昨日地元に帰ってきた。しかしたったの5日間なので避難にも何にもならないという。
とりあえず、今度は父と一緒に念入りに母を説得しておいた。
それについての報告はまたそのうちということで。
実家に帰ったら、父が原発の話ばかりする。
僕は東京にいるときあまり原発のことを調べなかったのだが、父があまりにうるさいので自分でも調べてみることにした。
せっかくなので、そうして得た情報をここで自分なりにまとめてみる。
なお、情報収集には以下のサイトが非常に役に立った(ただし情報が古いかもしれないので注意)。
http://d.hatena.ne.jp/arc_at_dmz/
「炉心溶融」とは?
まず「炉心」とは主に、「燃料棒」の集合体を指す。その「燃料棒」というのは、燃料であるウランを「ジルコニウム」という金属でできた管に詰め込んだものである。
(wikipedia参照)
「炉心溶融」で辞書を引くと「燃料棒が溶けること」と書いてあるが、これはちゃんと言えば「ジルコニウム」が高温で溶けることである(注1)。
これが起こると、燃料棒に閉じ込められていた放射性物質が外に流れ出る。ただしここで「外」というのは、もちろん環境のことではない。
炉心そのものは「圧力容器」という、名前の通り圧力釜みたいなものに覆われている。
さらにその外側は、放射線を一切外に出さないための「格納容器」(これ重要)に覆われており、さらにそれをコンクリートの「建屋」が囲んでいる。
(原発の構造はこちら)
つまり外側の「格納容器」が破損しない限り、放射能が外に漏れることはない。
(と言っても1号機や3号機ではそれ以外の要因で漏れたのだが、それは後で述べる)
今回、冷却水のポンプにトラブルがあって燃料棒が露出する事故が相次いでいるが、燃料棒は冷やさずに放っておくとどんどん高温になっていくので、そのようなリスクが生じるのである。
なぜ勝手に高温になるのかと言うと、ウランの核分裂は止められていても、核分裂で生じた「核分裂生成物」が勝手に崩壊(原子核の陽子や中性子が、分裂したり別のものに変わったりして放射線を出す現象)して熱を出すからである。
水素爆発について
1号機と3号機の建屋、および4号機の燃料プール(注2)で、水素爆発が起こったと推測されている。
水素が危険な気体であることは、大体の人が知っているだろう。酸素と混合させて火をつけると爆発を起こす、恐ろしい気体である。
問題は水素が発生した原因の方だが、これも燃料棒の露出が関係している。燃料棒の露出した部分を取り巻くのは、ほとんどが水蒸気であると言っていいだろう。
燃料棒の温度が1200℃ぐらいまで上昇すると、被覆のジルコニウムと水蒸気が化学反応を起こす。水はH2O、すなわち水素と酸素からできているが、その酸素がジルコニウムの方とくっついてしまい、水素だけが取り残されるのである(ここで、ジルコニウムが酸化して腐食することもにも注目)。
こうして炉心を取り囲む圧力容器内に水素が発生するのだが、この時点では多量の水蒸気と混ざっているから、爆発する心配はない。
1号機と3号機の場合は、これが建屋内に放出された。何故かというと、圧力容器内で水が蒸発して圧力が高まり、容器破損の恐れがあったため放出せざるを得なかったのである。
建屋の上部に放出された水素と水蒸気の混合気体だが、そこでは圧力容器内より温度が低いため、水蒸気が凝結して水に変わる。
そして取り残された水素は、そこで空気と混合する。そして何らかの原因で火が付き、建屋の壁を吹っ飛ばすほどの爆発が起こったのである。
このとき一時的に大気中の放射線レベルが急上昇したが、これは水蒸気に放射性物質が含まれていたせいである。
さっきの水素が発生するところまで遡ってほしいのだが、ジルコニウムが水蒸気と化学反応を起こすと、酸化してしまうのである。そしてそのとき、燃料棒内の放射性物質(主にセシウムとヨウ素)が水蒸気の中に漏れ出すのだ。
それらの放射性物質が水蒸気と共に建屋内に放出され、爆発で周囲に飛び散ったわけである。
ただし、それらの放射性物質はコンスタントに出続けるわけではないから、すぐに拡散して大気中の放射線レベルは下がった。
また4号機では、燃料プールで水素爆発が起こったと言われている。
それが本当だとすれば、原理は1号機や3号機とほとんど同じであろう。
使用済み核燃料とは言え、中の「核分裂生成物」は先ほど炉心溶融のとき説明したように「崩壊」して熱を放出し続ける。
もしそのときプールの水位が下がって使用済みの燃料棒が露出すると、高温になった表面のジルコニウムが水蒸気と反応して水素が発生する。
しかし、16日の報道では燃料プールに大量の水があることが目視で確認されたということだ。
「プールに水ない」と発言していた米国NRCのヤツコ委員長も、後に発言を修正している。
http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY201103180139.html
これがどうもよく分からない。燃料棒が全部浸かるくらいプールに水が溜まっていたのなら、水素は発生しないと思うのだが……。
まあ、「水素爆発」というのも枝野官房長官が推測で言ったことだから確実とは言えない。
しかし「プールに水あった」報道の後そのことに触れる記事が全く出ていないというのはどういうことだろう?
