皆さんお久しぶりです。
大分長い間放置してしまったので,もう見てる人も少ないと思いますが。
放置してしまってすいません(汗)
実は,ある教育系サークルでの活動が忙しく,ニセ科学関係のことにはもうほとんど時間を割くことができない状況です。
そっちの方でやってるブログ(随時更新中):
http://ameblo.jp/you-manavee/
なので,こっちのブログは事実上更新停止ということになります。
良かったら新しいブログの方をよろしくお願いしますm(_)m
今日は色々と失態をやらかした日だった。
鞄の中にバナナを入れていたのを忘れて本を詰め込み、中で潰してしまうわ(これで二度目)、演習の発表のとき初歩的なことを忘れて間違うわ、サークルでやったイベントの反省会に出席し忘れるわ。
……いや、忘れすぎだろ僕。
まあそんなことは僕にとって割とよくある話なので置いておくとして、最近とにかく勉強しなきゃまずいと痛感している。
うちの学科は、優秀な人が多い。最近になって特にそれを感じる。
演習の時間などになると、僕が一つの問題でずっと悩んでいる間に、他の人は次々と問題を解いていく。
自分の計算力のなさに愕然とする瞬間である。
しかし不思議なのは、そのとき習った内容などについて学科の人と喋っていると、案外僕の方が分かっている(と思える)ことが多い(もちろん相手によるが)ということである。
そういうことがあると、つい「あれ、僕って割とできる方なんじゃね?」などと思ってしまう。
ところが、演習が始まると大概前述のような散々な結果になるのである。
つまり、僕はどちらかと言えば「分かるけどできない人」なのである。
以前、何かの授業のとき教員が、「『分かる』と『できる』には大きな隔たりがある」と言っていた。これは本質的で重要な事実である。
これは単純に、どっちが難しいとか、どっちが凄いかとか言える問題ではない。
恐らく僕とは逆で、「分かってないけどできる人」もいるはずである。「できる」素養と「分かる」素養は(完全にではないが)別物であり、どちらも大事な素養なのである。
もちろん、「できる」ことは「分かる」ことに繋がる(逆も真)。
授業を受けているとき「算数」(主としてあまり面白くもない式変形などを行う作業をこう呼ぶ。ただし簡単とは限らない)ができなくて止まってしまうと、それだけで授業についていけなくなり、理解が進まなくなる。
つまり「分かる」を重視するにしろ、結局ある程度の基礎体力は必須なのである。
あと、演習で活躍できないとやはりちょっとカッコ悪い。
というわけで、これからはなるべく手を動かす習慣をつけることにした。教科書をただ追っているだけでは計算力はつかない。
また、今までの話には関係ないが、同時進行で原子力政策についての勉強も始めることにした。
今まで、自分の知識を世の中に還元するために「サイエンスコミュニケーション」(でんじろうさん的なこと)をするサークルで活動してきたが、今の世の中を見ていると、何だか「こんな悠長なことをしていていいのか」という気になってくる。
今の世は明らかに、何かを考えたり、判断するための基本的な「材料」が不足している気がする。
それは単純な「知識」だけじゃなく、考え方の様式や、センスのようなものも含めてだ。
そして、その一部を提供する能力と責任が僕にあると考えるのは、決して自惚れではないと僕は信じている。
というわけで、まずは愚直に、今世の中で関心が集まっている原子力問題から切り込んでみたい。そして僕の方から世の中に何かを問いかけることで、話をさらに一般的な方向へ繋げていけたら理想的である。
実はすでに、そういったことができそうなコミュニティに僕は所属している。
色々と大変ではあるが、何よりも自分が輝くために、できることを精一杯やっていくつもりである。
鞄の中にバナナを入れていたのを忘れて本を詰め込み、中で潰してしまうわ(これで二度目)、演習の発表のとき初歩的なことを忘れて間違うわ、サークルでやったイベントの反省会に出席し忘れるわ。
