『米価の迷路 ― 日本農政の構造的課題を追う』
序章:なぜ今、コメ価格が騰がったのか?
第1章:JAという巨大ネットワークの実像と収益構造
第2章:問屋が五重に重なる理由 ― 流通の必然性と既得権
第3章:アメリカ・台湾と比べて見えてくる「構造の歪み」
第4章:小規模農地と機械化限界 ― それでも改革しない理由
第5章:政策誘導と価格形成の不透明な関係
終章:見えてきた選択肢 ― 誰のための農政か?
特別章:改革か演出か ― 小泉進次郎農水大臣の衝撃
序章:なぜ、私たちは“米価”に無関心でいられたのか?
コンビニで買うおにぎり。家庭の食卓に並ぶ白米。給食、弁当、旅館の朝食――そこにあるのが当たり前すぎて、私たちはいつの間にか「米の値段」に対して鈍感になっていた。
だが、2024年。ある主婦の何気ない一言がSNSで拡散された。
「スーパーで米を買おうとしたら、5キロで4000円を超えていた。“いつの間に?”と思った」
それをきっかけに、メディアも「コメ高騰」問題を取り上げ始めた。猛暑?インバウンド?需要と供給?その解説は、どれも断片的で、どこか上滑りしていた。
だが、疑問はこうだったはずだ。
- 「なぜ、同じ米を作っていて、アメリカで作られたお米は関税がなければ1500円販売が可能で、日本では4500円なのか?」
- 「なぜ、農家は儲からず、消費者は高く感じるのか?」
- 「なぜ、何十年も前と似た報道を、いまも目にしているのか?」
この問いを深く掘り下げていくと、やがて浮かび上がってくるのは、「コメ価格」という日常の背後に広がる、複雑で、硬直した制度と構造の迷路である。
本書が目指すのは、この迷路に明かりを灯し、構造の可視化と再設計へのヒントを読者と共に探ることである。難解な専門用語ではなく、生活者の視点で。政治的立場ではなく、事実と現場から。誰かを否定するのではなく、仕組みそのものを問い直すために。
ようこそ、「米価の迷路」へ。
この旅は、日本農政そのものを見つめ直す、一つのレッスンになるかもしれない。
第1章:なぜ今、コメ価格が騰がったのか?
2025年、日本国内のコメ価格が過去10年で最も高騰したと報じられている。主婦層から業務用ユーザーに至るまで、その影響は広範囲に及んでおり、「安定主食」としての地位が揺らぎ始めている。
しかし、報道の多くは単に「猛暑で供給が減り」「訪日観光客が増えて需要が伸びた」といった表層的な分析に留まっている。本章では、それらの説明の妥当性と限界を確認し、背景にある構造的要因の入口を探っていく。
1.1 「猛暑」による品質劣化の真実
2023年の夏、日本列島は記録的な猛暑に見舞われた。特に新潟県では「白未熟粒」の発生が顕著で、精米後に砕けやすいコメが増加し、出荷可能な「一等米」が2割減少したとされる。しかしこれは、一時的品質劣化に対する備蓄政策の脆弱さや、消費者が見た目に過敏で価格に寛容でない流通構造といった、より深い制度設計上の問題と連動している。
1.2 インバウンド需要と消費の構造変化
「外国人観光客が和食を好んで食べ、需要が伸びた」とする解説も頻繁に見られる。確かに2024年の訪日外国人数は過去最高を記録したが、年間のコメ消費に与える影響は微々たるものであり、あくまで「期待による集荷競争」の誘因に過ぎない。消費量の実態よりも、需要見通しに基づく投機的動きや、供給者側の保守的な在庫戦略が価格を押し上げたとみる方が妥当である。しかし、インバウンド需要の影響は単なる消費増加にとどまらず、流通・卸売市場における心理的要因としても作用した。 観光業の回復とともに「高級和食ブーム」が訪日客の間で広がり、それを見越したホテル・飲食店が高級ブランド米を優先的に確保する動きが強まった。 さらに、「国産コメの価値が海外評価によって高まる」という期待感が生産者や流通業者の間で形成され、市場での仕入れ競争を激化させる結果となった。 これにより、実際の消費量以上に「市場心理が価格を押し上げる要因」となった点は見逃せない。
