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ナサニエル・ウェスト(丸谷才一訳)『孤独な娘』(岩波文庫)を読みました。
分かりやすい例で言えば、お寺や神社に参拝した時にするお祈り。悩みごとや、自分が望んでいることがうまくいくように願いますよね。一方、キリスト教(カトリック)では、告解というものがあります。
司祭が信者から罪の話を聞き、許しを与えるもの。お寺や神社では神様が、そしてカトリックでは聖職者が解決策こそ提示しないものの、抱えている悩みや苦しみ、言わば、負の話を聞いてくれるわけです。
さて、ではもしもその負の話を聞かされるのが神様でも聖職者でもない、ただの人だったらどうなるでしょうか。延々と苦しみや悩みごとの手紙が届けられ、それに返事を書かないといけないとしたならば?
今回紹介する『孤独な娘』は、まさにそういうシチュエーションを描いた物語。主人公の青年は『ニューヨーク・ポスト・ディスパッチ』という新聞の記者で、悩みごと相談のコラムを担当しているのです。
相談に答える時のペンネームが、「孤独な娘」(ミス・ロンリーハーツ)。初めは冗談とは言わないまでも、気軽な企画だったのですが、次々と寄せられる重い相談に青年の神経はまいって来てしまいます。
「たぶん判ってもらえるはずだよ。いいかい、最初から説明しよう。ある新聞記者が、身の上相談の係にやとわれた。発行部数をふやすのが目当ての欄なんだ。社の人間はみんな、冗談の欄だと心得ている。彼はこの仕事が気に入ってた。ゴシップ記事の係になれる見込みもあったし、それにまあ、外まわりの仕事にはうんざりしてたんだ。彼としても、これは冗談なんだと考えていた。ところが数ヶ月たつと、彼にはこの冗談がおかしくなくなってきた。たいていの手紙は、精神の支えになるような忠告をまったく謙虚な心で求めているんだし、ほんものの苦悩をたどたどしく表現している……そんな事情が判ってきたのさ。それに、手紙を出すほうは彼を信じきっている、ということにも気がついた。おれは一体どういう価値を基準にして生きているのか、生れてはじめて考える羽目になったのさ。考えてゆくと、自分はこの冗談の犠牲者なので、加害者のほうではない、ということがはっきりしてきた」(88ページ)
『孤独な娘』はブラック・ユーモアの作品として紹介されることが多いのですが、笑える話ではありません。聖職者でもない青年が悩みを聞くことによって、自分自身生きるとは何か迷い始めてしまうこと。
その皮肉な立場を通して、宗教的な問題、それから、株の暴落で不況に陥った1930年代のアメリカで暮らす人々の姿を風刺的に描いた作品なのです。悪夢的でグロテスクな生が浮かび上がって来る物語。
人間はどう生きるべきかという宗教的な問題にせよ、ジャーナリズムの軽薄さと貧しい庶民の暮らしを対比的に描いた1930年代の風俗の問題にせよ、現代日本の読者はピンと来ない部分が多いでしょう。
なので、はっきり言って、面白さがあまり分かりづらい作品であり、おすすめかどうかは微妙なのですが、「シュールレアリスム」の影響を受けた小説なだけあって、悪夢的な雰囲気がこの作品の魅力です。
1920年代から1930年代に活躍したアメリカの作家と言えば、アーネスト・ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルドなどいわゆる「ロスト・ジェネレーション」(失われた世代)の作家たち。
第一次世界大戦を経験し、当たり前の価値観を持てなくなった世代の作家たちのことですが、ナサニエル・ウェストはその少し後の生れながらほぼ同世代。『孤独な娘』も1933年に発表された作品です。
しかし発表された当時はほとんど評価されませんでした。1960年代以降盛んになったのがジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、トマス・ピンチョンら既存の文学の枠組みを越えたポストモダン文学。
そういう時代になって初めてウェストはグロテスクなイメージで現実を風刺的に描くポストモダン文学のブラック・ユーモアの先駆けと見なされるようになりました。そうした関係性に関心のある方はぜひ。
作品のあらすじ
