堀辰雄『かげろふの日記・曠野』 | 文学どうでしょう

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堀辰雄『かげろふの日記・曠野』(新潮文庫)を読みました。

「6夜連続、ジブリ映画『風立ちぬ』公開記念、堀辰雄特集」もいよいよ最終夜。平安時代の古典を元にした王朝小説集を紹介します。

みなさんは、「蜻蛉日記」や「更級日記」をご存知ですか。国語の時間で習ったりして、タイトルは知っているという方も多いでしょう。

どちらも平安時代の日記文学で、「蜻蛉日記」の作者とされる藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)は、「更級日記」の作者とされる菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の伯母にあたります。

それぞれ本当の名前が何だったかは伝わっていないので、有名な親族、子供や父親の名前をつけて呼ばれています。

日記文学と聞くといかにも退屈そうで、小説好きの方はあまり興味を引かれないと思うのですが、読んでみるとこれが結構面白いんです。

日記というとみなさん「〇月×日こんなことがあった」という形式をイメージされると思いますが、そうした一日一日あったことを書き記していくものではなく、心に残っていることを後から書いたもの。

無駄な情報は自然とカットされているわけですし、”現在”という客観的な視点を持ちつつ、当時の出来事を再構成していくわけですから、言わば、日記よりも「私小説」に近いスタイルなんですね。

そうした物語的な日記文学の中で、特に面白いのが「蜻蛉日記」。自分と息子のことを大切に思わず、他の女と関係を持ち続ける夫に苦しめられ続け、夫への愛憎入り混じる感情が吐露されています。

もうどろどろの世界なんです。読んでいるだけで気がめいりますが、読み進める内にそうしたどろどろな感じが何故か病みつきになって来る感じがあります。とにかくインパクトの強い、おすすめの作品。

一方の「更級日記」は、物語的な面白さはあまりないのですが、堀辰雄とゆかりが深い古典文学で、「更級」というのは信濃国の地名なんですね。「信濃」と言えば現在の長野県で、軽井沢がある所。

時代は違えど、信濃にゆかりがあり、とにかく読書が好きな「更級日記」の書き手に、堀辰雄は強く共感する部分があったのでしょう。

一口に平安時代の古典と言っても、物語や随筆もありますから、何故堀辰雄があえて日記文学に関心を持ったのかは非常に興味深い点なのですが、そうした”共感”というのが最も重要だろうと思います。

平安時代は医療技術が発達していない時代ですから、日記の書き手の周りの人は多く亡くなりますし、特に「蜻蛉日記」の書き手がそうですが、常に死や或いは出家のことが頭の片隅にあるのが特徴的です。

随筆集『大和路・信濃路』を紹介した時に書きましたが、堀辰雄は西洋の詩ではレクイエム(死者のためのミサ曲)、日本の和歌では『万葉集』の「挽歌」(死者を哀悼する歌)に心惹かれていましたね。

考えてみればサナトリウム(結核の療養所)に入った経験を持ち、誰よりも死を身近に感じていた堀辰雄が、平安時代の人々の死生観が色濃く反映された日記文学に関心を寄せないわけがないのでした。

今回紹介する『かげろふの日記・曠野』は、「蜻蛉日記」を元にした「かげろふの日記」とその続編の「ほととぎす」、「更級日記」を元にした「姨捨」が収録された王朝小説集になっています。

忠実な口語訳ではありませんが、原文の雰囲気を大切にしながら、堀辰雄のアレンジが加えられ、小説として再構成されています。原文に比べれば読みやすいので、古典の入門にもよいと思いますよ。

また、随筆集『大和路・信濃路』に収録されている「姥捨記」には「かげろふの日記」「ほととぎす」「姥捨」の創作秘話が書かれているので、関心のある方は、ぜひあわせて読んでみてください。