誰か詳しい人、教えてくださいm(_)m
あと、何か不適切な記述が見つかった場合はご指摘ください。
(注1)ただし、巷で心配されているのは文字通り「溶ける」だけじゃなく、熱や圧力で破損したり、酸化してボロボロになることも含まれると思われる。
(注2)後述のように、僕はこれにちょっと疑問を抱いている。
昨日,駅の近くで共産党の人たちが募金活動をしているのを見た.
勿論,例の地震の被災者支援のための募金である.
そのときは「うわ~共産党かよ」と思って目を合わさず通り過ぎてしまった.
僕はあまり共産党を支持していないので,「本当に届けられるのかよ」という疑いを持ってしまったのである.
今にしてみれば,こういうときぐらい募金しても良かったと思う.
実は,僕は以前駅前で募金詐欺に引っかかったことがある.
名前を出すと「日本ボランティア会」という団体である.wikipediaを見れば大体どんな団体か分かる.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E4%BC%9A
それ以来,僕は街頭募金には応じないよう心に決めている.
もし募金するなら,ネットでまともな団体を探してしたほうがいい.
だから今回のこともその教訓に基づいた合理的な行動だとは言えるのだが,それでもなんだか自分の心が以前より冷たくなってしまったような感じがしてならない.
以前「サイボーグ009」というアニメで,主人公の島村ジョーというキャラクターが言っていた台詞を思い出した.
「ブラックゴースト(敵の組織)のせいで人を信じられなくなったら,それこそ奴等に負けたことになる!」
募金詐欺などやる連中は許せないが,そういうのに引っかかるのを恐れるあまり人を信じられないという状態にはなりたくないと思う.
話は変わるが,今のところボランティアの受け入れをしている地域はないらしい.
何だかときどき,自分はこんなところで何もせずのうのうと生活していていいのかとも思うのだが…….
しかし,地震で困っているのは被災地の人たちだけではないのだなあと思う出来事があった.
地震のあった日のことである.僕は自分のアパートにいるのが怖くて,近くの喫茶店に入ってしばらく時間を過ごすことにした.
(僕の住処は風が吹いただけで揺れるようなボロアパートである.もう一回震度5弱が来たら倒壊するんじゃないかと心配でならない)
その喫茶店,2階は全て喫煙席である.仕方がないから3階でケーキを食べていたが,時々余震が来るので怖くて仕方がない.
もしまた大きいのが来たら,逃げるのに時間がかかってしまうだろう.そう思って1階に移動したが,どこのテーブルにも人が座っている.
どうしようか迷って立ち往生していたとき,一つのテーブルに座っている女性から声をかけられた.
「座りますか?」と,空いている向かいの席を指して言ってくれた.僕は喜んでその言葉に甘えた.
その女性と,隣のテーブルに座っていた会社員らしき人たちが親密そうに話をしていたので,僕も参加することにした.
その後,そのテーブルの周辺にまた2人ほど人が集まった.話を聞くと,大方は少し離れた街から来て,電車が止まったせいで帰れなくなった人たちだった.
一人の陽気なフランス人のお年寄りが,「こうして誰かとお話するだけで,心が柔らかくなりますね」と楽しそうに言っていた.
大分長いこと談話していた.7時を回り,少しずつ席を立つ人が出てきた.電車は動いていなかったが,それぞれにタクシーを拾うなどして帰り始めた.
