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ミハイル・レールモントフ(北垣信行訳)『現代の英雄』(未知谷)を読みました。
プーシキン『大尉の娘』、ゴーゴリ『タラース・ブーリバ』に続いて未知谷のロシア文学三冊目の紹介。レールモントフ『現代の英雄』はすごくハマる人と、難しく感じてしまう人がいるだろうと思います。
その大きな理由に、この作品がやや複雑な構成をしていることがあります。長編のようであり、短編集のようでもあり。また、時に他人にひどい仕打ちをする主人公を、嫌悪するか、理解するかで違います。
『現代の英雄』の主人公はグリゴーリー・アレクサンドロヴィッチ・ペチョーリンという青年。ペチョーリンの恋愛を通してその個性が描かれていく物語ですが、普通の小説と大きく異なるのが物語の構成。
全五編からなる物語ですが、初めの二編ではペチョーリンの知り合いから聞いた話や外から見たペチョーリンが描かれます。なので起こった出来事に対するペチョーリンの心理はほとんど分からないのです。
一方で残りの三編は、ペチョーリンの日記をひもといたという設定になっていて、〈おれ〉の目から出来事が語られていきます。ここではペチョーリンの心理が恐ろしいまでにはっきりと描かれるのでした。
外から描かれるかそれとも内から描かれるかでペチョーリンのイメージは変わりますし、短編の時系列はばらばらで、ペチョーリンの人生を順番通り知りたいのなら、自分の頭で再構成する必要があります。
そうした客観か主観かのイメージの多層性、時間的な経過による心情の変化が読み取りづらいということがあるので、読み手が本文に書かれてないことをいかに想像で埋めるかで感想は違ってくるでしょう。
さて、『現代の英雄』のテーマをざっくり言えば、知識人の生き辛さということになります。世が世なら英雄になれる資質を持っていたとしても、1830年代後半の社会情勢ではそれが許されない苦しみ。
作中ペチョーリンが、こんな風に気持ちを吐露する場面があります。
ぼくは不幸な性格をもった男なんです。教育の結果こうなったのか、それとも神さまがこういうふうにお造りになったのか、――それはぼくにもわかりません。(中略)まだ年端もいかなかったころ、身内の者の後見から脱したそのとたんから、ぼくは金で買える快楽という快楽を片っぱしから味わいはじめました。が、いうまでもなくそんな快楽はじきに鼻についてしまいました。で、つぎは、社交界へうって出たわけですが、同様この社交界にもたちまちうんざりしてしまいました。社交界の美人たちに惚れたこともありますし、惚れられたこともあります。が、そういう女に愛情をささげられれば、空想と自惚れを掻きたてられることはあっても、胸のなかは依然として空ろなんです……読書や学問にも手を出してみました――が、学問もやっぱり嫌でたまらなくなってきた。ぼくにはわかってきたのです、名声にしても幸福にしても、学問などとはなんのかかわりもないってことを。(66ページ)
序文で「われわれの世代全体の欠陥」(2ページ)の肖像だと語られているペチョーリンの、人生の何に対しても情熱を持つことの出来ない姿は、個人の問題ではなく世代の問題としてとらえられています。
つまり『現代の英雄』は思想的にも行動的にも読者が共感出来ない言わばモンスターのような主人公を世代の代表として描くことで、閉塞した社会への批判がなされている小説と読むことが出来るわけです。
ただ、『現代の英雄』が非常に面白いのは、本来は共感しにくいはずの主人公ペチョーリンにある種の読者は共鳴する部分がある所。主人公の悩みは、文学でも長年扱われて来た自意識の問題と重なるから。
感情ではなく理性が先に立ち、本来は最も感情的と言っていい恋愛ですら、ゲーム的なアプローチしか出来ないこと。そしてその、ある意味では独りよがりの自意識的葛藤の心理が克明に描かれていること。
