テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』 | 文学どうでしょう

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ガラスの動物園 (新潮文庫)/新潮社

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テネシー・ウィリアムズ(小田島雄志訳)『ガラスの動物園』(新潮文庫)を読みました。

自分が誰よりも優れていると思い、自信満々で生きて来た人は少ないはずで、誰もが自分の容姿や性格の悩みを抱えているものです。作中の言葉で言えばインフェリオリティー・コンプレックス(劣等感)。

今回紹介する演劇『ガラスの動物園』の中心人物の一人ローラは子供の頃の病気の影響で片足が短く、添え木をあてているんですね。歩く時の音がどうしても気になって、内気な性格になってしまいました。

学校はうまくいかず中退を余儀なくされ、手に職をつけるためのビジネス・スクールでも教室で吐いてしまって、通えなくなってしまいます。唯一の趣味は、ガラスで出来た動物のコレクションをすること。

美しくも脆いガラスで出来た動物園。それはまさにローラその人を表しているようですが、こうしたローラの置かれている状況や、ローラの気持ちがなんとなく分かるという方も多いのではないでしょうか。

この演劇の語り手となるのはローラの弟のトム。生活のために倉庫で働いていますが、詩作が趣味の夢見がちな青年だけに、みじめな暮らしにうんざり。船乗りになってこの家を飛び出そうと思っています。

ローラとトムの母アマンダは、子供思いの母親ではありますが、夫が家族を捨てたこともあり、トムの奔放な生活を口うるさく責め立て、生活力のないローラを心配して、結婚させようと画策するのでした。

アマンダ、ローラ、トムのウィングフィールド家の晩餐に、トムの同僚のジム・オコナーという、感じのいい青年がやって来て、トムの新たな人生への希望と、内気なローラの恋が語られていくという物語。

登場人物はこの四人だけなので、とてもシンプルな劇なのですが、それぞれの登場人物の思惑というか、心理のすれ違いによって生まれる波紋が非常に面白くて、とにかく引き込まれる作品になっています。

この物語の登場人物の関係性は、作者のテネシー・ウィリアムズ自身と重なる部分が多く、自伝的要素が強いとも言われています。それだけに、とてもセンチメンタル(感傷的)な雰囲気の作品なのでした。

窮屈な現在の境遇から飛び出したい息子、ナイーヴさを持つ娘、子供思い故にかえって子供を苦しめてしまう母、こうした関係性は現代でも通じるものがあり、今なお読者や観客の心を、大きく動かします。

わりとよく公演されている名作なので、舞台を観に行ってもらいたいですが、新潮文庫に収録されている戯曲も、2011年に新版が出て活字が大きく読みやすくなったので、ぜひ手に取ってみてください。

作品のあらすじ


1930年代、下層中産階級が密集する都会の中心地、アパートの建物の裏側にあるウィングフィールド家のどことなく薄暗い借り部屋。商船員の服装をしたトムが路地から現れると観客に語り始めました。

 この劇は追憶の世界です。
 追憶の劇だから、舞台はほの暗く、センチメンタルであって、リアリスティックではありません。
 追憶の世界ではすべてが音楽に誘われて浮かんでくるように思われます。だからいま、舞台の袖でヴァイオリンがはじまったわけです。
 ぼくはこの劇の語り手です、そしてまた登場人物の一人にもなります。
 ほかの人物は、母のアマンダと、姉のローラ、それにもう一人、劇の後半に訪ねてくる青年紳士がいます。
 この紳士は劇中もっとおリアリスティックな人物です、彼はぼくたち一家がどういうわけか引き離されてしまった現実世界からの使者だからです。(17ページ)


ウィングフィールド家に父はいません。電話会社に勤めていたものの「ハロー――グッドバイ!」という絵葉書を送り、そのまま姿を消してしまったから。マントルピースの上に大きな写真があるだけです。

アマンダとローラが食事をしており、呼ばれたトムは観客に一礼して退場してから再登場し、食卓につきました。アマンダがよく噛んで食べなさいなど口うるさく言うので、トムはうんざりしてしまいます。

