マーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』 | 文学どうでしょう

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夜中に犬に起こった奇妙な事件/早川書房

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マーク・ハッドン(小尾芙佐訳)『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(早川書房)を読みました。

岩波書店が出しているヤングアダルト(中学生、高校生向け)小説の叢書「STAMP BOOKS」の中に、フランシスコ・X・ストーク『マルセロ・イン・ザ・リアルワールド』という作品があります。

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド (STAMP BOOKS)/岩波書店

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アスペルガー症候群に最も近い発達障害を抱える少年マルセロが、一夏、父親の法律事務所で働くことになるという物語。マルセロの目線から現実世界がとらえなおされている、とても印象的な作品でした。

発達障害を持つ登場人物が出てくる小説や映画には、心を打たれる名作が多いですが、ヤングアダルト小説で有名なのが今回紹介する『夜中に犬に起こった奇妙な事件』です。日本で舞台にもなりましたね。

物語の主人公兼語り手は、数学や物理で才能を示す一方、他人の感情がよく分からず、何事もルール通りに行いたいが故に日常生活に支障を来すなど、発達障害を持つ15歳の少年クリストファー・ブーン。

養護学校で物語を書くという課題を出されたのをきっかけに、シャーロック・ホームズのようなミステリ作品を書くことにしました。そして近所で起こった飼い犬殺しの犯人を突き止めるため動き始め……。

普通の人だったら当たり前に出来ることがクリストファーにとっては一大事。事件を捜査するためには聞き込みが不可欠ですが、見知らぬ人と話すのが恐いんですね。それでも捜査のためにがんばるのです。

いわゆる”空気を読む”ことが苦手で、物事を四角四面に受け取ってしまい、勘違いしてしまうこともよくあるクリストファーは捜査を続ける内にやがて、自身にかかわる重大な秘密を知ってしまうのでした。

クリストファーの目に映る世界は驚きに満ちていて、たとえば人々が普段見過ごしてしまうこともクリストファーはしっかり見ています。

 ぼくにはあらゆるものが見える。
 それでぼくは新しい場所がきらいなのです。もし知っている場所、たとえば家とか学校とかバスとか店とか通りとかにいるとすると、ぼくはもうすでにほとんどあらゆるものを見てしまっているので、ぼくが見るのは、変わったところとか、場所が動いたものだけでいい。例をあげると、ある週には、シェイクスピアのグローブ座のポスターが学校の教室の床に落ちた、それがなぜわかるかというと、ポスターがやや右よりにはりなおされていたからで、ポスターの左がわの壁に画びょうの小さなまるいあとが三つ残っていたからだ。それからつぎの日にだれかがうちの通りの三十五番地の外に立っている四三七号の電柱にブスはセーケイへといたずらがきをした。(241ページ)


新しい場所に耐えきれず日常生活に支障が出るほど観察力にすぐれたクリストファーのこの言葉は『シャーロック・ホームズの冒険』におけるホームズの「見るのと観察するのとは違う」を彷彿とさせます。

シャーロック・ホームズの冒険―新訳シャーロック・ホームズ全集 (光文社文庫)/光文社

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ホームズはワトスンに自分たちの家の階段の数を尋ねたのですが、毎日上がっている階段なのにワトスンは答えられなかったのでした。これが見るのと観察することの違いだとホームズはそう言ったのです。

ホームズの論理的な性格を愛し、飼い犬殺しの捜査を始めたクリストファーにはどんな出来事が待ち受けているのでしょうか。信頼できない語り手による、シンプルかつディープなミステリ風青春小説です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 夜中の十二時を七分すぎていた。犬はミセス・シアーズの家の前の芝生のまんなかの草の上で寝ていた。目は閉じていた。なんだか横になって走っているみたいで、犬が猫を追いかけて走っている夢を見ているときみたいなかっこうだった。しかし犬は走っているのでも眠っているのでもなかった。犬は死んでいた。犬の体から庭仕事に使うフォークが突きだしていた。
(5ページ)


殺されていたのはウエリントンというプードル。人間と違って感情が分かりやすいので、〈ぼく〉クリストファーはウエリントンが好きでした。犬を抱きしめていると知らせを受けた警察官がやって来ます。

警察官に色々質問されすぎて混乱し、うなり声をあげ始めた〈ぼく〉は立ち上がらせようとする警察官に体を触られて怒り、警察官を殴って捕まってしまったのでした。お父さんが警察署に迎えに来ます。

 ぼくはいった、「ぼくはあの犬を殺さなかった」
 そしてお父さんはいった、「わかってる」
 それからお父さんはこういった、「クリストファー、面倒にまきこまれないように注意しろよ、いいな?」
 ぼくはいった、「ぼく、面倒にまきこまれるなんて知らなかった。ぼくはウエリントンが好きで、こんにちはをいいにいった、でもだれかがウエリントンを殺していたなんて知らなかった」
 お父さんはいった、「とにかく他人ごとに首をつっこまないようにしろ」
 ぼくはちょっと考えてからいった、「ぼくはだれがウエリントンを殺したかさがしだす」
 そしたらお父さんはいった、「おれがいまいったことをちゃんと聞いていたのか、クリストファー?」
 ぼくはいった、「はい、いまいったことはちゃんと聞いていた。でもだれかが殺されたら、だれが殺したかさがしださなければいけない、罰をあたえるために」
 そしたお父さんはいった、「たかが犬だ、クリストファー、たかが犬だよ」
 ぼくは答えた、「犬は大切なものだと思う」
(42~43ページ)


