透析自体は体調を維持し、社会生活を営むための治療であり、世間の一部で言われているような『終末期』の生命維持活動ではありません。人工透析を受けている人が障がい者認定のほか、その他社会保険制度上のさまざまな補助が行われていることを知ったとき、妻の難病認定と比較してもずいぶん優遇されているなと感じました。

 

ただ、『人工腎臓装置』などという大仰な機械に自分の血液を通し、配管はそのたびに新しいセットを使って、老廃物をろ過したり、余分な水分を除去することを週3回各4時間(人によってはそれ以上)することが必要になるのは、自分の体にとっても、社会生活上もかなりの負担になってくることは確かですし、コストも相当高いということも理解できます。

 

私のように透析をされている人の中では若いほうで、体力もある人間でも、透析のある日は帰宅しても3時間ほどは何もする気が起きないのです。講習中のように夕方から授業がある場合には、電車の中で仮眠をとるなどの工夫はしますが、透析日に無理すると、翌日はかなりの確率で、動くのがしんどくなります。

 

これが勤め人だったら、透析日には早退して透析し、翌日朝から出勤なんてことになるわけですから、その苦労はいかばかりかと思います。自分で体験してみて、透析によって週3日は起床時間の半分、つまり、社会生活時間の7割近くをとられると考えてもいいかもしれません。

 

その一方で、穿刺の時の痛みもまたストレスになってきます。私は透析前の苦しさをまだ覚えていますから、それに比べりゃ・・・というふうに受けとめていますが、それでも穿刺の痛みは消えるものでなく、体力が衰えてくると、辛さばかりおぼえてくるかもしれません。

 

こうして考えると、社会生活を維持し続けるためには、メンタル面での強さが必要になってくるのではないかと最近思っています。根性とかそういったものではなく、自分が生き続ける意味をしっかり考えておかないと、一気にメンタルが崩れ落ちていくような気がします。

 

またひとつ、天から課題を与えられた気分です。