1.3 小麦代替とコメ価格の相対的競争力
注目すべきは「小麦粉が値上がりしたためコメが相対的に安く見えた」という指摘である。ウクライナ情勢や円安により小麦価格が不安定化する中、比較優位的に安定して見えたコメへのシフトが起きた。しかし、これは「価格が安定していた」からではなく、需給に基づく価格弾性の低さ(硬直性)がそう見せていたという逆説的な側面もある。
第2章:JAという巨大ネットワークの実像と収益構造
「農家の味方」「地域に根ざす協同組織」——そんなイメージとは裏腹に、JA(農業協同組合)はすでに“農業者の組合”という枠を超え、日本最大級の金融・保険複合体へと変貌を遂げている。本章では、JAの収益構造と内部矛盾を解剖し、その成り立ちから現在に至るまでを追う。
2.1 経済事業=赤字、信用・共済事業=黒字
JAの事業は、大きく3つに分類される。
とりわけ注目すべきは、本来の根幹であるはずの経済事業が持続的に赤字であることだ。肥料や農薬の販売、コメの集荷・販売といった“農業支援”部門が利益を生み出せない一方で、信用(銀行)と共済(保険)で稼ぎ、その利益で赤字事業を補填している。これは、農協でありながら“非農業事業”が本体になっているという、ねじれた構造を示している。更に農林中金は投資の失敗により2024年度の決算で1兆8,078億円の最終赤字を計上したと発表された。これは過去最大の赤字額であり、大きな運用失敗として注目されている。主な要因は、保有する米国債などの外国債券の含み損の拡大だ。世界的な金利上昇により、これまで低金利で大量に購入していた外国債券の価格が下落し、評価損が膨らんだことが背景にある。
2.2 組合員の二重構造と「准組合員依存」
JAの組合員は、農業者(正組合員)と非農業者(准組合員)に分かれる。だが実態として、預金や共済契約の大半は准組合員によって支えられている。たとえば都心近郊のJAでは、准組合員が全体の9割以上を占めており、「農家のための組織」とは言い難い状況である。
この構造が招くのは、「農業者による農業者のための事業」ではなく、「地域金融機関としての利益構造」との乖離である。JAバンクの預金残高は80兆円を超え、全国銀行と肩を並べる存在だが、その資金が必ずしも農業に還元されているとは言い切れない。
2.3 「5次問屋」構造の裏にある論理と矛盾
2024年、あるJA関係者が「5次問屋に必然性はある」と発言して物議を醸した。彼の論拠は以下のようなものだった:
- 農家が小規模・分散型であるため、一次問屋による集荷は必要。
- 精米、等級検査、低温倉庫、配送、マーケティングなど、それぞれに機能分担が存在する。
- 小売側の要求が多様・細分化しており、中間流通の専業化が必要。
一見、合理的に聞こえるが、実際には問屋を経るごとに中間マージンが累積し、農家所得と消費者価格の乖離を拡大させている。農水省ですら「流通の実態が把握できない」と白旗を上げ、結果としてコメ流通全体が“ブラックボックス化”しているのが実情だ。
2.4 なぜJAの構造は変わらないのか?
構造改革の声は繰り返されてきたが、いずれも成果は限定的だった。その要因には以下のような“制度温存メカニズム”がある:
- 地域政治との結合:JAは地方議会・国政の票田として極めて強力な影響力を持つ。
- 農業政策との一体化:減反政策や補助金制度と不可分な存在として設計されている。
- 組織内ガバナンスの限界:内部批判や競争原理が働きにくく、改革インセンティブが低い。
これにより、JAは「変われない」のではなく、「変わらなくても成り立ってしまう構造」にあると言える。
この章では、JAの経済的な根幹がすでに農業ではなく、「金融と保険」に移行しているという実像を描きました。次章では、多重流通と価格形成の“霧”に焦点を当て、「5次問屋」がどのように価格をゆがめているのかに踏み込みます。
◾️章末コラム:誰のための“協同”組織なのか?
