なイデオロギーに支配された生徒の親に関しては、自分たちが台無しにするためにあらゆることをしてきた権威を最終的に立て直すことを、熱烈に要求するだろう。
私はタブーの言葉を発したところだ。権威という言葉。権威を発揮「して」はならないと今日、宣言されている。しかし氾濫を避けるためには権威を「持つ」べきである。理解しよう、シャルル。しかしこの権威は、どこから来るのか?物理的な力でないのは、明らかだ(1対25で!)。知識だけが世界で最もよく分配されたものだと決められてから、子供たちが自然に持つ知識、教育学の効果はただ子供たちにそれを示すだけだということだ・・・ そこで、親から来るもの、全面的に自分の子供たちの見方をする親が?あるいは社会にとって、毎晩テレビが生徒に、1ヶ月2000ユーロのために壁で全力を尽くす教師は実質的にバカだと説明するとき、ディーラーかトレーダーか、ジダンかブトンになれば100倍か、1000倍は多く稼げるというのに?
そこで、ごまかされないようにしよう。学校の内部に関して、教師と生徒の関係が脅迫、暴力あるいは裁判官に訴えることで解決される。私が先に引用した例で、平手打ちした教師が停職、拘留と軽罪裁判所への出頭という罰を受ける一方で、侮辱する生徒が数時間の自習という罰を受けるだけのとき、問題はもはや、誰が間違っているか誰が正しいかということではない。問題になるのは学校という原理そのものである。我々の社会のように愚かしいほどに功利主義的な社会では、学校は遺物、保育所であることしかできず、教師は中国の影絵の見世物師でしかない。間もなく、学校なしでやっていくことだろう。教師がなおも自らの職業を信用しているとすれば、彼らは3月27日、先の教師が裁判所に出頭させられる日にゼネストを決行するだろう。
アタリの委員会が初等学校で要求される知識の基礎に追加するために「インターネットの技量、グループで働く能力、英語の熟練、創造性の発展と経済の学習・・・にもかかわらず子供の学校での負荷を重くすることなく」(ママ)を選んだのはその時だ。30%の生徒が、読むことができないか自分が読むものを理解できないまま学校を出るのだから、既に一種の楽しみになっていた教師という仕事は、永続する幸福となるだろう。教師の教育の評価が今後は生徒によって「も」なされるのだからなおさらだ。ただし、委員会に議席を占めるいかなる銀行家も、いかなる実業家も、今後は社長がOS(ouvrier spécilalisé 単能工)に評価されるべきだなどとは提案しなかったことを記しておく。
その間、ポシャールの委員会は、借りを作らないために、能力、失礼、成果が教師の報酬において考慮されるべきだと提案した! かくも良い道で止まってはならない。医師の報酬が今後は風邪の治癒に、判事の待遇が累犯数に、閣僚と大統領の待遇が失業率によって決まることを私は要求する。それでも私は、教師だけがフランスに侵入した経営的愚かさの犠牲者であることを恐れる。フランス革命が全ての市民に、学校と教師に関しては、頭を通り過ぎるくだらない話をくどくどと述べる不可侵の権利を保証したのが真実である限り。
J. J.
出典
LE NOUVEL OBSERVATEUR 2258 14-20 FÉVRIER 2008
http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2258/articles/a366464-.html
暴力に脅かされるフランスの教員【1】 以下の記事に続きます。
筆者が書いているように、権威 autorité という言葉は余り使いたくありませんが、教育の「サービス業」化、生徒や父兄の「消費者」意識の増大が、教師の「権威」の低下を招き、教育現場に混乱をもたらしていることは確かです。日本の「モンスター・ペアレンツ」を思い起こさせます。まして、生徒に教師を評価させるなど、意味のないことはここで指摘するまでもありません。新自由主義の側の人々が、教育のサービス化を促進することの愚など、語るのも汚らわしい。数年後、十数年後にしか結果のわからない教育に「成果」を求め、手のひらを返すように方針を転換して現場や親を混乱させていることは、一種の犯罪であると思います。
次回は、フランスの学校における暴力の数字chiffreに関する記事(の予定)です。