大津のいじめのニュースをみた。
テレビやネット、雑誌の内容は作り手の思いが入ったり、現場についてよく知らずにかいてあることがあるので、慎重に、受け取らなければいけないと思っている。
いじめのない学校など皆無だし、それは大人の世界だって、会社だってそうだ。
自分だって、担任をもちながら、クラスのいじめに気付いていない時だってある。
だから
「いじめは許されない、あってはならない」
という目で見るのではなく。
「小さないじめなら何処にでもある」
という目で見ている。
この事件が起こってからよく提案されるアンケートをとるという方法も、自分の見方を客観的に見返したり、見落としを防ぐための手立ての一つだとは思うが、基本的には教員の見取りをしっかりすることしかないんじゃないかなと思う。
以前、養護学校に看護師を配置する話になった時、最初は看護師の方から断られたという話を聞いたことがある。
看護師の資格があるのならば問題はないのだろうと考えたのだが、看護師の方の説明は
「看護の仕事は、患者と接する感覚や、治療の技術が大事で、それは、常に現場にいて、磨かれてこそ維持できるもの。患者の看護をする機会が限られた状態の場所では、その技術を維持し、看護師の仕事を充分にできるとは言い切れない」とのことだった。
教員の感覚も同じだと思う。
授業の時、朝学活の時、一方的に情報を伝達するだけの存在ではなく、生徒の表情、キャラクター、考え方を見て、それにあわせた授業や指導をしていくのが教員だと思う。
教員の指導は、話すことではなく、相手のつかむことから始まっている。
そうでなければ、教材化なんて意味のない言葉になってしまう。
えらそうに言っていて
「お前はできているのか」
といわれれば、私も怪しいところがあるのだが
少なくとも自ら命を絶とうとまで考えている生徒を目の前にしていれば何かしら感じる
無視していたんじゃないかと思う。
知っていて放っておいたというほど悪質ではないかも知れない
(まぁその可能性を充分に疑いたくはなるが)
「うちのクラスにはいじめはないだろう」と
思いたくて、感覚を鈍らせていた教員がいたのではないだろうか
いじめの指導、生徒同士の仲たがい、クラスの揉め事
指導するのは面倒だし、時間がかかる。だからできるだけ手を出さないほうが、仕事は楽になる。
学問だけ教えればいいというだけのスタンスにたって、担任を受けないほうがどんなに楽だろうか。
ただ、そういう感覚を鈍らせてしまったら、教員としての技能はどうなるのだろう。
子どもの心を捉えることが教員の一番の技能ではないか?
学問を究めたり、伝えるだけならば、教員よりももっと知識のある人はいるだろうし
専門の職業の方の知識技術にはかなうわけがない。
教員が教員と名乗れるのは、人について知り、その個人に合わせた指導ができる技術を磨いているからだろう。
命を絶ってしまった生徒に申し訳ない気持jちだ
今の私にできることはなんだろうか。
拙いものではあるけれど、自分の技術を磨き続けることしかない。
カウンセリングの技術を学んだり、生徒指導のスキルを身につけることも一つだ。
それは見方や手立てを一つ増やすことに役立つ
しかし、それだけでは評論家にはなれても、実践者にはなれない。
我々は、教育学者でも、教育評論家でもなく、実践を行う教員なのだから。
一人ひとりの子どもたちを見る、自分の目や感覚も大事にしていきたい。
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