かつて「農民のための組織」として生まれたJAは、今や地域のスーパー、金融機関、保険会社、果ては冠婚葬祭の運営まで手がける“地域総合商社”へと進化した。だが、その進化は、果たして農家の未来を豊かにする方向に働いているのだろうか。
農産物の価格は硬直し、農家の所得は伸び悩み、若者は農業を志すどころか「生活が成り立たない」として離農していく。一方、JAの本部ビルは地域のランドマークとなり、バンクと共済の収支報告はどこか眩い。
「必要だから存在している」のか、「存在するから必要とされている」のか——問屋も、流通も、制度も、そしてJA自身も、その問いから逃れてはならない。真の意味で“協同”とは何か。それは再定義されるべきタイミングにあるのかもしれない。
第3章:価格はどこで決まるのか?~多重流通と“見えない価格”の構造~
コメは、私たちが日々手にする最も身近な農産物のひとつである。にもかかわらず、その価格がどこで、誰によって、どのように決まっているのかを明確に説明できる人は驚くほど少ない。それもそのはず、日本のコメ流通は“多重構造”と“中間マージンの複層化”に覆われ、可視化されていない部分があまりにも多いのだ。
3.1 小売価格は“末端”ではない:実は逆流する価格決定
多くの人が「農家→JA→卸→スーパー→消費者」という順で価格が積み上がると考えているが、実態は逆だ。実際の価格決定構造は次のように逆流している:
> 小売価格(スーパー)
→ 卸売価格(量販店と問屋の交渉で決定)
→ 中間流通価格(JAや問屋が利幅を算定)
→ 農家への概算金(最終的な買い取り価格)
つまり、農家は“決められた価格を受け入れるだけ”という、まるでプライステイカー(価格の従属者)のような立場に置かれている。
3.2 多重問屋構造の実像
日本の米流通には、最大で5層以上の業者が介在すると言われている。代表的な流れはこうだ:
農家 → 地元JA → 広域JA経済連 → 一次問屋 → 精米業者 → 物流会社 → 二次問屋 → 小売
一つひとつの業者は「精米」「選別」「低温保管」「配送」「パッケージ化」「マーケティング」など、それなりの機能を担っているが、それらが縦割りで連携もなく、互いに“既得利権”化しているため、全体最適にはほど遠い。結果として、米価の3割〜5割が流通経費で消えるという指摘もある。
3.3 JAの出荷優先主義と“見えないコメ”
JA経由で流通するコメは全体の約6割にとどまり、残りの4割は“直販”や“ネット販売”“ふるさと納税”など、JA外で流れている。この「見えないコメ」が増えるほど、農水省や市場が需給を正確に把握できなくなり、結果として需給ギャップの誤認が価格の歪みを生む要因となっている。
3.4 なぜ構造改革が進まないのか?
過去、農水省が示した「米流通の合理化」施策は繰り返し打ち出されたが、根本的な変化にはつながっていない。理由は以下の通り:
- 中間業者の淘汰は地方経済への打撃となるため政治的抵抗が大きい
- 情報開示が進まない:価格の内訳やマージン率が不透明
- 制度設計が農協中心主義で閉鎖的:競争が成立しにくい
◾️章末コラム:「価格は“どこで”ではなく、“なぜ”決まるか」
「このコメ、ちょっと高いな」——そう感じたとき、私たちはしばしばスーパーの値札やブランド名に目を向ける。だが本質的な問いは、「なぜ高いのか?」であって、「どこで高くなったのか?」ではない。
物流費、人件費、保管費用、資材費……もちろんそれらも要因の一部だ。だが最大の問題は、それらすべてが“価格に転嫁できる構造”になっていることにある。
つまり、問屋が複数いても誰もコストカットのインセンティブを持たず、農家も価格交渉の余地を持たず、最終的にツケは消費者に回される。「誰も責任を取らず、誰も損をしない構造」こそが米価の迷路を生んでいるのだ。
透明性がなければ、効率化もない。そして、効率化のない農政に、未来はない。
流通構造マップ:コメが消費者に届くまでの典型的経路
農家
└→ 出荷(集荷場など)
↓(集荷・検査・乾燥調整)
JA(地域単位)
└→ 一時保管、概算金決定(事実上の“買い取り”)
↓(選別・再集約)
JA経済連・全農(都道府県/全国組織)
