大崎善生『パイロットフィッシュ』 | 文学どうでしょう

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パイロットフィッシュ (角川文庫)/角川書店

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大崎善生『パイロットフィッシュ』(角川文庫)を読みました。

この物語にはいくつか印象的なものが出て来ます。世界一の透明度を誇るバイカル湖、水が不足すると葉っぱがちりちりになる現象が全体に広がってしまうアジアンタムブルー(アジアンタムの憂鬱)など。

ショックを受けないようにと半年以上経ってから知らされた愛犬トムの死は「葉書を読むそのときまで僕の中に確実に生き続けていたトムとは一体、何物なのか」(81ページ)と主人公を考え込ませます。

しかし何と言っても一番印象的なのは、タイトルにも使われているパイロットフィッシュ。水槽の中の生態系にはアンモニアを分解することの出来るニトロゾナモスというバクテリアが必要不可欠なんです。

水僧にパイロットフィッシュを入れると、糞にバクテリアがあるので、二週間ほど経つといいバランスの生態系が出来上がるのでした。

「でも、ちょっと悲しいんだ」
「どうして?」
「たとえばね、アクアリウムの上級者がアロワナとかディスカスだとか高価な魚を買ったとするだろう。高級魚というのは大抵神経質で弱いんだ。そんなときに、その魚のためにあらかじめパイロットフィッシュを入れて水を作っておくんだ。これから入る高級魚となるべく似た環境で生育した魚を選んでね。そして、水ができた頃を見計らって本命の魚を運んでくる。でね、パイロットフィッシュは捨ててしまうんだ」
「殺すの?」
「そう。殺す」
「他の魚のための生態系だけを残して?」
「そう。生態系だけを残して」(34ページ)


美しい響きを持つ名前だけれど悲しい運命を背負わされたパイロットフィッシュ。物語で何気なく交わされている会話ですが、勿論、そのパイロットフィッシュの役割となる人物が登場することになります。

作者の大崎善生は元々将棋関係の雑誌の編集者をしていた人で、物書きとしてデビューしたのは村山聖という棋士を描いたノンフィクション『聖の青春』でした。色々とメディアミックスされて有名ですね。

聖の青春 (講談社文庫)/講談社

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小説のデビュー作がこの『パイロットフィッシュ』ですが、村上春樹作品から大きな影響を受けていて、「春樹チルドレン」と呼ばれることもあります。なので、村上春樹があわない人はあわないでしょう。

全体的にメロウな雰囲気で物語は進んでいき、感情を置き忘れたようにぼんやりしていながら何故か異様にモテる主人公の〈僕〉。愛のない性交を通して精神的ななにかが語られる感じもかなり似ています。

ただ、全体的な雰囲気や物語のタッチは村上春樹を彷彿とさせるものですが、「人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない」という記憶と生態系を巡るテーマには、オリジナリティがあります。

19年前に別れた恋人からかかって来た突然の電話から始まり、主人公の現在と過去が交錯しながら描かれていく作品。誰もが多かれ少なかれ持っているであろう忘れられない恋の記憶の物語でもあります。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである。
 人間の体のどこかに、ありとあらゆる記憶を沈めておく巨大な湖のような場所があって、その底には失われたはずの無数の過去が沈殿している。何かを思い立ち何かを始めようとするとき、目が覚めてまだ何も考えられないでいる朝、とうの昔に忘れ去っていたはずの記憶が、湖底から不意にゆらゆらと浮かび上がってくることがある。(9ページ)


クーとモモという二匹のロングコートチワワが室内でじゃれあっている午前二時。わずかな音でポリスの音楽をかけ、水換えを終えたばかりの九十センチの水槽を眺めながら〈僕〉はお酒を飲んでいました。

電話がかかって来て切れて、またかかって来ます。アルコール依存症で、しょっちゅうおかしな時間に電話をかけて来た森本は、電話を掛け直すことはしません。森本ではないと分かり電話に出てみました。

「わかる?」と聞かれ「ああ、わかるよ」と〈僕〉は答えます。たった一言で、記憶の湖底にゆらめく彼女の姿を思い起こすことが出来たから。それは十九年ぶりに耳にした、別れた恋人由希子の声でした。

由希子は結婚して二人の子持ちだと近況を話し、今度四十一歳になった中年同士で子供がハマっているプリクラを撮ろうと言います。由希子の声を聞きながら〈僕〉は彼女と過ごした三年間を思い出します。

札幌で生まれ育ち、大学進学にあわせて十九歳で上京した〈僕〉。半年ほど過ぎて新しい生活に慣れて来たので、バイトをしようと思い立ちました。ところが電車や路地で迷い面接場所にたどり着けません。