「悩みごとはありませんか?――相談相手がほしくはありませんか?――《孤独な娘》に手紙をお出しになれば、御返事いたします」(7ページ)でお馴染みの新聞コーナーを担当している彼《孤独な娘》。
目の前に悩みごと相談の手紙は山積み、締切時間はもう十五分も過ぎてしまっているのに彼はまだ返事の原稿を書けないでいるのでした。
最初は気軽に答えていましたが「みんな、同じように、ハートの形をしたクッキー・ナイフで、苦悩の練り粉から抜きとったもの」(8ページ)のように思える悩みにどう答えたらいいか迷い出したから。
特別記事欄主筆のシュライクはそんな迷いを吹き飛ばすように、希望に満ちた適当な答えを口にするのでした。なんとかかんとか仕事を終えた《孤独な娘》は、浮かない気分でもぐり酒場へと足を運びます。
家に帰って眠ると小羊をいけにえにする悪夢を見ました。力いっぱい小羊の喉めがけて庖丁を振り下ろしますが、手元が狂って皮膚を傷つけただけ。結局暴れた小羊には逃げられ、手には血だけが残ります。
《孤独な娘》の日常は段々と憂鬱に支配されていってしまいました。
しばらくの間はどうにかやってゆけそうに見えた。しかしある日、彼は壁によりかかってしまっている自分に気づいた。その日はあらゆる物体が、彼がどんなにおさえつけようとしても、戦いを挑んでくるのだった。彼が何かに手を触れると、それは床に転げ落ちるのだし、液体だったらこぼれてしまう。カラーの留め金は寝台の下にはいって見えなくなり、鉛筆の芯は折れ、剃刀の柄はとれ、窓のカーテンは途中でひっかかっておりて来ない。彼は反撃した。あまり必死になりすぎたくらいに。しかし目覚まし時計のねじが、彼にとどめを刺した。
彼は街へのがれ出た。しかしそこでは、無秩序はさらにひどかった。大勢の人間が乱雑きわまるいくつものグループになって、すばやく歩きまわっている。彼らは、星の形をも、正方形をも形づくっていない。(34~35ページ)
助けを求めるように《孤独な娘》はタクシーに乗って、恋人ベティの家を訪ねますが、調子外れでおかしな言動をしてベティを戸惑わせ、泣かせてしまいます。結局は、部屋から追い出されてしまいました。
興奮を抱えたままの《孤独な娘》は、以前触れなば落ちんという風情だったシュライクの妻メアリを思い出します。しかし、メアリとの逢引のため部屋に行くと、そこにはシュライクの姿もあったのでした。
メアリは「あの豚、何をしゃべってたの?」(62ページ)と夫のことを罵り《孤独な娘》とエル・ガウチョという踊れる店に行きます。愉快な一時を過ごしますが、彼は結局思いを遂げられませんでした。
やがて《孤独な娘》が男だと知っており、入り組んだ事情があるから直接会って話したいと手紙で書いて来たドイル夫人に電話して……。
病気で寝込んでいると、ベティが、スープを持って来てくれました。
「行くなよ、ベティ」
彼女はベッドの横に椅子を持って来て、黙って腰かけた。
「こないだのこと、済まなかった」と彼は言った、「やはり病気だったんだね」
彼女はその弁解を認めたわけだった。なぜなら、彼の弁解に手伝いまでしてくれたのだから。「《孤独な娘》なんて商売のせいよ。どうしてやめないの?」
「やめて、それから何をする?」
「広告取次店に勤めるとか、何か……」
「ベティ、君には判らないよ。やめるわけにはゆかない。それに、やめたって同じことなんだ。どんな商売をしていようが、手紙のことは頭にこびりついて離れないだろう」
「そうね、あたしには判らないのね」と彼女は言った。「だけど、あなたは馬鹿げたことをしてると思うわ」(87~88ページ)
ベティの熱心なすすめを受けて、《孤独な娘》はしばらくベティの田舎であるコネティカット州の農場へ行くこととなったのですが……。
はたして、悩み相談に苦しめられる《孤独な娘》が選んだ道とは!?
とまあそんなお話です。実際には手紙の内容も紹介されているのですが、なかなかに重い内容のものばかり。しかもどれも解決策が見当たらないんですね。他に行く道のない人生のどん底が語られています。
悩みごとを真剣に受け止め、自分の生き方を迷い始めた《孤独な娘》は憂鬱で悪夢的とも言えるグロテスクな生とどのように向き合うことにするのでしょうか。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日もアメリカ文学で、ウィラ・ギャザー『マイ・アントニーア』を紹介する予定です。