そういった意味では、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』などフランスの一連の心理小説、その影響を受けた、三島由紀夫の『仮面の告白』と共通する部分が非常に大きい作品と言えるだろうと思います。
主人公ペチョーリンを閉塞した時代が生んだ共感出来ないモンスターとして読むか、それともその自意識の葛藤に共感出来るかで読者の感想は変わって来そうな作品ですが、ぼくはとても面白く読みました。
作品のあらすじ
「ベーラ」
グルジア旅行記の原稿がつまったトランクを馬車に乗せて旅をしていた〈わたし〉はコイシャウル渓谷で、同じ方向へ向かっている、五十前後と思しき大尉マクシム・マクシームイチと道連れになりました。吹雪のため先へ進めず泥小屋の宿に泊まると、大尉はテレクの河向こうで駐屯していた時に会った二十歳くらいの青年将校グリゴーリー・アレクサンドロヴィッチ・ペチョーリンのことを話してくれました。
堡塁から六キロほどの所に帰順した部族の長の一家が暮らしており、長女の結婚式に招かれた大尉とペチョーリン。愛くるしい十六歳そこそこの、下の娘ベーラが、ペチョーリンに歌を聞かせてくれました。
馬を欲しがっているベーラの弟アザマートと取引をして、ベーラをさらったペチョーリンでしたが、口をきこうともしないベーラに手を焼き、韃靼語を知っている居酒屋のおかみに仲立ちをしてもらいます。
ペチョーリンが贈り物をし、韃靼語を学び、本当に愛しているという態度を見せると、元からペチョーリンのことを悪く思っていなかったベーラも打ち解けていき、二人は幸せに暮らし始めたのですが……。
「マクシム・マクシームイチ」
エカテリノグラードへと向かう掩護輸送隊が来ていないために宿で足止めをくらった〈わたし〉がペチョーリンとベーラの話を書きとめようとしていると、たまたまマクシム・マクシームイチと再会します。そこへ豪華な馬車が到着しましたが、なんと主人はペチョーリンだと従僕は言うのです。ペチョーリンは某大佐の家で夕飯に招かれているというのでした。マクシームイチはペチョーリンに会いにいきます。
ところが、マクシームイチは、ペチョーリンに会えないまま帰って来て、朝になると、用事で出かけなければならないから、ペチョーリンが来たら使いをよこしてくれと、〈わたし〉に頼んで出かけました。
やがて窓先の広場に、まるで何か内につつむところがあるようにものうげに歩くペチョーリンが姿を現します。ペチョーリンの様子を観察していた〈わたし〉は、旧友が待っていることを伝えましたが……。
「タマーニ」
ペチョーリンの日記を手に入れた〈わたし〉は、しかるべき時期が来たので、分厚いノートに書かれた日記の中から、ペチョーリンがコーサカスに滞在していた時期のものだけを、出版することにしました。〈おれ〉ペチョーリンがロシアの海岸町で一番嫌らしい田舎町タマーニにたどり着いた時の話。宿舎がどこも満室だというので貧しい百姓家に泊まります。夜になると月が照らす窓の外を人影が通りました。
その家の盲目の少年が何やら包みを抱えて波止場に走っていったのです。少年と女の話し声を聞き、ボートがやって来たのを見た〈おれ〉は、こんな夜中に一体何が行われているのかと興味をそそられます。
翌日、歌いながら来た美しい女を見かけた〈おれ〉は、声でそれが昨夜の女だと気付きました。話しかけると、「今夜みんなが寝しずまったら、海岸へ出ていらっしゃい」(118ページ)と誘われて……。
「公爵令嬢メリー」
