池田晶子さんの本をいま読んでいる。
彼女の著作を見ているうちに、「死と生きる」(新潮社:生きるべきか、死ぬべきか…慶大卒SMクラブ経営者殺害事件で死刑判決を受けた殺人犯と、真理を抉り出す哲学者。〈善く生きる〉ために息詰まる言葉(ロゴス)の劇(ドラマ)が始まった!)と言う本の案内文を読むことになった。
池田さんと死刑判決を受けた死刑囚との手紙のやり取りだそうだ。
説明では、陸田と言う死刑囚が、獄中、彼女の本に接し、哲学に目覚めたという。そこから往復書簡が始まったようだが、私は事件そのものに興味はない。犯罪など、この世の人間が持つ、金銭や色事のような、ドロドロとした、そんな欲が引き起こすもの。そんな犯罪に興味はないのだ。
ただ、人間は誰でも一歩間違えれば犯罪者となりうるし、それが人間の弱みだ。
犯人は、検索で調べた限り、デザインを勉強に渡米し、信頼していた人から裏切られ、人間不振が高じ、犯罪を繰り返すようになったらしい。
古代の哲学者が言うように、人間嫌いになる原因が、裏切りにあったことはここでも言えるようだ。
しかし、幸運にも彼は刑務所で、この哲学に接することができるようになり、哲学をこよなく愛する池田さんのような人にもまた巡り会えたえたわけだ。
そもそも、哲学は、誤解を恐れず、そのまま書けば『死の練習』(プラトン、パイドンより)という傾向がある。
そこで、池田さんもプラトンをよく引き合いに出してるようで、彼に近づけたのかもしれない。
真実を語るという立場でいえば、人間は必ず死ぬ。『死すべき運命の人間』なのである。
では、この死の運命を抱える人間は、いかに生きるか問題となる。
人は巷に、いろいろな幻想があり、この世の楽しみはいろいろあるだろう。その楽しさに疑問を持たない限り、なかなか『自分の死』などを考えないだろう。
だから、我々の殆どは死など、あたかもこの世にはない世界に生きているように勘違いして生きている。
だから、凶悪な犯罪の犯人も、犯罪を犯すとき、自分が死ぬなど、けっして思わないだろう。
しかし、いつかは現実に、自分の死は来るのであり、また、その死が目の前に突然現れようなら、狼狽、慌てふためく場合が一般的の様だ。
哲学は、この世のすべてを見ようとする面があるので、当然、生きているだけでなく死もその守備範囲にある。
真実は、生は、裏に必ず死か裏付けられており、本来なら死と生は切り離せない関係にあるわけだ。
ただ多くの人間はこの生だけを見ているので、いささか十分な人生とは言えないのかもしれない。
この犯罪者、刑務所に入り、死刑囚という眼前に「死」というものをぶら下げられて、はじめて、人間の現実を知ることになったのだろう。
この本、『死と生きる』は池田晶子、陸田真志
と共著となっている。実はこのいまも、私たち人間は「死」を背負いながら生きているわけなのだ。
池田さんは、この陸田死刑囚より先に亡くなっているようだ。
彼も刑は執行されたが、検索で調べる限り、彼の最後の言葉は、「池田晶子さんのところに行けるのはこの上もない幸せです」だそうだ。
仮に運よくで捕まらず、巷でその後も生きられたとしても、この人の人生、刑務所に入り、真実を知り、幸せといえる新たな境地になれた彼の人生のほうが、ひょっとしたら彼にとっては幸せだったのかもしれない。
(^-^)