ジョン・レノン  Mother マザー(母) | 半兵衛のブログ

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映画やドラマ好きなので映画やTVドラマのレビュー、ビートルズ関連の曲紹介や、古い洋楽ロック、気になるJポップスのレビューをしています。ペタは見ません、いいねを中心に訪問しています。

◆マザー(母)は1970年に発表されたジョンの魂 (John Lennon/Plastic Ono Band)の一曲目です。
●My Mummy's Dead 母の死は11曲め

◆ジョンの幼年期
●父との別れ

父親「アルフレッド・レノン」は、遠洋航路の客船の乗組員として給仕(ウェイター?)をしていた。遊び好きで家庭を省みないフレッドはジョンが一歳半の時に行方不明になり送金が途絶えた。

実母であるジョンの母「ジュリア」はジョンが3歳の時、二人目の夫となるジョン・ダイキンズと同棲生活を始めておりジョンが5歳のときに、ジュリアの姉である「メアリー(通称ミミおばさん)」に預けられた。

ミミおばさんの証言を要約すると、「ジュリアの再婚に際してジョンを連れて行くのは具合が悪く、安定した幸福な家庭が必要だし、ジュリアも・フレッドもそれを望んでいた。」

そんなある日、ミミのところへフレッドから電話があった。「休みを利用して一日でいいから子どもたちに人気の高い観光地(ブラックプール)に連れて行ってあげたい。」

フレッドはジョンを連れ出したが、二度と帰らないつもりでだったので、その約束を破り数週間ジョンと一緒にフレッドの友人の家で過ごした。

そのことを知ったジュリアは息子がそのまま連れ去られるのではないかと心配し観光地を探しまわりようやく二人を探し当てた。

ジュリアはフレッドに会うなり「ジョンを連れ戻しに来たの、新しい家を探しているところで、そこでジョンと暮らすの」
フレッド「(この休みの間にすっかりジョンと仲良くなったので)ニュージーランドに連れて行くつもりだ一緒に来ないか?そうすれば、また家族に戻れる。」

しかし、すでに、ダイキンズと同棲生活をしており、聞く耳を持たないジュリアは首を縦にふらなかった。二人は言い合いになり、そこでフレッドは「そこでジョンに決めさせようと」持ちかけた。

ジョンはフレッドの膝に飛び乗り抱きつきながら「ママが帰ってきたの?」とフレッドに聞いた。
フレッドは「いや、ママと暮らすか、パパと暮らすかここでお前が決めなさい」とせまった。

ジョンは「パパと暮らす」と答えた。
ジュリアもおなじ質問をジョンに繰り返した。
やはりジョンは「パパと暮らす」と答えた。

ジュリアは涙を浮かべながらその場を出て、道を歩き出した。
するとジョンは立ち上がり、彼女を追って出て行ってしまった。

実のところはジョンと一緒に暮らし始めたばかりのミミが一番ジョンを取り戻したかったのだ。
ジュリアも「新しい家でジョンと住む」といったものの、ジョンはそれ以来ずっとミミのところへ住むようになり、父親の事はすっかり忘れてしまった。

それ以来、フレッドはジョンがビートルズとして有名になるまで、ジョンと会うこともなく噂さえ聞くこともなかった。

●母親との死別

「ぼくが住んでいた叔母の家にやってきた後、酔っ払いやがった、非番のポリ公に殺されたんだ。(※非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはね死亡させる。)

ぼくはその場には居あわせてなかったんだ。

母はバス停にいただけなんだよ。

ぼくは16だった。これでまた、心に大きな傷を負ったんだよ。

ぼくは2度母親を失ってるんだ。1度目は5歳で叔母と一緒に住むようになった時で、2度めは、死んでしまった時だ。

母に死なれて、ぼくはいっそう他人に辛辣にあたるようになったな。小さい時からもっていた挑戦的な態度が、非常に露骨になっていったね。

母との関係を立てなおそうと本気で考えはじめたとたん、母が殺されたんだ。」 プレイボーイ誌インタビューより


ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ ←詳しくはクリック

まるで映画を見ているようですが、実際2009年に「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」という映画になりました。
この作品はジョンのビートルズ結成前のバンドクオリーメンの頃からハンブルグ巡業出発前までを描いており青春映画としてもなかなか見応えのある作品ですので是非御覧ください。


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Mother

                              作詞・作曲:John Lennon


お母さん 僕はあなたのものだったけど
 あなたは僕のものじゃなかった
  僕はあなたを心から欲していたのに
   あなたは僕の事いらなかったんだね
   だから 僕はあなたに言わなきゃならない
   さようなら

