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ネビル・シュート(池央耿訳)『パイド・パイパー 自由への越境』(創元推理文庫)を読みました。
歌舞伎の演目に「勧進帳」というものがあります。有名なので、みなさんもなんとなく話をご存知なのではないでしょうか。平家を倒した後、源義経は兄の源頼朝から、追われる身の上となってしまいます。
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奥州へ逃げようと山伏姿になった義経一行は旅を続けますが、関所で止められてしまい、絶体絶命の危機に陥ってしまったのでした。義経に仕える武蔵坊弁慶はなんとか咄嗟の機転で乗り切ろうとして……。
今回紹介する『パイド・パイパー』は、そんな「勧進帳」にまさるとも劣らないスリリングさと感動の作品。第二次世界大戦を舞台に、ドイツ支配下のフランスから、イギリスへ帰国しようとする物語です。
イギリスとドイツは戦争中ですから、ドイツ兵に捕まったら一巻の終わり。戦局は日を追うごとに悪化していくばかりで、鉄道も船も車もどんどん使えなくなっていき、厳しい徒歩の旅を強いられるのです。
とまあそんな風な、スパイものを思わせるスリリングな小説なのですが、主人公は全然スパイでもなんでもないんです。元々は弁護士で、フランスには釣りに来ていた、イギリス人の70歳のおじいちゃん。
別に一人でイギリスへ帰るだけなら、なんとでもなるでしょうが、どういうめぐりあわせか、そのおじいちゃんは子供だけでも助けて欲しいと色んな人から次から次へと子供を預けられてしまったのでした。
熱でダウンしたり、乗り物に乗ったらゲロをはいたり、喋っちゃいけないということを喋ってしまったり、子供を連れていると大変なことばかり。それでもおじいちゃんは、子供たちを見捨てないのでした。
というわけで、スパイもののはらはらどきどきのスリリングさに加えて、次第に絆が深まっていく老人と子供たちの関係にほっこりさせられる、感動作でもあるのです。読みやすく面白い、おすすめの一冊。
少し前に紹介した『渚にて』のネビル・シュートによって1942年に発表された小説で、日本ではそれほど知られていませんが、冒険小説が人気を集めるイギリス本国では、人気が高い作品みたいですね。
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タイトルの「パイド・パイパー」というのはドイツ中世の伝説「ハーメルンの笛吹き男 Pied Piper of Hamelin」からとられています。約束が守られなかったことから、笛の音で子供たちを連れて行くお話。
おじいちゃんが連れて行く子供の人種は様々。それが、平和な未来への希望を表しているようで、そんな所にもなんだかぐっときました。
作品のあらすじ
こんな書き出しで始まります。
彼はジョン・シドニー・ハワードといって、ロンドンの私のクラブの会員である。その夜、私は戦局分析をめぐる終日の会議に草臥れきって八時頃、夕食のためにクラブに戻った。彼は私のすぐ前をクラブに入ろうとするところだった。七十歳くらいだろうか、背が高く痩せ形で、足下もいささか危うげな老体は入口のマットに躓いて、前のめりに転びかけた。ポーターが駆け寄って腕を支えた。(7ページ)
〈私〉はハワードと話をする内に、ドイツ軍がフランスになだれ込んだ時期にハワードがフランスに行っていたことを知りました。しかもあらかた歩いて帰ったというので驚き、詳しい経緯を尋ねたのです。
老人ハワードはあえて多くを語ろうとしませんでしたが、三月に大きなショックを受ける出来事が起こったらしく、気晴らしのために平穏な状況が続くフランスの山中へ釣りに出かけることにしたのでした。
心が沈んでいるのであまり人と関わらないようにしていましたが、イギリス人女性キャヴァナー夫人の一家と親しくなっていきます。キャヴナー家の兄妹8歳のロナルドと5歳のシーラとも打ち解けました。
兄妹の心をつかんだのは、笛。ハワードはペンナイフを使って、木の枝から笛を作る特技を持っていたのです。自分の息子ジョンと娘イーニッドも幼い頃喜んでくれたことを思い出しながら笛を作りました。
やがて、オランダへなだれ込みフランスにも手を伸ばすドイツ軍の勢いを知ったハワードは自国の危機に立ちあいたいと帰国を決めます。
国際連盟で職員として働くキャヴァナーは夫人を連れてジュネーヴに戻る決意を固めました。そこでハワードにある頼み事をしたのです。
キャヴァナーは居住まいを正した。「実は、そのことで、こうしてお邪魔に上がりました。ジュネーヴにいるとなると、戦争が終るまで、何かと不自由だと思います。連合軍が勝つためには、封鎖作戦しかありません。ドイツの占領地域が食糧不足になるのは目に見えています」
ハワードは感に堪えてキャヴァナーを見返した。この小男がここまで思いつめているとは知らなかった。「そうでしょうねぇ」