鉱泉場のあるピャチゴールスクに着いた〈おれ〉は、町はずれに家を借りました。そこで思いがけず、作戦中の部隊で知り合った士官候補生のグルシニーツキーと再会します。親しく抱き合う〈おれ〉たち。 かれはかなり機智にとんだ男ではある。かれの吐く警句が感興をよぶことは多いが、それがぴたりと的中したり、毒舌になったりすることは、けっしてない。だれにも一言でとどめを刺すことはできない。かれは人間を知らず、人間のあえかな琴線を知らない。それは一生涯自分のことだけにかかずらわってきたためだ。かれの生涯の目的は小説の主人公になることである。かれはあまりにもたびたびみんなに、ぼくは平穏な日々をおくるためにこの世に生をうけたのではなくて、ある人知れぬ苦悩をなめる運命を負った人間なのだと信じこませようとしてきたため、自分でもすっかりその気になりかけている。かれがあんなに傲然とぼてぼてした兵隊用の毛皮外套を着てまわっているのも、そのせいだ。おれはかれの腹のなかを見とおしている。だから、やつはおれを好かないのだ。もっとも、二人とも表面はいたって親しい間柄のように見せかけてはいるが。グルシニーツキーは抜群の勇士としてきこえている。おれはかれの戦場にあるところを目撃したことがある。かれは剣をふりふり喚声をあげて、目をつぶったまま突進する。が、これはロシア式の豪勇とはどこか趣きがちがうようだ!……
おれのほうでもやはり、かれを好いてはいない。二人はいつか衝突しなければならぬところまで追いこまれて――どちらかが苦杯をなめるような気がしてならない。(130~131ページ)
リゴフスカーヤ公爵夫人の娘メリーに恋しているグルシニーツキー。その熱い心のせいで天邪鬼な性格である〈おれ〉の心は冷たくなり、また、美しいメリーが他の青年を特別視することが気に入りません。
そこで、折角様々なつてがあるのに、〈おれ〉はあえてメリーに近付かないようにしました。ちやほやされることに慣れているメリーは不思議がり、いい気がしないので陰で〈おれ〉の悪口を言い始めます。
すると今度は、チェラーホフの店でメリーが気に入っていたペルシャ絨毯を〈おれ〉が先に買ってしまいます。〈おれ〉は馬に絨毯をかぶせてメリーの家の窓際近くを歩かせ、メリーを激怒させたのでした。
計画通り、自分をメリーに強く意識させることに成功した〈おれ〉は次第にメリーと親しくなり、やがてはメリーから恋心を打ち明けられるまでになりますが、それは思いがけない出来事へと繋がって……。
「運命論者」
歩兵が駐屯していたカザック村で二週間ほど過ごした時の話。夜毎トランプで賭けをして遊んでいましたが「人間の運命は天上に記録されている」(273ページ)かどうかということで議論になりました。すると賭博に異様な執念を燃やすセルビヤ人のヴーリッチ中佐がテーブルにやって来たので、何事が起こるかと、皆ぴたりと口をつぐみます。実際に試してみようではないかと言い出した、ヴーリッチ中佐。
〈おれ〉が賭けに乗って、ポケットに入っていた金をテーブルの上に置くと、ヴーリッチ中佐は壁にかかっていた大小さまざまなピストルの中から無造作に一挺選ぶとそのピストルを自分の額に当てて……。
とまあそんな五編が収録されています。ペチョーリンと異国の娘の恋のエピソードをそばにいた大尉から聞いたのが「ベーラ」、実際に見たペチョーリンの様子を描いたのが「マクシム・マクシームイチ」。
日記編では、移動先の思いがけない出来事を描くのが「タマーニ」、フランスの心理小説を思わせる恋のさや当てを描いたのが「公爵令嬢メリー」、ペチョーリンの人生観が垣間見えるのが、「運命論者」。
訳者解説によると、時系列順では、「タマーニ」「公爵令嬢メリー」「ベーラ」「運命論者」「マクシム・マクシームイチ」だそうです。
とりわけ面白いのが物語性に富んだ「ベーラ」と「公爵令嬢メリー」の二編。どちらもペチョーリンの物語ながら、客観的に描かれたものと主観的に描かれたものの違いがあるので、かなり印象が違います。
ぜひ読み比べてほしいですが、「公爵令嬢メリー」の中でペチョーリンが「おれの生涯は終始、感情の理性にたいする悲しい反逆とその失敗の連続にすぎない」(138ページ)と考える場面がありました。
主観的な「公爵令嬢メリー」では、ペチョーリンの天邪鬼な性格や自意識との葛藤が描かれており、心理小説として非常に興味深い作品になっていて、そこがこの作品でぼくが一番面白く思った部分でした。