ジョン・ディクスン・カー『帽子収集狂事件』 | 文学どうでしょう

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帽子収集狂事件【新訳版】 (創元推理文庫)/東京創元社

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ジョン・ディクスン・カー(三角和代訳)『帽子収集狂事件』(創元推理文庫)を読みました。

”密室の巨匠”として知られるディクスン・カーには、名探偵のシリーズがいくつかあるのですが、今回紹介する『帽子収集狂事件』は『魔女の隠れ家』に続く、ギディオン・フェル博士シリーズ第二作です。

黒いマントの下には太鼓腹、眼鏡の下には山賊ふうの口髭があり、笑うとあごの肉がぶるぶる震えるフェル博士。サンタクロースか、イギリス童謡に登場する音楽好きのコール老王を連想させる明るい人物。

お酒が大好きで会ったとたんに相手の緊張を解いてしまえるフェル博士は、いざ殺人事件となるとずば抜けた推理力を発揮するのでした。

海外古典ミステリ作家にしては珍しく、最近でもコンスタントに新訳が出ているディクスン・カー。『帽子収集狂事件』も元々は1933年に発表された作品なのですが、2011年にこの新訳が出ました。

新訳が出ることで、過去の名作に新たなスポットがあたるのはいいことですね。創元推理文庫は活字が小さいものが多いですが、この本は新しいだけあって、大きな活字で組まれているので読みやすいです。

フェル博士シリーズの中でも、よく知られているのがこの『帽子収集狂事件』なのですが、とにかく設定がユニークなミステリな上に、殺人事件自体がどこか派手な感じがあるので、すごく面白かったです。

ユニークな設定というのはですね、ロンドンが舞台の物語なのですが、なんとも不思議な事件が多発していたのです。フェル博士が酒場でお酒を飲んでいると支配人がなんだか妙なことを言い出しました。

「さしでがましいようですが、お客様」男は言った。「一言よろしいでしょうか? わたくしならば、こちらの帽子から目を離しません」
 博士は男を一瞬見つめ、ビール・グラスを口元へ運ぶ手を途中で止めた。快活で楽しげな表情が赤ら顔を彩ってきた。
「ぜひとも握手を」博士は熱心に頼んだ。「していただけるかね。健全な分別と判断力を備えた人とお見受けする。うちの家内にも、そのあたりを言い含めてほしいものだよ。なるほど、これは上等の帽子だ。けれども、普段より注意を払うべき理由などあるのかな?」
 男の顔は紅潮してきて、硬い態度でこう言った。「おじゃまをするつもりはございませんでした。ご存じかと思っておりまして。なんと申しますか、この近辺では不埒なおこないが続いておりますから、うちの常連様にご迷惑が及ぶことはなんとしてでも避けたかったのです。そちらの帽子は――ええい!」支配人は感情を爆発させ、率直になって一気にしゃべり始めた。
「それは目立ちすぎます。奴が見逃すはずがない。帽子屋がきっと盗もうとする」
「誰と言ったね?」
「帽子屋ですよ、お客様。いかれ帽子屋です」

(18~19ページ、本文では「いかれ帽子屋」に「マッド・ハッター」のルビ)


「いかれ帽子屋」は勿論ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』でウサギと一緒に目茶苦茶なティーパーティーを開いていた人物。

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ただ、この場合はまた違った意味を持っていて、なんとロンドンではここの所、帽子が盗まれる事件が多発していたのです。そこで、その犯人のことを面白おかしく《いかれ帽子屋》と呼んでいたのでした。

やがて、奇妙な殺人事件が起こります。ロンドン塔の逆賊門の階段で、クロスボウで射抜かれた死体が見つかったのでした。盗まれた帽子をかぶせられていた被害者は《いかれ帽子屋》を追っていた記者。

記者は何故殺されたのでしょうか。フェル博士は警察と協力しながら《いかれ帽子屋》の正体を探り殺人事件の真相に挑んでいき・・・。

《いかれ帽子屋》、ロンドン塔を舞台にしたクロスボウの殺人というだけでも面白い設定なのに、そこにエドガー・アラン・ポーの幻の原稿をめぐる話が加わります。文学好きにはたまらない名作ミステリ。

作品のあらすじ


スコットランド・ヤード犯罪捜査部(CID)のデイヴィッド・ハドリーと、アメリカ人青年のタッド・ランポールは、ピカデリー・サーカスの中心にあるバー《スコッツ》で、ある人物を待っていました。

その人物とは、ずば抜けた推理力で知られるギディオン・フェル博士。ハドリーは友人から相談事を受けたのですが、警察よりもフェル博士に頼んだ方がよさそうだと思い、来てもらうことにしたのです。

ランポールは、以前フェル博士と一緒に難事件に立ち向かった間柄。

ようやくフェル博士が大きな体を揺らしながらやって来て、2人との再会を祝していると、サー・ウィリアム・ビットンもやって来ました。ハドリーの友人で、今回の相談事を持ち込んで来た張本人です。