作品のあらすじ


『かげろふの日記・曠野』には、「七つの手紙」「かげろふの日記」「ほととぎす」「姨捨」「曠野」の5編が収録されています。

「七つの手紙」

追分や軽井沢に滞在中の堀辰雄が、読んでいる本や、現在取り掛かっている仕事のことなどについて、ある女友達に送った手紙です。

自分が手を加えることによって日記文学の独自性が失われないよう苦心しながら、『蜻蛉日記』の小説化を試みていると綴られています。

――ところで、この「蜻蛉日記」に於いては、作者はその折々の苛ら苛らした気もちをその折々の気もちのままに構わずに誇張し、その前後の記事などに少し辻褄の合わない事があっても一向意に介さない、――言って見れば、この日記の作者はすべてを論理的秩序(logical order)によっては書かずに、心理的秩序(psychological order)によってのみ書いている、――其処にやはりこの日記独自のちゃんとした統一がおのずからあって、それをも生かそうとすると、もはや私の手を入れる余地なんぞは何処にもない位なのです。

(14ページ、本文では「論理的秩序」「心理的秩序」に傍点)


それでも、この仕事に夢中になっている内に、女主人公がものになり出したように思えてきたと続けられていて・・・。

「かげろふの日記」

柏木と呼ばれていたあの方が〈私〉の元に通って来るようになり、2人の間には後の道綱である、かわいい男の子も産まれました。

しかしある時、あの方が忘れて行った手箱の中に、どこかの女のもとへ送るつもりだったらしい文を見つけてしまいます。そうして、月日が流れる内に、次第にあの方の足は遠のいてしまったのでした。

自分のみじめな境遇を考えるにつけ、いっそ死んでしまいたいと思うようになった〈私〉でしたが、一人残される幼い道綱を思うと、自分はまだ死ぬことも出家することも出来ないと思うのです。

「お前が早く成人して、安心の往けるような妻などに預けてしまえたら、どんなに好いだろうに。いま、わたしが死んだら、どんな思いをしてお前が一人でさすらう事だろうと思えば、ほんとうに死ぬのも死ににくい。まあ、形でもかえて、世を離れたらと思うのだけれど――」と私が独語でも言うように言っていると、まだ深くは何もわからぬらしいが、あの子も悲しそうに「そうおなりになったら、まろも法師になりとうございます。この世に交わっておりましても、何になるでしょう」と言いながら、目に涙を一ぱい溜めている。私はそれを見ると、やっと気を取りなおしながら、いまの話を常談にしてしまおうとして、「そうなって鷹も飼えなくなられたら、どうしますか」と言うと、道綱はいきなり立ち上って往って、自分の飼っていた鷹を籠から出して矢のように放してしまった。それを傍で見ていたもので泣き出さないものはなかった。
(41~42ページ)


あの方が新しい女の元へ通っていると耳にした〈私〉はあの方が訪ねて来ても口も利かず、相手にしません。数日経って、裁縫の仕事を頼まれた時も、〈私〉はそのままつっかえしてしまったのでした。

それからしばらく経って、屋敷の者たちが「殿がいらしったようだ」(49ページ)と騒いでいるので、〈私〉も心をときめかせていると、あの方の車はそのまま屋敷の前を通り過ぎていって・・・。

「ほととぎす」

女の子がもう一人ぐらいほしいと長年思っていた〈私〉でしたが、だんだんとそう願うのも空しい年齢にさしかかってしまいました。

そうした〈私〉の気持ちを知っていた年配の女房が、殿が以前通っていた女の所に美しい女の子がいるそうだから、その女の子を引き取って育てたらどうかと言ってくれました。

殿に忘れ去られてみじめに暮らしている母娘を憐れに思ったこともあり、〈私〉は12、3歳にしては幼い様子もあるその女の子を引き取ります。殿の前では誰の子かと問われてもとぼけて見せました。

「さあ、その御子様かも知れませんが……」
 殿は、そういう私には構わず、一層しげしげとその少女を見入られていた。「やはりあいつらしい。――だが、あいつがこんなに大きくなっていようなどとは夢にも思わなかった事だ。いまごろ何処をうらぶれていることだろうかと、ときおり急に気になり出すと、もう矢も楯もたまらない位だったが……」そう云う御声はだんだん震え出してさえいられた。
 少女はそこに泣き伏していた。それを見ていた側近の者共も、そんな物語にでも出て来そうな奇しい邂逅には泣かされない者はいないらしかった。――そういう裡でも、私だけは、まるで涙ももう涸れてしまったとでも云うように、そしてそんな自分自身をも冷ややかに笑っているより外はないかのように見えた。(82ページ)