そのうちの一人に,僕と年が近い大学生の女の人がいた.どこかでタクシーを拾うと言って席を立ったが,近くでタクシーを拾えるような場所を知らないと言うので付き添ってあげることにした.
と言っても僕は方向音痴であるから,地元民であるにも関わらず全く役に立たない始末だった.
大分自分の勘を信じてあっちこっち連れ回し疲れさせてしまったが,向こうはそれを咎めるどころか感謝してくれた.
最終的には,別の大きな駅へ向かうバスを見つけ,彼女はそれに乗っていった.
自分の住んでいる街から離れて不安な気持ちになっている人の横にいてあげるだけでも,僕は少しは役に立つことができたのだろうか.
あの人が無事に家に帰れたことを祈る.
因みにその人は僕より一つ年上で,なかなかの美人だった.
思わず「彼氏いる?」と聞いたところ,「いる」とのことだった.ちょっと残念であった.
勿論,例の地震の被災者支援のための募金である.
そのときは「うわ~共産党かよ」と思って目を合わさず通り過ぎてしまった.
僕はあまり共産党を支持していないので,「本当に届けられるのかよ」という疑いを持ってしまったのである.
今にしてみれば,こういうときぐらい募金しても良かったと思う.
実は,僕は以前駅前で募金詐欺に引っかかったことがある.
名前を出すと「日本ボランティア会」という団体である.wikipediaを見れば大体どんな団体か分かる.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E4%BC%9A
それ以来,僕は街頭募金には応じないよう心に決めている.
もし募金するなら,ネットでまともな団体を探してしたほうがいい.
だから今回のこともその教訓に基づいた合理的な行動だとは言えるのだが,それでもなんだか自分の心が以前より冷たくなってしまったような感じがしてならない.
以前「サイボーグ009」というアニメで,主人公の島村ジョーというキャラクターが言っていた台詞を思い出した.
「ブラックゴースト(敵の組織)のせいで人を信じられなくなったら,それこそ奴等に負けたことになる!」
募金詐欺などやる連中は許せないが,そういうのに引っかかるのを恐れるあまり人を信じられないという状態にはなりたくないと思う.
話は変わるが,今のところボランティアの受け入れをしている地域はないらしい.
何だかときどき,自分はこんなところで何もせずのうのうと生活していていいのかとも思うのだが…….
しかし,地震で困っているのは被災地の人たちだけではないのだなあと思う出来事があった.
地震のあった日のことである.僕は自分のアパートにいるのが怖くて,近くの喫茶店に入ってしばらく時間を過ごすことにした.
(僕の住処は風が吹いただけで揺れるようなボロアパートである.もう一回震度5弱が来たら倒壊するんじゃないかと心配でならない)
その喫茶店,2階は全て喫煙席である.仕方がないから3階でケーキを食べていたが,時々余震が来るので怖くて仕方がない.
もしまた大きいのが来たら,逃げるのに時間がかかってしまうだろう.そう思って1階に移動したが,どこのテーブルにも人が座っている.
どうしようか迷って立ち往生していたとき,一つのテーブルに座っている女性から声をかけられた.
「座りますか?」と,空いている向かいの席を指して言ってくれた.僕は喜んでその言葉に甘えた.
その女性と,隣のテーブルに座っていた会社員らしき人たちが親密そうに話をしていたので,僕も参加することにした.
その後,そのテーブルの周辺にまた2人ほど人が集まった.話を聞くと,大方は少し離れた街から来て,電車が止まったせいで帰れなくなった人たちだった.
一人の陽気なフランス人のお年寄りが,「こうして誰かとお話するだけで,心が柔らかくなりますね」と楽しそうに言っていた.
大分長いこと談話していた.7時を回り,少しずつ席を立つ人が出てきた.電車は動いていなかったが,それぞれにタクシーを拾うなどして帰り始めた.
そのうちの一人に,僕と年が近い大学生の女の人がいた.どこかでタクシーを拾うと言って席を立ったが,近くでタクシーを拾えるような場所を知らないと言うので付き添ってあげることにした.
と言っても僕は方向音痴であるから,地元民であるにも関わらず全く役に立たない始末だった.
大分自分の勘を信じてあっちこっち連れ回し疲れさせてしまったが,向こうはそれを咎めるどころか感謝してくれた.