……いや、忘れすぎだろ僕。
まあそんなことは僕にとって割とよくある話なので置いておくとして、最近とにかく勉強しなきゃまずいと痛感している。
うちの学科は、優秀な人が多い。最近になって特にそれを感じる。
演習の時間などになると、僕が一つの問題でずっと悩んでいる間に、他の人は次々と問題を解いていく。
自分の計算力のなさに愕然とする瞬間である。
しかし不思議なのは、そのとき習った内容などについて学科の人と喋っていると、案外僕の方が分かっている(と思える)ことが多い(もちろん相手によるが)ということである。
そういうことがあると、つい「あれ、僕って割とできる方なんじゃね?」などと思ってしまう。
ところが、演習が始まると大概前述のような散々な結果になるのである。
つまり、僕はどちらかと言えば「分かるけどできない人」なのである。
以前、何かの授業のとき教員が、「『分かる』と『できる』には大きな隔たりがある」と言っていた。これは本質的で重要な事実である。
これは単純に、どっちが難しいとか、どっちが凄いかとか言える問題ではない。
恐らく僕とは逆で、「分かってないけどできる人」もいるはずである。「できる」素養と「分かる」素養は(完全にではないが)別物であり、どちらも大事な素養なのである。
もちろん、「できる」ことは「分かる」ことに繋がる(逆も真)。
授業を受けているとき「算数」(主としてあまり面白くもない式変形などを行う作業をこう呼ぶ。ただし簡単とは限らない)ができなくて止まってしまうと、それだけで授業についていけなくなり、理解が進まなくなる。
つまり「分かる」を重視するにしろ、結局ある程度の基礎体力は必須なのである。
あと、演習で活躍できないとやはりちょっとカッコ悪い。
というわけで、これからはなるべく手を動かす習慣をつけることにした。教科書をただ追っているだけでは計算力はつかない。
また、今までの話には関係ないが、同時進行で原子力政策についての勉強も始めることにした。
今まで、自分の知識を世の中に還元するために「サイエンスコミュニケーション」(でんじろうさん的なこと)をするサークルで活動してきたが、今の世の中を見ていると、何だか「こんな悠長なことをしていていいのか」という気になってくる。
今の世は明らかに、何かを考えたり、判断するための基本的な「材料」が不足している気がする。
それは単純な「知識」だけじゃなく、考え方の様式や、センスのようなものも含めてだ。
そして、その一部を提供する能力と責任が僕にあると考えるのは、決して自惚れではないと僕は信じている。
というわけで、まずは愚直に、今世の中で関心が集まっている原子力問題から切り込んでみたい。そして僕の方から世の中に何かを問いかけることで、話をさらに一般的な方向へ繋げていけたら理想的である。
実はすでに、そういったことができそうなコミュニティに僕は所属している。
色々と大変ではあるが、何よりも自分が輝くために、できることを精一杯やっていくつもりである。
皆さん,お久しぶり.
最近,授業やレポートや実験やサークルに追われて更新する暇がまるでない.
驚くべきことに土曜にも授業が入っている.うちの学科は学生を殺す気だとしか考えられない.
しかしそれでも早めに書いておきたいエピソードが一つあるので,こうしてキーを叩いている.
一週間前,実家の母親に母の日のプレゼントを贈った.メッセージカード付きで.
こんなことをしたのは生まれて初めてだ.
先ほど述べた異常なまでの忙しさのせいで,発送が7日になってしまった.
速達にすれば8日に着いただろうが,金をケチって普通郵便にしたせいで到着が9日になった.
中身の方もかなりケチった.店で売ってる中で一番安い造花を選んだ.
プレゼントなのだしもう少し奮発しようとも思ったが,そもそも親の金なのだから,親へのプレゼントに注ぎ込むのも何だか違う気がしたのだ.
それでも,向こうは本当に喜んでくれたようだ.
9日の夜に母から来たメールには,母だけでなく,父や祖母まで自分のことのように喜んでいると書いてあった.