やがて、撫子(なでしこ)とも呼ばれるようになったその少女も成長し、どこで噂を聞きつけたのか、右馬頭(うまのかみ)という求婚者が足繁くやって来るようになったのですが・・・。

「姨捨」

父が上総の守だった関係で、地方に暮らしていた少女は、13歳の時に京に戻って来ました。疫病が流行し、周りの人が亡くなって悲しみますが、その悲しみがより一層少女の物語への関心をそそります。

 が、そういう云いしれぬ悲しみは、却って少女の心に物語の哀れを一層染み入らせるような事になった。少女はもっと物語が見られるようにと母を責め立てていた。それだけに、その頃田舎から上って来た一人のおばが、源氏の五十余巻を、箱入のまま、他の物語なども添えて、贈ってよこしてくれたときの少女の喜びようというものは、言葉には尽せなかった。少女は昼はひねもす、夜は目の醒めているかぎり、ともし火を近くともして几帳のうちに打ち臥しながら、そればかりを読みつづけていた。(124ページ)


少女は、『源氏物語』の中で、特に夕顔(光源氏が出会った謎めいた女君)と浮舟(光源氏の死後の時代を描く「宇治十条」のヒロイン的存在で、2人の男性の間で揺れる)に憧れるようになりました。

夕顔も浮舟もそれほど身分が髙くない女君なこともあって、自分にも同じような幸せが訪れないかと期待に胸を膨らませて・・・。

「曠野」

西の京の六条のほとり、中務大輔なにがしの家には、美しい娘がいました。その女の所へ、ある兵衛佐が通うようになります。仲睦まじく過ごす2人でしたが、女の両親が相次いで亡くなってしまいました。

女の家はどんどん貧しくなっていき、男の宮仕えのための支度も整えられないようになっていきます。ついに女は愛する夫に、自分から離れて、後ろ盾のしっかりした他の女を探すように言ったのでした。

「ときどきわたくしのことが可哀そうにお思いになりましたなら――」女は切なげに返事をした。「余所へいらしっていても、その折にはどうぞいつでもいらっして下さいませ。どうしていまのままでは、見苦しい思いをなさらずに宮仕などがお出来になれましょう」
 男はしばらく目をつぶって聞いていた。それから急に男は女のほうへ目を上げ、素気ないほどきっぱりと言った。
「この己にこのままおまえを置きざりにして往かれると思うのか」(142~143ページ)


決して離れないことを誓った2人でしたが、いよいよ2人の生活はどうしようもなくなっていき、男は出世をして迎えに来ることを約束し、それきり姿を見せなくなって・・・。

とまあそんな5編が収録されています。「曠野」は、男が他の女の所へ通うようになるというシチュエーションとしては、『伊勢物語』の「筒井筒」や『雨月物語』の「浅茅が宿」との類似があります。

しかし、その後の展開が独特なのが印象的でした。かなり引き込まれる、不思議な余韻の残る作品です。日本の古典に題材を求めながら、西洋の文学のテーマを描こうとしている感じもありますね。

日本の古典、特に日記文学は今ではあまり読まれないので、こうした作品をきっかけに、もっと読まれるようになるといいと思います。

最近は分かりやすい入門書や解説書がたくさんありますから、そうした「蜻蛉日記」や「更級日記」に関する本と一緒に読むと、より楽しめること請け合いです。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

これにて「6夜連続、ジブリ映画『風立ちぬ』公開記念、堀辰雄特集」も無事終了です。いかがだったでしょうか。本の売り上げもあがり、じわじわ堀辰雄ブームが来ているようなので、この機会にぜひ。

明日と明後日はフランス劇作家、ボーマルシェの作品を特集します。明日は『セヴィラの理髪師』、明後日は『フィガロの結婚』を紹介する予定ですので、オペラ好きの方はお楽しみに。