最終的には,別の大きな駅へ向かうバスを見つけ,彼女はそれに乗っていった.
自分の住んでいる街から離れて不安な気持ちになっている人の横にいてあげるだけでも,僕は少しは役に立つことができたのだろうか.
あの人が無事に家に帰れたことを祈る.
因みにその人は僕より一つ年上で,なかなかの美人だった.
思わず「彼氏いる?」と聞いたところ,「いる」とのことだった.ちょっと残念であった.
前回は,「慣性の法則が成り立たない視点で見たときの補正」であるところの慣性力について解説した.
ところで,この慣性力を使えば,part1で紹介しただるま落としの原理がきちんと説明できる.
ここでもう一度詳しく書くことはしないが,あの説明の問題点というのは要するに「うまく叩くとなぜ摩擦力が働かなくなるのか」を説明していないことであった.
これは別に慣性力を使わなくても説明できる(注1)のだが,使ったほうが圧倒的に分かりやすくなると思われる例の一つである.
まず,今からの説明を理解するのに必要な前提知識として,静摩擦力と動摩擦力というのがある.
例えば,床の上に置いてある重い箪笥を想像してみて欲しい.
その箪笥を押して動かそうというとき,当然ある程度の力を込めないと動かないだろう.
力が弱すぎると,びくともしない.それは,箪笥と床の間に「静摩擦力」が働くせいだ.
この「静摩擦力」というのは,我々が箪笥を押す力に応じて箪笥を押し返そうとしてくる摩擦力だ.
だから弱い力で箪笥を押しても,この静摩擦力に対抗されてしまい箪笥を動かすことができない.
しかし,静摩擦力には限界値が存在する.その限界は,箪笥の底や床の表面のでこぼこであったり,箪笥の重さによって決まる.
その限界を超える力で箪笥を押してやれば,我々の力が静摩擦力に打ち勝ち,箪笥を動かすことができる.
こうして箪笥を押して動かし始めても,床との摩擦は消えないだろう.
しかし経験的に,こういうのは「一度動かし始めれば楽」な気がしないだろうか?
その我々の経験は,物理の概念を使ってきちんと説明できる.
実は,箪笥を押して動かしている途中で床から受ける摩擦力は「動摩擦力」といって,先ほど述べた「静摩擦力の限界値」よりも小さいのである.
つまり,箪笥を動かし始めるのにはある決まった大きさ以上の力が必要だが,一度動き始めてしまえばそれより小さい力で動かし続けることができるのである.
これが,だるま落としにも大きく関係している.
だるま落としを分析するのにはまず,現象を見る視点を「叩かれるブロック」に固定しよう.
つまり,叩かれたブロックが常に画面の中央に写るようにカメラで追いかけ続けるというような状況を想像する.
このとき,叩かれたブロックは叩かれた方向へ力を受けて加速される.よってそのブロックから見ると,その上のブロック達は叩いた方向と逆方向へ慣性力を受けることになる.

この説明で分かりづらい人は,自分が巨大なだるま落としのブロックの上に立っていて,そのブロックがハンマーで叩かれるという状況を考えるといいかもしれない.
そうすると当然,あなたは「おっとっと」とバランスを崩すだろう.その「バランスを崩させる力」こそが上の図における慣性力である.
ブロックをハンマーで思いっきり叩いたときほど,ブロックが弾き出される際の加速度が大きくなる.
前回書いたように,慣性力の大きさは視点の加速度に比例する.つまり強く叩いて加速度が大きいほど,慣性力は大きい.
そしてこの慣性力の大きさが,だるま落としの「成功」と「失敗」を分けることになる.
先ほどの「静摩擦力」を話を思い出そう.先ほどの床と箪笥の関係は,ちょうどこの場合の「叩かれたブロック」と「その上のブロック」の関係と同じである.
「上のブロック」に働く慣性力が小さく,二つのブロック間に働く「静摩擦力の限界値」より小さい場合,上のブロックは叩かれたブロックの真上の位置から相対的にずれることはない.
つまり,上のブロックはずっと叩かれたブロックに乗ったまま付いていく.こうなると,だるま落としという遊びとしては「失敗」である.
また,上のブロックに働く慣性力が十分に大きく「静摩擦力の限界値」を超えたときには,上のブロックが「叩かれたブロック」に対してずれ始める.