〈ぼく〉はボイラーの修理を生業とするお父さんと、二人で暮らしていました。お母さんはいません。二年前に亡くなってしまったから。
心臓発作で突然入院し、〈ぼく〉は死に目にあえなかったのでした。

〈ぼく〉には〈ぼく〉だけのルールがあります。たとえば、赤い車と四台つづけてすれ違うとその日はよい日、黄色い車と四台続けてすれ違うとても悪い日など。悪い日には誰とも喋らずご飯も食べません。

その日は赤い車とすれ違ったなにかを始めるに最適な日だったので、ウエリントンを殺した犯人を見つけることを決意し、シボーン先生のすすめもあって、犯人を捕まえるまでの文章を書き始めたのでした。

〈ぼく〉は、早速捜査を始めます。ウエリントンの飼い主であるミセス・シアーズに会いに行きますが、「正直いって、いまはあんたに会いたくないのよ」(60ページ)とドアを閉められてしまいました。

物置小屋を見るとウエリントンに刺さっていたフォークと同じフォークがありました。血は拭い去られていましたが、ウエリントンは、ミセス・シアーズのフォークで殺されたと見て、間違いなさそうです。

ミセス・アレグザンダーなど、近所の人たちに犯行が行われた夜、不審な人や物を見なかったか尋ねて回りますが、それがお父さんにばれて、二度と余計なことはするなと約束させられてしまったのでした。

〈ぼく〉はミセス・シアーズを困らせたいという犯行動機から考えて二年前に姿を消した、夫のミスタ・シアーズが怪しいと思いますが、約束は約束なので、シボーン先生にもこれでおしまいだと話します。

しかしそれから五日後に赤い車が五台続けて通った最高にいい日がありました。学校では特別なことが起きませんでしたが、おやつを買いに出かけると、たまたまミセス・アレグザンダーと再会したのです。

 それからぼくは論理的に考えた。お父さんは五つのことをぼくに約束させただけだとぼくは判断した。それというのは――

 1 うちのなかでミスタ・シアーズの名前を口に出してはいけない。
 2 だれがあのくそ犬を殺したかミセス・シアーズにききにいってはいけない。
 3 だれがあのくそ犬を殺したかだれにもきいてはいけない。
 4 他人の家の庭に侵入してはいけない。
 5 このあほくさい探偵ごっこはやめること。

 そしてミスタ・シアーズについてたずねることは、このなかには入っていない。そしてもし探偵なら、危険はおかさなければならない、そしてきょうは最高によい日だから危険をおかしてもだいじょうぶな日だということだ、だからぼくはいった、「ミスタ・シアーズを知ってますか?」これはおしゃべりのようなものだ。
(104~105ページ)


そうして、こっそり事件の捜査を続けていた〈ぼく〉でしたが、大洋の一番深いところにいる生物のビデオ『青い地球』に夢中になるあまり捜査の記録を綴った本をキッチンに置き忘れてしまったのでした。

本を読んだお父さんに激しく怒られ、本も取り上げられてしまった〈ぼく〉はがっかりしますが、どこかに隠されているに違いないと、およそ35センチ×25センチ×1センチの本を家中探し回ります。

そうしてお父さんの衣装戸棚のワイシャツの箱の中に本を見つけ、捨てないでいてくれたことを嬉しく思ったのですが、箱の中には、お母さんの字で書かれた〈ぼく〉宛ての封筒も入れられていたのでした。

 ぼくは手紙を見て、それからいっしょうけんめい考えた。これは謎だ、この謎は解けない。たぶんこの手紙は誤った封筒に入れられたのだろう、そしてこの手紙はお母さんが死ぬ前に書かれたものだったのだろう。しかしなぜロンドンから手紙を出したのだろう? お母さんがいちばん長く家をあけていたのは、癌にかかったルースおばさんをたずねていったときの一週間で、でもルースおばさんはマンチェスターに住んでいた。
 それからぼくは考えた、これはたぶんお母さんが書いた手紙ではないのだろう。たぶんクリストファーという名前のべつのひとに宛てた手紙で、そのクリストファーの母親からきた手紙なのかもしれない。
 ぼくは興奮した。ぼくが本を書きだしたとき、解かなければならない謎はたった一つだった。いまや謎は二つになった。
(173ページ)


二つの謎を追う〈ぼく〉は、見知らぬ人々がうろうろし、苦手な新しい場所を通らなければたどり着けないロンドン行きを決意して……。

はたして、〈ぼく〉はウエリントン殺しの真相をつかめるのか!?

とまあそんなお話です。仄めかしを理解したり、他人の感情を読み取るのが苦手なクリストファーはなかなか気が付きませんが、読者は同じ話を聞いてクリストファーより先にいくつかの事実に気付きます。

それだけに物語が進むに従ってクリストファーにどんな運命が待ち受けているのかはらはらどきどきさせられてしまう、そんな物語です。

今回紹介したのはソフトカバーの新装版ですが、元々は早川書房の児童書シリーズ「ハリネズミの本箱」の一冊。「ハリネズミの本箱」も面白そうなので機会があればまた色々読んでみたいと思っています。

ちなみに訳者の小尾芙佐は知能指数の低い主人公が手術で天才になるダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』訳した人なだけあって、丁寧さとぎこちなさを兼ね備えた訳文がかなりハマってました。

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)/早川書房

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数学や物理など、ルールがあるものは得意だけれど、対人のコミュニケーションなど、曖昧で、秩序の取れていないものが苦手なクリストファーをめぐる物語に興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

次回は、ジョン・グリーン『アラスカを追いかけて』を紹介する予定です。