サー・ウィリアムは最近ロンドンを騒がしている《いかれ帽子屋》に土曜日と今日の午後に帽子を盗まれたことで、腹を立てていました。

政治家をしていたサー・ウィリアムは、引退してからは、古書を集めることを何よりの楽しみとしています。掘り出し物がないかと、エドガー・アラン・ポオが暮らしていたことのある家を訪ねた時のこと。

家の中では職人たちが何やら作業をしていたのですが、食器棚を外し、壁に残った木枠を叩いて崩していると、木枠の継ぎ目から三つ折りの薄い紙の束が出て来たのでした。早速それを買い取ったのです。

二束三文で買い取ったその原稿は、とても貴重なものだったのですが、なんと部屋の机の引き出しから盗み出されてしまったのでした。

奪われた原稿の行方を探してほしいとサー・ウィリアムは友人のハドリーに頼み、ハドリーはフェル博士の力を借りようとしたわけです。

原稿について話していると、バーに電話がかかって来て、思いがけないショッキングな知らせがもたらされました。サー・ウィリアムの甥のフィリップ・C・ドリスコルが、何者かに殺されたというのです。

フリーランスの記者で、《いかれ帽子屋》を追っていたドリスコルは、ロンドン塔の下でクロスボウの矢で射抜かれて死んでおり、その頭には盗まれたサー・ウィリアムの帽子が被せられていたのでした。

ドリスコルが、《いかれ帽子屋》の一体何を突き止めて命を落としたのか手掛かりがないか、フェル博士や遺体の発見者であるメイスン将軍らが調べていると、ハドリーが黒革のルーズリーフを見つけます。

 ノートをひらくと、最初のページに少しだけ走り書きされた文字に視線を走らせたが、ヤケになって机を叩いた。
「これを聞いてくださいよ! なんらかのメモです。言葉がダッシュでつないである。どうやら、ドリスコルの筆跡だ。
 ”最適の場所?――塔?――帽子を追跡――残念なトラファルガー――刺せない!――10――木――垣根やバッジ――見つけ出すこと”」
 沈黙が広がった。
「でも、それじゃまったく意味がわからんじゃないか!」メイスン将軍が過剰なほどに反論した。「なんの意味もない。いや、なにか意味はあるのだろうが――」
「あるのでしょうが、途中の言葉を抜かしていますね」ハドリーが続きを引きとった。「わたしは自分でもこうやってメモを取ることがよくあります。もっとも、途中の言葉があっても、この文章の意味をくみとるには暗号解読の専門家が必要になりそうです。とにかく、われらが帽子男を追うヒントを指してはいるようですね。どんなヒントかはわかりませんが」(133ページ)


ハドリー、フェル博士らはドリスコルの当日の行動を洗い出すために、ロンドン塔に来ていた見学者たち、そしてドリスコルの親戚や友人らから証言を集めていきます。すると思わぬことが分かりました。

凶器として使われたのは、サー・ウィリアムの弟夫婦がフランスのカルカソンヌに旅行に行った時に買ってきたおみやげの品だったのです。弓矢は鋭く研がれ文字は一部がやすりで削りとられていました。

一時三十分に逆賊門前の柵で衛兵に目撃されてから、死亡推定時刻までに二十分ほどありますが、その間には門の前には誰もいなかったという証言もあり、ドリスコルが何をしていたかは分かっていません。

しかし、その証言をしたジュリアス・アーバーは古書収集家で、どうやらサー・ウィリアムズが所持していた、ポオの幻の原稿のことを知っていたようでした。なにやら隠し事をしているようでもあります。

鋭い観察力で、他の誰もが気が付かなかった思いがけない真実を次々と暴いていったフェル博士。そのフェル博士が、ずっと気にしているのは、ドリスコルに被せられていた、帽子の大きさのことで・・・。

はたして、フェル博士は《いかれ帽子屋》の正体を突き止め、ドリスコル殺しの犯人を捕まえることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。物語に登場するエドガー・アラン・ポーの幻の原稿は、世界初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」以前に書かれ、現存するデュパンものの三作を凌ぐと言われる短編なんです。

つまり、それが世に出れば推理小説の歴史がひっくり返るわけで、しかも生原稿ですから、その価値はもう計り知れないわけですね。殺人事件もそうですが、原稿を誰が盗んだかの謎からも目が離せません。

帽子の盗難事件が頻発するロンドンで起こった、不可解なクロスボウによる殺人事件。謎に挑むのは、笑うとぶるぶる震えるあごの下の肉を持つフェル博士。設定がユニークな海外古典ミステリの名作です。

興味を持った方はぜひ読んでみてください。おすすめの一冊です。

明日は、マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー『笑う警官』を紹介します。