こうなると,先ほど述べたとおりブロック間に働く摩擦力は「静摩擦力の限界値」より小さくなる.
つまり「失敗」した場合と比べて,2つのブロックの間に働く摩擦が「ほとんどない」ように見なせるのである.
これが,だるま落としの説明に慣性の法則を使っていい理由である.
本来は僅かに動摩擦力が働いているのだが,それは無視していいほど小さい.だから慣性の法則が適用できるのだ.
こうして見ると,だるま落としの原理を説明するのは何と面倒なことか.
決して「慣性の法則によって,上のブロックがその場に留まろうとするから」なんて一言では片付けられない.
ここで,part2で述べた「内在的な力」との関連を少し考察しよう.
ニュートンが想定していた「内在的な力」(または「慣性力」(注2))を使ってこのだるま落としを説明しようと思ったら,恐らく次のようになるだろう.
『叩かれたブロックとその上のブロックの間には摩擦力が働くが,同時に上のブロックにはその場に留まろうとする内在的な力が存在する.その内在的な力が「静摩擦力の限界値」を超えれば,上のブロックに働くのは「静摩擦力」ではなく「動摩擦力」となり,それは実質的に大した大きさでないから上のブロックはほぼ真下に落ちる』
これを先ほどの,(現代的な意味での)慣性力を使った説明と見比べてみよう.似ている……というか,ほとんど同じに見えないだろうか.
違うのは,慣性力と言っていたところが「内在的な力」に置き換わっていることだけである.
こうして見ると,ニュートンが「内在的な力」の存在を想定していたのは,慣性力についての考察もあってのことだったのではないかという気がする.
(勿論,実際には「内在的な力」など存在しないが.)
あと,慣性力といえば時々耳にする「遠心力」や「コリオリ力」(こっちは少しマイナーか?)といったものもその一種なのだが,その話は今回扱わなかった.
また機会があったらそれらについての記事も書かせて頂くかもしれない.
※もし記述の中におかしな点がありましたらご指摘頂けると助かります.また,ご意見やご感想も募集しております.気軽にコメントで書き込んでください.
(注1)というか慣性力を使った説明は「視点を変換」して物事を分かりやすくしているだけだから,全ての現象は慣性力を使わずに説明できる.
(注2)紛らわしいから,以下「内在的な力」という意味の「慣性力」は鉤括弧付き,現代的な意味の方は何もなしで書く.
ところで,この慣性力を使えば,part1で紹介しただるま落としの原理がきちんと説明できる.
ここでもう一度詳しく書くことはしないが,あの説明の問題点というのは要するに「うまく叩くとなぜ摩擦力が働かなくなるのか」を説明していないことであった.
これは別に慣性力を使わなくても説明できる(注1)のだが,使ったほうが圧倒的に分かりやすくなると思われる例の一つである.
まず,今からの説明を理解するのに必要な前提知識として,静摩擦力と動摩擦力というのがある.
例えば,床の上に置いてある重い箪笥を想像してみて欲しい.
その箪笥を押して動かそうというとき,当然ある程度の力を込めないと動かないだろう.
力が弱すぎると,びくともしない.それは,箪笥と床の間に「静摩擦力」が働くせいだ.
この「静摩擦力」というのは,我々が箪笥を押す力に応じて箪笥を押し返そうとしてくる摩擦力だ.
だから弱い力で箪笥を押しても,この静摩擦力に対抗されてしまい箪笥を動かすことができない.
しかし,静摩擦力には限界値が存在する.その限界は,箪笥の底や床の表面のでこぼこであったり,箪笥の重さによって決まる.
その限界を超える力で箪笥を押してやれば,我々の力が静摩擦力に打ち勝ち,箪笥を動かすことができる.
こうして箪笥を押して動かし始めても,床との摩擦は消えないだろう.
しかし経験的に,こういうのは「一度動かし始めれば楽」な気がしないだろうか?
その我々の経験は,物理の概念を使ってきちんと説明できる.
実は,箪笥を押して動かしている途中で床から受ける摩擦力は「動摩擦力」といって,先ほど述べた「静摩擦力の限界値」よりも小さいのである.
つまり,箪笥を動かし始めるのにはある決まった大きさ以上の力が必要だが,一度動き始めてしまえばそれより小さい力で動かし続けることができるのである.
