受話器から聞こえたのは
久しぶりに聞く、何度もこころ動かされた
懐かしい声だった。
その声は、
突然おれの前から姿を消した
最も愛したひとのものだった。
水無月 (雨)
夕方過ぎてから
アーケードに当たる雨の音が一際大きくなってきた。
ビニール製のアーケードである。
お店に流れているFMラジオの音も聞こえないくらい
雨音はすべてをかき消していた。
叩きつけられて跳ね返ってくる水のかたまりが
入口のアスファルトに落ち、
どこに向かったらいいのかわからないそいつらは
ランダムに飛び跳ねている。
いま、
おれが受話器を持っている場所から
2mほど離れたところに開けっぱなしの入り口があるのだが
さっきっからおれの足元まで水滴が届いている。
実家は小さな商店
ちょうど今、
店じまいをしようと、大きなガラス窓を開け放ったところに
電話が鳴ったのだ。
しばらく無言だったその電話は
小さな声で
『わかりますか?』
と、
言った。
まさか! ・・耳を疑った
声を聞いた瞬間、
おれは受話器を力強く握りしめていた。
相手はすぐにわかった。
突然、音信不通となってから
もう3年経つ
その声だけは 忘れるわけがない。
崖っぷちで、一歩も踏み出せなかったおれに
差し伸べてくれた
細くて長い、やさしい手
包むように握りしめると
『温かい・・』って言ってくれた。
抱きしめると、
抱きしめた力で答えてくれた、最愛のひとを
その声を
忘れるはずがない。
久しぶりに聞く、その声は
小さく震えていて、尋常ではないことはすぐにわかった。
そして
何となく事態がイメージとなり
おれの頭の中をよぎった。
なんともね・・おれには嫌な能力がある。
昔から感が冴えていた。
俗に『霊感』と言われるやつだ。
ひとの見えないものが観えた。
聞こえるはずのないものを聞いた。
時には、強力な念となってひとにまとわりつくものが
イメージとなり、観える。
利用されている・・
そんなことは、声を聞いた その瞬間にわかっていた。
でも
わかっていても
会いに行かなければいけない。
そんな気がした。
『どこにいるの?』
『・・・』
『今行くよ』
と、言ったおれは
情けないことに
気持ちが高揚していた。
『いいの・・声、聞けたから』
と、彼女は言った。
いや、おれが会いたかった。
ほんと バカなおれだ
『いいよ・・話 ・しよ・』
『電話して・・ごめんなさい』 『ごめんなさい』
彼女は何度もあやまった。
電話してきて謝られる理由は何もない。
その年、大学を卒業して就職したばかりのおれには
何のしがらみもこだわりもない。
だから
彼女があやまる理由は何もない。
あるとすれば、
彼女自身が後ろめたく思っていること・・だろうか
水銀燈の下
ずぶ濡れで
電話ボックスの中で、うずくまっている彼女を発見したのは
それから30分くらい後だった。
彼女は、おれが通っていた中学校にいた。
雨はだいぶ小降りになってきた。
右手に傘を持ったまま
電話ボックス越しにしゃがみ、彼女と同じ目線の位置で
『コンコン・』って、ガラスを叩いた。
びくっと 音に気付いて
まっすぐにおれに向きなおった彼女の大きな瞳は
変わらず、長いまつげの
かわいい目をしていた。
『よう!』って、左手を上げて、
無理に笑って見せた。
おれと目が合った途端、その瞳から
大粒の涙がどんどんと溢れ出てきた。
スイッチが壊れたみたいだった。
そして
ガラス越しに両手を当てて、
声を出して泣きだした。
彼女は逃げ出してきたのだ。
そんなのはすぐにわかった。
いろいろと聞きたいことは山ほどあった。
そりゃそうさ、言いたいことだって山ほどあった。
そして
半袖のシャツから見える青い痣の正体だって・・
けど
そんな会話はしなかった。
その夜は
ずっとそばにいた。
肩が触れ合ったまま、
お互いの体温を感じていただけ
それだけだった。
もう、どうにもならないことだってある。
おれが彼女にしてあげられることは
何もない
こんなピリオドの打ち方もあるんだな
まあ、そんなもんか。
だれにも正解なんてわからない。
彼女を、
見つけた電話ボックスまで送って
別れた。
頑なに、
『そこまででいい』って言った。
彼女をおろし、
中学校の門でUターンして、まっすぐに坂道を降りた。
雨は上がり、
すっかり洗浄された空は、数個の輝く星を残して
今、青く、そして明るくなり始めている。
南アルプスの稜線が黄色に染まってきたと思ったら
空と山々の境目が輝き出し
小仙丈ケ岳~仙丈ケ岳 そして仙丈ケ岳が
見事にライトアップされはじめた。
新しい朝がきたのだ!
希望の朝?
なのかは
わからない。
わからないけど、おれの中で蟠っていたひとつが消えた。
最後に交わした言葉は
『またね』
だが
“また” は、もう無い。
おれは
自分の大切なものは命をかけても守る。
けど、
他人のものには興味がない。
それは、今も変わらない。
嫌なことはたくさんある。
実際には嫌じゃないことだってある。
嫌だって、思い込んでいることがたくさんある。
だけど
生きていれば
新しい出会いはある。
幾つになったって
絶対にいいことはある。
希望は無限にある。