あんなお粗末な物でそこまで喜ぶなど,やはりお目出度い親である.
去年の夏ごろだったと思うが,僕の下宿に泊りに来た友達が,リリー・フランキーの言葉を引用したことがあった.
「母の日に電話一本する事すら照れているような奴は、どんなスーツを着ていても かっこよくないと思いますけどね。」
そのときから,次の母の日には遠く離れた実家にいる母に何か贈ろうと決めていた.
また,4月の初めごろ,大学のキャンパスが変わる関係で下宿を引っ越すことになった.
そのときは,両親二人ともこっちへ来て,色々大変な作業を手伝ってくれた(というより僕より働いていた).
GWのときも,今度は母親一人でまたやってきて,僕がいつもサボっている掃除や洗濯をしてくれた.
大学生にもなって情けない話である.
もちろん他にも,山ほどお世話になった.その全てを書き出すことなど到底できない.
また,迷惑をかけたことも数えきれない.
以前僕が,少し心を病んでいて,家の物を意味もなく壊したり,暴れたりしたことがあった.
そんなどうしようもない僕のことも,両親は暖かく包み込んでくれた.
もちろん理解し合えないことや,許せないこともあったけれど,感謝してもし足りない親である.
「ありがとう」と言ったり,何かしてあげられる期間は永遠ではないのだ.
いつかその日がきたとき,僕は「あの言葉を言い忘れた」と後悔しないでいられるだろうか.
最近,授業やレポートや実験やサークルに追われて更新する暇がまるでない.
驚くべきことに土曜にも授業が入っている.うちの学科は学生を殺す気だとしか考えられない.
しかしそれでも早めに書いておきたいエピソードが一つあるので,こうしてキーを叩いている.
一週間前,実家の母親に母の日のプレゼントを贈った.メッセージカード付きで.
こんなことをしたのは生まれて初めてだ.
先ほど述べた異常なまでの忙しさのせいで,発送が7日になってしまった.
速達にすれば8日に着いただろうが,金をケチって普通郵便にしたせいで到着が9日になった.
中身の方もかなりケチった.店で売ってる中で一番安い造花を選んだ.
プレゼントなのだしもう少し奮発しようとも思ったが,そもそも親の金なのだから,親へのプレゼントに注ぎ込むのも何だか違う気がしたのだ.
それでも,向こうは本当に喜んでくれたようだ.
9日の夜に母から来たメールには,母だけでなく,父や祖母まで自分のことのように喜んでいると書いてあった.
あんなお粗末な物でそこまで喜ぶなど,やはりお目出度い親である.
去年の夏ごろだったと思うが,僕の下宿に泊りに来た友達が,リリー・フランキーの言葉を引用したことがあった.
「母の日に電話一本する事すら照れているような奴は、どんなスーツを着ていても かっこよくないと思いますけどね。」
そのときから,次の母の日には遠く離れた実家にいる母に何か贈ろうと決めていた.
また,4月の初めごろ,大学のキャンパスが変わる関係で下宿を引っ越すことになった.
そのときは,両親二人ともこっちへ来て,色々大変な作業を手伝ってくれた(というより僕より働いていた).
GWのときも,今度は母親一人でまたやってきて,僕がいつもサボっている掃除や洗濯をしてくれた.
大学生にもなって情けない話である.
もちろん他にも,山ほどお世話になった.その全てを書き出すことなど到底できない.
また,迷惑をかけたことも数えきれない.
以前僕が,少し心を病んでいて,家の物を意味もなく壊したり,暴れたりしたことがあった.
そんなどうしようもない僕のことも,両親は暖かく包み込んでくれた.
もちろん理解し合えないことや,許せないこともあったけれど,感謝してもし足りない親である.
「ありがとう」と言ったり,何かしてあげられる期間は永遠ではないのだ.
いつかその日がきたとき,僕は「あの言葉を言い忘れた」と後悔しないでいられるだろうか.