└→ 広域出荷、卸先との価格交渉
↓(売買)
一次問屋(商社・精米業者)
└→ 精米、品種ブレンド、ロット整備
↓(商品化)
二次問屋(流通系商社・地場問屋)
└→ 流通チャネルの最適化、地域小売向け再分配
↓(配送・設置)
小売(スーパー、量販店、ドラッグストア、EC)
└→ 最終販売価格を設定
↓
消費者
💡図の読みどころ:
- 5〜6重の流通階層:農家から消費者まで、最大6~7の業者を経るケースも。
- それぞれが役務(保管・加工・配送)を担いつつも、統合されていない。
- 価格は途中ではなく最終地点(小売)で“逆算的に”調整される。
- 問屋の“見えにくさ”が中間マージンの温床に:特に精米業者と商社の利益構造は不透明。
第4章:国際比較で見える“構造疲労” — アメリカ・台湾と日本のコスト構造
日本では米価が5kgあたり4,000~4,500円前後とされているが、アメリカ産(カリフォルニア米)は関税を除けば5kgで1500円台でも流通可能とされる。さらに驚くべきことに、米国の農家の人件費は日本の2倍以上だ。にもかかわらず、この価格差が生まれるのはなぜなのか。本章では、アメリカ・台湾と比較しながら、日本農業の構造的な“疲労”を分析する。
4.1 アメリカ:超大規模化・直販型・分業的合理性
- アメリカでは1農家あたりの水田面積は数十~数百ヘクタールに及ぶ。
- GPS農機・ドローン・自動水管理などの精密農業によって、人的資源を最小限に抑えている。
- 直販型モデルが多く、農協を介さずバイヤーや業務用ユーザーと直接契約。
- 価格は生産コスト+希望利幅で農家が決定し、小売も相対取引で応じる形。
価格形成が“農家主導”であり、流通構造も垂直統合が進んでいる点で日本とは対極的だ。
4.2 台湾:小規模農家ながらも効率的な国家支援体制
平均耕作面積は日本と同程度で、小規模農家が大半。
しかし、政府による収穫米の“買上価格制度”が整備されており、農家の所得を安定化。
肥料や農機具に対する補助制度・共同購買体制により、調達コストを低減。
特筆すべきは、農業技術の国家研究機関が実働農家と連携し、スマート農業を推進している点である。
“面積が小さいから非効率”という常識を、制度設計と技術導入で逆転させたモデルとも言える。
4.3 日本:小規模・分散・高コスト体質の温存
- 農地の細分化により、1農家あたり1.2ha未満・分散5〜7筆の耕作が一般的。
- 肥料・農機はJAを通じて高コスト・少競争の購買ルートとなり、価格転嫁が困難。
- JA経由の流通では概算金という“受動的価格受入れ”方式のため、価格決定権が希薄。
- 国家の補助は存在するが、減反政策や所得補填が複雑化・非効率化し、若手農家にとってハードルが高い。
結論としては、単なる生産コストの問題ではなく、“構造と制度の設計思想”の差が、価格と持続性に如実に表れている。
◾️章末コラム:価格を見れば、制度が見える
カリフォルニア米が1,500円で、日本のコシヒカリが4,500円。その裏にあるのは、単なる「高い」「安い」ではない。農家が価格を“決められる”社会か、“決められる側”の社会かの差だ。
アメリカの農家は“価格を持ち”、台湾の農家は“価格を守られ”、日本の農家は“価格を待つ”。この3つの構造のうち、日本だけが受動的なのは偶然ではなく、制度がそれを設計した結果である。価格は、農政の通信簿である。
第5章:変われなかった理由 ― 政治・制度・“無意識の連携構造”
数十年にわたって指摘され続けてきた日本農政の非効率性。小規模・高コスト・閉鎖的——これらの課題は多くの提言にもかかわらず、根本的には是正されてこなかった。なぜ、日本の農政は構造改革の機運が高まっても“変われなかった”のか。そこには、政策、制度、組織、そして国民意識の“暗黙の共犯関係”があった。しかし、2024年の米価高騰をきっかけに、消費者の間で価格形成の仕組みに対する疑問が広まりつつある。これまで「JAが適切に調整する」と漠然と考えられてきたが、SNSでは「日本の米は高すぎる」「市場の透明性を高めるべきだ」といった議論が増えてきた。また、コンビニ・飲食チェーンの「米離れ」も進み、価格の影響がより生活に密接に関わるようになった。これらの動きは、従来「消費者の無関心」によって変革が阻まれていた状況を変えつつある。今後は、単なる米価の問題ではなく、日本の食料政策全体において透明性の確保と市場メカニズムの再構築が求められるだろう。
