E・C・ベントリー『トレント最後の事件』 | 文学どうでしょう

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トレント最後の事件 (創元推理文庫)/東京創元社

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E・C・ベントリー(大久保康雄訳)『トレント最後の事件』(創元推理文庫)を読みました。残念ながら、現在は絶版のようです。

推理小説には「黄金時代」と呼ばれている時代があります。1920年代から1930年代にかけて、すごい作家が次々と現れたんです。

F・W・クロフツ『』(1920年)、アガサ・クリスティ『スタイルズ荘の怪事件』(1920年) 、S・S・ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』(1926年)、エラリー・クイーン『ローマ帽子の秘密』(1929年)等。

世界初の推理小説と言われるエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」(1841年)やコナン・ドイルが生み出した名探偵シャーロック・ホームズ(1887年~)などは、短編が中心の推理小説でした。

それに対して、「黄金時代」の作家が生み出した作品は、トリックが斬新なのは勿論、魅力的なストーリーが加わり、単に謎解きだけでは終わらない、物語としても面白い長編小説であることが大きな特徴。

今回紹介する『トレント最後の事件』というのは、1913年に発表された作品ですが、後に「黄金時代」の先駆けとして高く評価されるようになった作品です。短編から長編になる、過渡期の一冊ですね。

新しい要素が2点あって、まずはタブーと言われた恋愛を推理小説に組み込んでいること。なにしろ古い時代なのでラブストーリーだと思って読むとちょっと違いますけども、物語性豊かな作品と言えます。

そしてもう1点新しい要素があるのですが、こちらは伏せておきましょう。少しヒントを出しておくと、タイトルは”最後の事件”ですよね。デビュー作にして、”最後の事件”なんです。何故なのでしょう?

ミステリ好きであればあるほど唸らされるミステリになっているので、興味のある方は実際に読んでタイトルの意味を知ってください。

タイトルの「トレント」の方は、探偵役のフィリップ・トレントのことです。本業は画家のイギリス人。洞察力に優れていて、難事件をいくつか解決したことから、名探偵として知られるようになりました。

画家としての才能があるのは勿論、父も有名な画家なので苦労することなく売れることが出来たのです。明るい人柄で慕われていました。

活気にあふれ、いきいきとしたユーモアに富んだ軽妙な精神の持ち主は、いかなる時代でも、人気があるものだ。しかもトレントは、他人に対する理解と思いやりに深い関心をもちつづけていたから、単なる人気以上のものを一身にあつめることができた。彼は、他人の心の底の底までを見抜く目をもっていたが、決してそれを外にあらわさず、ひとりで楽しんでいるだけなので、他人も気まずい思いをさせずにすんだ。やたらにしゃれをとばしているときでも、仕事に全身をうちこんでいるときでも、彼の心の明るさを示す陽気な表情を、決して崩さなかった。美術や美術史に関する造詣の深さとは別に、彼の教養は多方面にわたり、とくに詩に対しては、かぎりない愛好心をいだいていた。三十二歳になったいまも、冒険と笑いの世代を脱していなかった。(50ページ)


そんなトレントは知り合いの新聞社の主筆ジェームズ・モロイ卿にある殺人事件の捜査を依頼されるのですが、思いがけないことが起こりました。殺人事件の関係者にトレントは心惹かれてしまったのです。

その関係者とは被害者ジグズビー・マンダースンの妻であるメイベル・マンダースン。若くて美しいメイベルに愛する心を持ってしまったが故に、トレントは自分の推理に苦しめられることとなり・・・。

古典的作品でありながら、今なお新しさのある推理小説の名作です。

作品のあらすじ


一人の男の死が、ウォール街に恐慌を引き起こしました。その男が手を打つだろうという予測がされており、安定すると思われていたいくつかの会社の株が大暴落したからです。経済は大混乱となりました。

その男の名前はシグズビー・マンダースン。「巨人」と呼ばれ、現代のナポレオンとも讃えられるアメリカ財界に君臨していた大物です。

《レコード》新聞社の主筆であるジェームズ・モロイ卿は、どうやらマンダースンは殺されたらしいと知り、ずば抜けた推理力を持つ画家のフィリップ・トレントに電話して事件の捜査を依頼したのでした。

絵を描くことに気持ちが乗っていたので、気が進まない様子でやって来たトレントは、親しい間柄のナザニエル・バートン・カプルズ氏と偶然会いました。カプルズ氏から事件について色々な話を聞きます。

それと言うのも、カプルズ氏の亡くなった奥さんの兄の娘、つまり姪にあたるのが、殺されたマンダースンの妻メイベルだったから。カプルズ氏は、マンダースン夫婦はうまくいっていなかったと言います。