諦めて喫茶店に入ると泣いている女の子がいたのでびっくりして声をかけます。その女の子は友達に恋人を奪われて泣いていたのでした。

困った〈僕〉は、グループ内でめちゃくちゃな関係性になってしまったスウェーデンの四人組のロックバンドの話をします。まったく慰めになりませんでしたが、彼女は名前と電話番号を教えてくれました。

バイトの面接へ行こうとして道に迷い結局たどり着けない日々が続く内に〈僕〉は虚無感にとらわれ、すべてがどうでもよくなっていってしまいます。アパートに閉じこもり本だけ読む暮らしが続きました。

 自分は川底にあお向けにへばりついていて、その場所から外界を見ている。そんな錯覚とも幻想ともつかないような感覚に囚われはじめた。その驚くほどに透明な川の底からは、光も感じるし、木々の緑も空の青さも見ることができる、そして鳥が川の上を横切るように飛んでいく姿も見える。ここは浅瀬で手を伸ばせば、そこに届くのかもしれない。しかし、さらさらと流れていくこの水の流れの中にとどまっていたい。ここであお向けに寝転がり、ただ美しい空やくすんだ太陽や川面のきらめく光を眺めていたい。それで、時間だけがこの水の流れのように淀みなく流れていってくれれば……。
 そのころから僕は本を読むことさえやめた。カセットを聞くこともなくなった。ただ、一日二回、どんなに食べたくなくてもインスタントラーメンだけはすすり続けた。(80~81ページ)


やがてどうしようもなく追いつめられた時に思い浮かんだのが、三ヶ月前に喫茶店で泣いていた、川上由希子と名乗った女の子のことでした。電話をかけて、堰を切ったように何時間もぶっ通しで話します。

それ切り電話がないので心配して由希子が訪ねて来てくれたことで、〈僕〉と由希子は付き合い始めました。全然決まらなかったバイト先も由希子が決めてくれます。新宿のロック喫茶のウェイターでした。

三年生の時、将来なにがしたいか由希子から聞かれたので編集関係かなあと答えると、面接をとりつけてきます。なんと由希子は電話帳の上から順に出版社に電話して、編集に空きがないか聞いたのでした。

そうして〈僕〉が面接に行ったのが、なんとも堅そうな名前の文人出版。おそらく哲学系か心理学系だろうと由希子と話していましたが実際には『月刊エレクト』というアダルト雑誌の出版社だったのです。

しかし、読者をいかに惹きつけるかが本作りの基本であり、勃起させて売るという単純なようでいて難しいことに挑むエロ雑誌の編集者は編集者の中の編集者だという、編集長の沢井の言葉が胸に残ります。

思いの外由希子も事の成り行きを面白がったので〈僕〉はどことなく魅力のある人柄の沢井がいる文人出版で働くことを決めたのでした。

十九年ぶりの電話で、今はどこで働いているのか聞いてきた由希子。文人出版だと〈僕〉は答えます。今では編集長でした。〈僕〉のよき上司だった前編集長の沢井は、肺ガンで亡くなってしまったのです。

沢井は亡くなる前、次期編集長に〈僕〉ではなく仕事の出来ない先輩社員を選びました。年功序列を重んじたいからと。しかし先輩社員は家族がいるから編集長として名前を出したくないと断ったのでした。

そうして思いがけず〈僕〉に編集長の座が回って来たのですが、沢井は〈僕〉の技術ならどこに行ってもやれるから、一年思い切り好きなことをやったら、文人出版を辞めろとアドバイスをしてくれて……。

はたして、編集長になった〈僕〉が、思い切って打ち出した企画とは一体? そして、〈僕〉と由希子の、19年ぶりの再会の結末は!?

とまあそんなお話です。道に迷い、いつだって由希子の助けなしには前に進めなかった〈僕〉。二人は一体どうして別々の人生を歩むことになったのでしょうか。現在と過去が交互に語られていく物語です。

書き出しにあった、「人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない」というのは面白い考え方ですよね。要するに成功も失敗も含めて、過去の全部を背負って、人間は生きていくということです。

特に恋愛はそうですが、うまくいかなかった出来事は忘れたい過去、封印したい過去というとらえ方をするのが普通だろうと思います。今風に言うと「黒歴史」。それとは違う考え方がなんだか新鮮でした。

主人公がどこかドライで感情移入しはにくく、ゆったりした作品の雰囲気も好き嫌いが分かれそうですが、時折出て来るうんちく的事柄は個人的にとても興味深かったですし、読みやすく面白い作品でした。

次回は、盛田隆二『夜の果てまで』を紹介する予定です。