「問題は子供たちです」キャヴナーは言いにくそうに切り出した。「私ども、いろいろ考えまして……これは、その、フェリシティの口から出たことですが……イギリスへお帰りになるのでしたら、子供たちを一緒に連れていっていただけませんでしょうか」
ハワードに口を開く隙を与えず、キャヴナーは急いで先を続けた。「オックスフォードのボアズビルに私の姉がおります。サウサンプトンまで出迎えるように、私から電報を打ちます。子供たちは、姉が車でオックスフォードへ連れていけばいいのです。大変、勝手なお願いで、ご迷惑は重々承知です。とうてい無理だとおっしゃるなら、たってお願いできないことはわかっています」
(45ページ)
高齢による体調の心配はありましたが、頼みを断るわけにはいかず、ハワードはロナルドとシーラを連れてイギリスへ戻ることを約束したのでした。そうして旅立った一行でしたが思わぬ事態が起こります。
どうもぐずっていて様子がおかしいと思ったらシーラが熱を出してしまったのでした。ディジョン駅のホテルに泊まりシーラの回復を待っている内に、戦争の状況は、どんどん悪くなっていってしまいます。
ホテルには鉄道局がやって来ることになり、従業員は解雇になってしまいました。あるメイドが、食べていけなくなるから、十歳になる姪のローズをイギリスの兄の所まで送り届けてほしいと頼んできます。
シーラが回復したので、ローズが加わった一行は汽車に乗ってひとまずパリに向かったのですが、戦局が悪化してジョワニで止まってしまい、ジョワニから北へ行く列車は全線不通だと知らされたのでした。
そればかりでなく、戻るより先へ進んだ方がいいだろうと判断したものの、爆撃を受けバスが動かなくなってしまい、モンタルジまで二十五キロを歩いていかなければならないことになってしまったのです。
惨澹たる状況の中、歩き続ける一行。シーラがなにかを見つけます。
ここに至って、シーラははじめて身辺の異状に気づいた。「死んだ人、見たい」
老人はシーラの手を強く握って引き止めた。「死んだ人を見てはいけないと言ったろう」彼は片付かない気持でなおも周囲に目をやった。
シーラは言った。「じゃあ、あの子と遊んでもいい?」
「あの子って、誰もいやあしないだろうが」
「いるよ。ほら、あそこ」
シーラは倒れた木から二十ヤードほど離れた道の向こうを指さした。年の頃、五つか六つと思しき少年が、文字通り、身じろぎもせずに立っていた。グレーのセーターに、グレーの半ズボン、膝の上まであるグレーのストッキング、と上から下までグレーずくめの少年は凍りついたようにじっと立ち尽くして、道の向こうからハワードの一行を見つめていた。白茶けたその顔にはまるで生気がなかった。
ハワードは息を呑んだ。声にならぬ声が老人の口からこぼれた。
「何と、まあ……」七十年の生涯を通じて、かくまで表情を失った子供は見たことがなかった。(112ページ)
道端の毛布の下には、身なりのいい夫婦の死体がありました。残されたこの少年を放っておくわけにはいかず、ハワードは連れていくことにしましたが、少年は口をきこうとせず、食事もしようとしません。
するとロナルドとシーラは、少年に笛を作ってあげたらきっと喜ぶと言ったので、ハワード自身は半信半疑でしたが少年のために笛を作ってやります。するとそれから、少しずつ話すようになったのでした。
困難を乗り越えながらイギリスへ向かうハワード一行は、「イギリスのドブネズミどもを匿った者は厳罰を免れぬことと心得よ」(203ページ)というドイツ兵のビラが巻かれている危険な地に入ります。
古くからの知り合いを頼り、船でひそかにイギリスへ渡ろうと計画したハワードでしたが、やがて絶体絶命の危機に陥ってしまって……。
はたして、ハワードは子供たちをイギリスへ連れて帰れるのか!?
とまあそんなお話です。ロナルドとシーラはイギリス人の血を引いているのですが、教育はフランス語で受けているので、英語とフランス語の両方を喋ることが出来ます。これが物語で重要になってきます。
ハワード自身もフランス語を流暢に話せるので、フランス人のような恰好をしフランス人の一行のようにして旅を続けるのですが、ロナルドとシーラは何度言ってもついぽろっと英語を使ってしまうのです。
もしもドイツ兵にイギリス人の一行であることがばれてしまったら、ただではすみません。それなのにロナルドは戦車や飛行機などかっこいいものにとにかく夢中。自らドイツ兵に近付いてしまうのでした。
いつ一行の正体がばれてしまうのかというはらはらどきどきの冒険小説であり、心を閉ざした少年との交流など、人間同士の絆を描いた感動的なロードノベル。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
次回からは新井素子特集をやります。途中で一旦休憩というか、海外文学三冊を挟みつつ、二回に分けて七作品を紹介する予定でいます。まずはデビュー作を含む短編集『あたしの中の……』からスタート。