お父さん あなたは僕を捨てた
 僕はけっしてあなたを捨てたりしなかったのに 
  僕はあなたを心から必要としていたのに
   あなたは僕なんかを必要としていなかったんだ
   だから 僕はあなたに言わなきゃならない
   さようなら

子供たち 僕のやったことを
 繰り返しちゃいけないよ
  僕は歩くこともろくにできなかったのに
   走ろうとしていたんだ
   だから 僕はあなたに言わなきゃならない
   さようなら

お母さん 行かないで
お父さん 帰ってきて



                             訳:半兵衛
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My Mummy's Dead 母の死


◆インタビュー
●プリマルスクリーム療法について
「自分の痛みに気づくよう強制されるのは非常に辛いことだった。つまり、恐怖のために目が覚めてしまい、胸がドキドキしているっていう、そんな痛みなんだ。でも、現実にそれは自分のものなのさ。・・成長してしまったぼくたちは、そりゃ多くのそうした痛みを体験してきている。たとえ奥の方に押し込めたつもりになっていても、それはまだそこに在るんだね。その中で最もキツイ痛みは愛されていないということだろう。自分は必要としているにもかかわらず、両親は自分を必要としていないことに気づかされることなんだ。ぼくの子供時代・・・・愛されていないということが、ぼくの目と心にしっかり刻み込まれてしまった。ヤノフは、この点について説明してくれただけではなく、体感させてくれるんだ。・・・ぼくにとり、そのことはリアリティそのものだった。」

●家庭について
「ぼくにはいわゆる家庭ってものがなくて、ほかの子供たちがうらやましかったからだったんだろうね。でも、実際には、ぼくには家庭があったんだ。叔父と叔母がいて、良い郊外の家があった。とても感謝しているよ、叔母さん。ぼくの言うこと聞いてよ。ポールが最近、ぼくがショーンと家のなかに引きこもっているのは、家庭生活を持ったことがないのが原因だと言ったことで、叔母は傷ついてるんだ。あれは、とんでもないたわごとさ。ぼくにとっての家庭だった、5人の、強くて頭の良い女性がいたんだ。5人姉妹さ。そのうちのひとりが、たまたまぼくの母親だった。ぼくの母親は末っ子だったんだ。母は自分の人生にうまく対処できなかただけんだ。夫は海へ出てしまうし、戦争が始まっていたし、息子のぼくを扱いかねていたんだ。それで、4歳半の時、ぼくは母の姉と住むことになったんだよ。母の姉たちはすばらしい女性たちでね。いつか、この人たちだけについて『フォサイト家物語』を書くつもりなんだ。ぼくにとっては、女性を尊敬することを教えられた最初の機会だったな。(中略)親が無いことをしょっ中悲しく思ったし、親がいないってことはひどい苦しみを味わうことだけれども・・・」 プレイボーイ誌インタビューより
※このジョンの40歳のときのインタビューを読み、もうすっかり母親との関係を克服できたんだと思いうれしかったのをおもいだします。

◆感想というか思い出など
正直、この曲を聞くのは辛いです。
でも、中学生の頃に悲劇の英雄を気取っていた時、周りには幸せそうな家族ばかりで、とてもじゃないけど、家庭の問題について話すことは、同情をかうし弱みを見せたくなかったのでできなかった。つまり友達はいたけれど孤独だった。ある日夕飯を友達の家でご馳走になりました。小さいテーブルを囲んで僕を含めて5人で食べました。ふと、もしかして他の家では毎日みんなが食卓を囲んで夕飯たべるの?これに気がついた時に、不覚にも友達の前で涙を流してしまいました。それはとても自分が惨めな存在であると思えたからです。

まわりで悲しい人なんて見たこと無い僕が、この曲を聞いた時に頭をハンマーで叩かれたような衝撃を感じたのは言うまでもありません。こんなにも身近に僕の代わりに同じ気持で叫んでくれる人がいたのだと。悲しい時に一緒になって泣いてくれる人がいたのだと。ジョンとの関係が今まではアイドルグループのひとりという関係から同類項の人間になったのです。それからは父親がいない私にとっての父親代理のような存在になってきました。極端な話ジョンに救われたのです。

もしこのブログを見てくれている人の中で親の離婚や死別やらで悲しい思いをしている若い人がいたらこの曲を聞いてみるといいと思います。悲しい思いをしている人は決してあなたひとりじゃないということがわかるはずです。それがわかると少しは気が楽になります。