これが,だるま落としにも大きく関係している.
だるま落としを分析するのにはまず,現象を見る視点を「叩かれるブロック」に固定しよう.
つまり,叩かれたブロックが常に画面の中央に写るようにカメラで追いかけ続けるというような状況を想像する.
このとき,叩かれたブロックは叩かれた方向へ力を受けて加速される.よってそのブロックから見ると,その上のブロック達は叩いた方向と逆方向へ慣性力を受けることになる.

この説明で分かりづらい人は,自分が巨大なだるま落としのブロックの上に立っていて,そのブロックがハンマーで叩かれるという状況を考えるといいかもしれない.
そうすると当然,あなたは「おっとっと」とバランスを崩すだろう.その「バランスを崩させる力」こそが上の図における慣性力である.
ブロックをハンマーで思いっきり叩いたときほど,ブロックが弾き出される際の加速度が大きくなる.
前回書いたように,慣性力の大きさは視点の加速度に比例する.つまり強く叩いて加速度が大きいほど,慣性力は大きい.
そしてこの慣性力の大きさが,だるま落としの「成功」と「失敗」を分けることになる.
先ほどの「静摩擦力」を話を思い出そう.先ほどの床と箪笥の関係は,ちょうどこの場合の「叩かれたブロック」と「その上のブロック」の関係と同じである.
「上のブロック」に働く慣性力が小さく,二つのブロック間に働く「静摩擦力の限界値」より小さい場合,上のブロックは叩かれたブロックの真上の位置から相対的にずれることはない.
つまり,上のブロックはずっと叩かれたブロックに乗ったまま付いていく.こうなると,だるま落としという遊びとしては「失敗」である.
また,上のブロックに働く慣性力が十分に大きく「静摩擦力の限界値」を超えたときには,上のブロックが「叩かれたブロック」に対してずれ始める.
こうなると,先ほど述べたとおりブロック間に働く摩擦力は「静摩擦力の限界値」より小さくなる.
つまり「失敗」した場合と比べて,2つのブロックの間に働く摩擦が「ほとんどない」ように見なせるのである.
これが,だるま落としの説明に慣性の法則を使っていい理由である.
本来は僅かに動摩擦力が働いているのだが,それは無視していいほど小さい.だから慣性の法則が適用できるのだ.
こうして見ると,だるま落としの原理を説明するのは何と面倒なことか.
決して「慣性の法則によって,上のブロックがその場に留まろうとするから」なんて一言では片付けられない.
ここで,part2で述べた「内在的な力」との関連を少し考察しよう.
ニュートンが想定していた「内在的な力」(または「慣性力」(注2))を使ってこのだるま落としを説明しようと思ったら,恐らく次のようになるだろう.
『叩かれたブロックとその上のブロックの間には摩擦力が働くが,同時に上のブロックにはその場に留まろうとする内在的な力が存在する.その内在的な力が「静摩擦力の限界値」を超えれば,上のブロックに働くのは「静摩擦力」ではなく「動摩擦力」となり,それは実質的に大した大きさでないから上のブロックはほぼ真下に落ちる』
これを先ほどの,(現代的な意味での)慣性力を使った説明と見比べてみよう.似ている……というか,ほとんど同じに見えないだろうか.
違うのは,慣性力と言っていたところが「内在的な力」に置き換わっていることだけである.
こうして見ると,ニュートンが「内在的な力」の存在を想定していたのは,慣性力についての考察もあってのことだったのではないかという気がする.
(勿論,実際には「内在的な力」など存在しないが.)
あと,慣性力といえば時々耳にする「遠心力」や「コリオリ力」(こっちは少しマイナーか?)といったものもその一種なのだが,その話は今回扱わなかった.
また機会があったらそれらについての記事も書かせて頂くかもしれない.
※もし記述の中におかしな点がありましたらご指摘頂けると助かります.また,ご意見やご感想も募集しております.気軽にコメントで書き込んでください.
(注1)というか慣性力を使った説明は「視点を変換」して物事を分かりやすくしているだけだから,全ての現象は慣性力を使わずに説明できる.
(注2)紛らわしいから,以下「内在的な力」という意味の「慣性力」は鉤括弧付き,現代的な意味の方は何もなしで書く.