5.1 票と補助金が支える“政策温存装置”
- JAは地域の強力な選挙組織。全国に約560万の組合員を持ち、その票は地方選から国政選挙にまで強い影響力を及ぼす。
- 政治家はJAの意向を汲んだ政策を維持・強化し、JAは組織票と資金力で報いてきた。
- この関係が結果として、政策の自己循環性=利権の固定化を招く構造になっている。
5.2 制度としての“複雑化”が改革を遠ざけた
- 減反政策、直接支払い、備蓄米買上、農地中間管理機構……制度は複層化し、誰も全体像を把握できないブラックボックス化。
- 制度の複雑性は「制度の改変が現場を混乱させる」という保守的な論理と結びつき、現状維持を肯定する力になっている。
5.3 農家と国民の“静かな受容”
- 多くの農家は価格決定力を持たずとも、制度的に生活が保障される限り、現状を受け入れてしまう心理構造が根づいている。
- 一方、国民も“農家支援=良いこと”というイメージに依存し、制度の再検証や競争原理の導入に慎重。
- このような「善意の制度疲労」が、日本農業の構造進化を阻んできたとも言える。
◾️章末コラム:制度疲労は“悪”ではない、だが“免罪符”にもならない
制度とは、本来、社会の公平と効率を実現するための装置である。だが、それが「守るための対象」へと変質したとき、制度は制度そのものを守ろうとする。
「農業を支えたい」「地域を守りたい」——その出発点が善意であることは疑いようもない。だが、制度疲労を温存する理由にはならない。構造が壊れかけている今だからこそ、私たちは問い直すべきだ。
制度は人を守るためにある。制度を守るために人が犠牲になる社会に、持続可能性はない。
🧩 日本農政の「制度温存メカニズム」概略図
【農家】
└→ 制度に依存(価格決定権なし、補助金重視)
↓
【JA】
└→ 経済事業(赤字)維持のため制度温存を支持
↓
【政治家・省庁】
└→ 選挙支援・票田としてJAとの関係維持
↓
【農政制度】
└→ 補助金・減反・備蓄・中間流通など制度維持
↑
【国民の無関心】
└→ “農家支援は良いこと”という認識のまま静観
🔁 この循環により:
- 「制度を維持すること自体が目的化」
- 改革に抵抗する力が常に複数方向から供給される
- 政治コストが高く、挑戦が長期的に頓挫される構図
終章:見えてきた選択肢 ― 誰のための農政か?
本書は、日本のコメ価格という“日常の疑問”から出発し、その背後にある流通・制度・政治・国際比較まで、構造的な迷路を辿ってきた。最終章では、そこで見えてきた“改革の起点”を提示したい。
6.1 農家に価格決定権を取り戻す
価格とは、その財やサービスの価値を社会がどう位置づけるかのシグナルである。しかし日本では、コメの価格は未だに“計算された結果”ではなく、“出来上がった結果”でしかない。
農家が価格を提示できるためには:
- JA外での直販チャネル拡充(BtoC・業務用)
- クラウドファンディング型流通や予約販売モデルの導入
- 価格交渉力を高めるためのデータ連携・相場透明化
など、“交渉主体としての農家”に舵を切る制度設計が必要である。
6.2 コスト構造の透明化と競争導入
肥料や農機具の価格情報は現在、JAの販売網がほぼ独占しており非公開に等しい。
この閉鎖性を打破し、市場原理と技術革新を組み合わせたコスト構造の再設計が急務である。
「価格転嫁できない構造」に対し、「そもそも高くしない構造」をつくるべきだ。
6.3 農政の“投票権者”を拡張せよ
真の制度改革には、「農家」や「政治家」だけでなく、「消費者」もまた関与主体になる必要がある。
- “選ぶ”ことで支援を表明する消費者民主主義
- 学校給食や災害備蓄の調達改革など、公的需要の見直し
- ふるさと納税やCSA(地域支援型農業)を通じたコミュニティ共創
日本の農業政策を“誰のためのものにするか”は、すでに一部の専門家や政治家だけの問題ではない。