アマンダは自分が若かりし頃には自分に会いにたくさんの青年紳士が現れたものだといういつもの自慢話を始めました。重要なのは顔のきれいさでも、スタイルの美しさでもなく、巧みで上品な会話術だと。

やがて、愛国婦人会の会合に出かけたアマンダは、ローラがタイプを学ぶために通っているルビカムズ・ビジネス・スクールにあいさつにいき、驚愕の事実を知らされました。ローラはもう通っていないと。

アマンダが驚くのも無理はありません。ローラは一月半、一日も欠かさず家を出ていたから。ローラを問い詰めると、歩き回ったり公園や動物園、美術館に行ったりして時間をつぶしていたと分かりました。

がっかりすると美術館の聖母マリアの絵のようにつらそうな顔をする母さんの顔を見るのが耐えられなかったとローラは言います。結婚も就職も出来ない女は、厄介者でしかないとアマンダは怒るのでした。

好きになった人はいなかったかと聞かれたローラはハイスクール時代の話をします。プルーローシス(肋膜炎)にかかったと言ったのを聞き違え、ふざけてブルー・ローズ(青いバラ)と呼んでくれたジム。

卒業するクラスのオペラッタで素晴らしい歌声を響かせ、弁論大会で銀のカップをもらったジムは、ローラの憧れでしたが、学校一おしゃれなエミリー・マイゼンバッハと、ジムは付き合っていたのでした。

働けなければ結婚するべきだと迫るアマンダに、ローラは怯えたように、自分は足が悪いから駄目だと言います。しかしアマンダは、そんなわずかな欠陥は、埋め合わせる魅力があればいいと言うのでした。

一方、トムは映画に行くと言ってよく外出するようになり、アマンダをいらだたせます。トムは、自分がやっている仕事とやりたいと思っている仕事の差に苦しんでいるのですが、アマンダは理解しません。

アマンダ あの子のために計画と準備をしてやらなくちゃあと思うんだよ。あの子はおまえより年上だろう、二つも。それなのになにごともなく時がすぎて行く。なにもしないでただぶらぶら暮らしているだけ。あの子がただぶらぶらとすごしてるのを見ると、あたし、ぞっとするんだよ。
トム 姉さんは若い娘のなかでもいわゆる家庭向きのタイプじゃないかな。
アマンダ そんなタイプがどこにあるの、かりにあるとしたらかわいそうな話さ! 自分の家庭があって、ちゃんと夫もいるんでなければ!
トム なんだって?
アマンダ あたしにはね、恐ろしい将来が自分の手のひらのようにはっきり見えているんだよ! ぞっとするわ! おまえはますます父さんに似てくるだろう! 父さんは四六時中家をあけていた、なんの説明もなく! ――そのうちに家を出てしまった! はいサヨナラ、ってわけ!
 あとの苦労はあたしにまかせて知らん顔。あたし、見たよ、おまえが船員組合から受けとった手紙。おまえの夢ぐらいわかってるよ。あたしだってちゃんと目はくっついてるんだから。いいわ。だったら好きなようにおやんなさい!
 ただし、おまえの身代わりの人が見つかるまではいけません。
(70~71ページ)


ローラの結婚相手になるような、知り合いの男性を連れて来なさいと言われたトムは、働いている倉庫の同僚オコナーを晩餐に誘います。ところがそのオコナーこそ、ローラが想いを寄せていたジムで……。

はたして、客人が来たウィングフィールド家の、晩餐の結末は!?

とまあそんなお話です。父親が残していったすり切れたレコードをかけ、ガラス細工の動物を集めることしかしていないローラ。憧れだったジムとの再会で、一体どんな出来事が起こっていくのでしょうか。

ローラやトムの気持ちは理解しやすいですし、アマンダやジムの気持ちも分からないではないだけに、少ない登場人物のシンプルな物語ながら、深く心に刺さるものがある作品。言い知れぬ余韻が残ります。

テネシー・ウィリアムズと言えばやはり、『欲望という名の電車』が知られていますが、『ガラスの動物園』も勝るとも劣らない名作。興味を持った方は、舞台を観たり、戯曲を読んだりしてみてください。

次回は、レーモン・クノー『文体練習』を紹介する予定です。