『馬鹿につける薬はない』と巷では言われる。


また、本当に高価なものを扱っているのに、その本当の価値がわからず、その汚い心、汚い手で散々汚しているのに、本人が自分がいかに自分が汚れているかも、汚しているかも気が付かない。


『嘘でも、いい加減でも、何をやっても、言っても構わない』と。まさに現代の風潮・・


このような輩に、世の中は汚され、乱しているのに、本人は実にアホつらを間抜けにも恥ずかしさもなく、胸糞悪くなるような平気さでそれをさらす。そこに恥ずかしさもない、罪の意識もない。


精神的荒廃。まったく精神的美的感覚の欠如した輩たち。


全ての価値は平等ではないのだ。


本当の価値のわからぬ奴ら、本来ななら、知的文化財損壊の罪で取締こそ必要とするような人間たちだが、それ横行している。このように世の中は、そのアホたちによって壊される。いつの時代も、これらにこそ罰を!!


かつて、アリストテレスの貴重な写本が、僧院に数多く眠っていた、しかし、それを価値のわからぬ、無知なそこの修道士たちが、適当にその写本を釜の焚き付けに使っていたという。


価値のわからぬ人間の行為は実に恐ろしいことを平気で言い、平気で扱う。



『猫に小判』


アホみたいな連中に、無邪気にどんなに文化財産を破壊されているか、その何をしているかもわからぬ、この子供のようなこの愚か者たちの群れ・・


戦後の一時、坂口安吾などが流行ったことがある。その戦後派の荒廃した、わからぬ知識人(?)たちのお粗末な精神風土が、現代のお笑い文化と相まって、この今の日本でも精神背景とし色濃く残っているのかもしれない。これは根底に精神荒廃があるのだ。それをニヒリズムと言ってもいいかもしれない。そのニヒリズムに染まっているとも知らず、お調子者の馬鹿は元気がいい!情けない愚か者たちだ。


愚かな子供の無知は実に恐ろしい。


利口ぶった馬鹿は見てられない!!

アメリカ、コロンビア大学教授を経て、現名誉教授。

現在東京 北区の名誉区民だが、日本国籍を取る、すなわち日本人になるという。


彼の日本文学研究は源氏物語から始まって、三島由紀夫、安倍公房まで、日本文学の枠を広げている。

かれはもはや、日本人以上に日本の文化を見つめているのかもしれない。


先日、彼がNHKの「クローズアップ現代」という番組で、日本人になる現在の心境を語っていた。


かれが一番大切にしていることは、やはり日本人の『美意識』なのだな、と、そのとき思った。


ようするに、日本人は日本人が気が付かないいまだに残る日本人の美意識、日本人の社会性が彼の中にしみわたってきているのかもしれない。


彼は、作家高見順の日記を紹介し、そのなかの敗戦後の人々の整然と並ぶ日本人の姿を見つけ、彼はそこに打たれている。それは今回の大震災の中での日本人の行動に打たれているのだろう。


そして、かれは日本人になる。


そのTV番組で、源氏物語の美意識を言ってはいない。彼は東京、北区に家をもち、一年の半分を日本で暮らしているという。彼は北区の自宅周辺では、人情ある古き日本を感じさせる雰囲気が残っており、それが大好きなようである。日本で「いらっしゃいませ」と店では声をかけられるが、ニューヨークで、何も言わない店員には、ギョっとする、といって日本の生活を楽しんでいるようである。この街の人々の何気ない声掛けは、遠くギリシャ古典にある。町はそもそも、人々が寄り合って生きているところで、それは古代だろうが現代だろうが、人々のふれあいは人間の生活には本来欠かせない者なのであろう。それが単に金銭だけのビジネスライクな人々の生活のほうが、実は人間としては異常なのであろう。キーン博士はそこに日本人の美意識を感じているのだろう。


何かもったいぶって知ったかぶりの『理屈をこねる美意識』より、『日常の自分の中にある美意識』のほうが価値があるのだろう。もちろん、その『美意識』は、日々の中で、自分の中で、より磨かれてゆくのかもしれない。


そのキーン博士は、北区でか、とにかく、自分が道を尋ねられた、と喜んでいた。


それは町の一員と、日本人と認めてもらったような気がしたからなのだろうか。


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松戸の千葉大生殺害事件の犯人に死刑判決が下ったという。


人間は社会の中で生きることができる。アリストテレスの社会的人間を持ち出すまでもなく、私たちは社会があるから生きてゆけるのだ。その社会を維持するためには、その社会成立の根本条件を崩す人間は、その社会から厳しい罰を受ける。これは当然なのだ。死刑もやむを得ないかもしれない。


何でも『自由』などは、根本的に社会は許さないし、社会を構成する一員であるなら、身勝手な自由は許されることではない。


人間愛のもとに死刑は廃止すべし、という論がある。しかし、私は『人間愛』『ヒューマニズム』とはなにか、もっと議論すべきである,と思う。もちろん学生運動を経てきた人々はサルトルのいう「ヒューマニズム」を持ち出すかもしれない。しかし、その彼の、その安易な、意味不明の「ヒューマニズム」でどれだけ多くのひとを混迷に導き、どれだけの人が苦しんだか・・


私は、むしろ、時代を遡ってアリストテレスの社会的でなければ人間は生きてゆけないという、この原理、この事実のもとに、やはり考えたい。


その前には、『なんでも自由』など、その社会にはあり得ないということを、これは確認したい。



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