◾️章末コラム:道はすでに始まっている
日本の農政は、ゆっくりと、しかし確実に時代に取り残されつつある。だが、それは変われないということではない。
構造を可視化し、声を届け、制度に風穴を開ける。この本のような問いが、その第一歩となることを信じたい。
“誰のための農政か”という問いは、つまり“誰が未来を選ぶのか”という問いでもある。
特別章:改革か演出か ― 小泉進次郎農水大臣の衝撃
1. “コメ担当大臣”としての異例の登板
2025年5月、江藤前農水相の失言辞任を受けて就任した小泉進次郎氏は、就任直後から「米価を下げることが最優先」と明言。備蓄米の随意契約による放出を即断し、5kgあたり2000円の価格で市場に流通させるという“劇薬”を投入しました。
このスピード感とメディア戦略は、従来の農政とは一線を画すものであり、「コメ大臣」としての自己定義は、国民の注目を一気に集めました。
2. 減反政策への明確な決別宣言
小泉大臣は国会答弁で「もう減反はやめるんだ」と明言し、事実上の生産調整政策からの脱却を宣言しました。これは、JAや農林族議員との長年の“暗黙の合意”を揺るがす発言であり、農政の構造転換を象徴する一言として記録されるべきものです。
3. 政策の中身と評価:スピードと劇場性の両刃
- 備蓄米の随意契約放出は、価格抑制には一定の効果を見せたものの、「祭りの後」の需給混乱や価格暴落リスクも指摘されています。
- 作況指数の廃止や統計の見直しなど、データ基盤の刷新にも着手し、「現場感覚に近い農政」を掲げています。
- 一方で、JAや農水省内の反発も強く、農政トライアングル(農協・官僚・族議員)との緊張関係が高まっています。
4. 政治的背景と“改革のリアリティ”
小泉氏の起用は、石破政権の支持率低迷と参院選を見据えた“劇場型農政”の一環とも言われています。しかし、本人は「組織や団体に忖度しない」と明言し、JAとの距離を取る姿勢を鮮明にしています。
◾️章末コラム:「改革は“誰が”ではなく、“何を”変えるか」
小泉進次郎という名前が農政に与えたインパクトは確かに大きい。だが、制度の迷路を抜け出すには、“顔”ではなく“構造”を変えることが必要だ。
改革は、人気や演出ではなく、制度の透明性・競争性・持続可能性という地味な土台の上にしか築けない。
◆あとがき:見えない構造と、見ようとする勇気
まるで、社員(制度や既得権)が自走しすぎて、社長(国民や政策決定者)が現場の実態に追いつけていない状態――それが日本農政の今の姿なのかもしれません。しかも、その「社員」は長年の慣習で動いているので、社長が新しくなっても「うちはこういうやり方ですから」と自動操縦で業務を回し続けてしまう。
小泉進次郎大臣のように、外からリーダーシップをもって大胆に指示を出しても、「現場との乖離」や「実務オペレーションの抵抗」によって変化がゆっくりに見えるのも、この構造ならではです。
「米価が高いな」と思ったとき、それが単に“天候”や“外国人観光客”のせいにされる社会を、私たちはどこかで受け入れていたのかもしれない。だが、その背後に積み上がった制度、慣習、構造、そして「問いを持たないままでいようとする空気」こそが、長年の問題を温存してきたのではないか。
この本を通して明らかにしたかったのは、“誰かを責める構造”ではなく、“誰も責任を持たない構造”である。そして、それを変えるための第一歩が、「仕組みに対して問いを投げること」だと信じている。
本書の多くの視点は、制度に携わるすべての人々――農家、行政、流通業者、そして私たち生活者――が、それぞれの立場で真剣に取り組んできたことに支えられている。だからこそ、変革とは対立ではなく、共通の未来に向けた“再構築”のプロセスなのだと思う。
もし、この本が「なんとなく当たり前だった構造」に少しでも違和感の光を差し込めたなら、それだけで意味がある。
そして、もしどこかの誰かがこれを読み、「自分も、見よう」と思ってくれたなら、それが本当の再設計の始まりになると信じたい。
この迷路に付き合ってくださったすべての読者と、そして――
問いの出発点を与えてくれた、あなたに。