誰一人マンダースンの死を悲しんでいないのを不思議がるトレントにカプルズ氏は「実際、マンダースンを好きな人間なんて、世の中に一人もいなかったんじゃないかね」(39ページ)と言ったのでした。

トレントは、警察と協力しながら、マンダースンが殺されていた現場を調べ、秘書や使用人たちから証言を集めていきます。状況的には自殺のように見えますが、トレントは、腑に落ちない点を指摘します。

「ぼくが調べた限りでは、あらゆる事実が自殺説を否定するものばかりだった。まず、もちろん凶器が発見されていないことだ。死体のあった場所には、すくなくとも彼が投げてとどく範囲内には、ピストルなんか落ちていなかった――ぼくも探してみたのだがね。第二は、手首の傷だ。新しいひっかき傷やあざ――あれは誰かと格闘したときについた傷だと考えるしかないだろう。第三に、自分の目を射って自殺したなんて話は聞いたこともない。それから、ホテルの支配人に聞いた話だが――それは、この事件でもっとも奇怪な事実なのだ。いいかね、マンダースンは、外へ出る前に、すっかり身なりをととのえているのに、義歯をはめるのを忘れていたというんだ。自分の死体が発見されたとき見苦しくないようにと気をくばって身なりをととのえて自殺するような男が、歯を忘れるなんてことがありうるかね?」(61~62ページ)


やがて、トレントは美しい女性と出会います。岩棚の上に両腕で膝をだくような姿勢で座り、沖を行く汽船の煙を眺めていた一人の婦人。

「画家として、視覚によって生きることを学んできたトレントの目には、その婦人の姿が、かつて見たことがないほど美しい一幅の絵とうつった」(118ページ)のでした。心奪われてしまったトレント。

 その黒衣の婦人を見て、一瞬はっとして足をとめたトレントは、すぐその女の頭上の崖ぷちの道を歩み去りながら、心にやきつけられたその印象を思いかえし、反芻しはじめた。いかなる場合でも、トレントの鋭い目と俊敏な頭脳は、反応の鈍い人間には信じられないほどの速さで対象をとらえ、その細部まで一瞬に味わいつくしてしまった。彼にいわせれば、ものをよく見つめなければわからないようなのは、盲目の証拠なのだ。いま彼の美的感覚はめざめ、歓声をあげ、理知の力を倍加していた。いまこの瞬間に、彼の記憶の画面には、終生消えることのない映像が、はっきりとしるされたのであった。(119~120ページ)


トレントはすぐに気が付いて妙に暗い気持ちになりました。自分が心奪われた女性こそマンダースン夫人のメイベルに違いなかったから。

ぎくしゃくしていたというマンダースン夫妻の関係、生前のマンダースンの不可解な行動、そして、屋敷に残されていた数々の証拠から、トレントは、自分が望まない推理の結論を導き出してしまいました。

トレントは、自分の推理が正しいかどうかを確かめるために、マンダースン夫人と面会して、自分の推理が正しかったことを確信します。

そして、発表するもしないもあなた次第だと言い残し、あらかじめ書いておいた事件の真相の記事を置いて、トレントは去ったのでした。

事件の報酬を新聞社に送り返し、絵を描く気にもなれないトレントはクアランドとリヴォエアの暴動を取材する旅に出ます。マンダースン夫人のことが忘れられず、自分の推理に苦しめられ続けるトレント。

忘れようと思いつつ「突如としてすさまじい勢いでわきおこってくるその感情の狂気的な激烈さと、狂おしいまでのやるせなさ」(188ページ)に身を焦がされて、半年ほど、取材の旅を続けたのでした。

再び絵を描き始めるために、パリに渡ったトレントは、マンダースン殺人事件に関連する、思わぬニュースを耳にします。それは、かつてトレントが導き出した推理の結論を覆す可能性のある知らせでした。

トレントはマンダースン夫人に会うためにロンドンへ向かい・・・。

はたして、トレントは殺人事件の真相を突き止められるのか!?

とまあそんなお話です。物語の半分ぐらいで、完璧な推理でマンダースン殺しの犯人が指摘されてしまうので、この後どうなるんだよと思っていたら、そこからがまさかの展開で、面白くなっていきました。

名探偵であり、明るくて無邪気な芸術家トレントが、許されぬ恋に苦しめられて旅に出るも、なににも心躍らないむなしい日々を過ごすという物語は、ミステリにしては今なお新鮮で、引き込まれますよね。

推理小説「黄金時代」の先駆けと言われ、知る人ぞ知る古典的名作のミステリなので、興味を持った方は読んでみてはいかがでしょうか。

明日はジョン・ディクスン・カー『帽子収集狂事件』を紹介します。