遠藤周作『深い河 ディープ・リバー』 | 文学どうでしょう

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深い河 (講談社文庫)/講談社

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遠藤周作『深い河 ディープ・リバー』(講談社文庫)を読みました。

旅を題材にした物語で、昨日紹介した宮本輝の『ドナウの旅人』と並んでとりわけ印象に残っているのが、遠藤周作の『深い河』でした。

『深い河』は、1993年に書き下ろしとして発表された遠藤周作70歳の時の作品。日本人とキリスト教の関係を描き続けた遠藤周作の集大成として、今なお愛され続けている作品ではないでしょうか。

『深い河』の舞台となっているのはインドのガンジス河。それぞれの思いを抱えながら仏跡訪問ツアーに参加した人々を描いた物語です。

ガンジス河は、みなさんもなんとなくのイメージはお持ちだと思いますが、かなり濁っていて綺麗な河ではないようです。それでもそこはインドの人々にとって聖なる河であり、沐浴をする場所なんですね。

インドへの留学経験を持つツアーガイドの江波は、ヒンズー教を馬鹿にするような参加者三條の無神経な質問に、怒りを露わにしました。

「川はきれいなんですか」
 と誰かが質問をした。自分の存在を示すための三條の高い声だった。
「日本人から見ると、お世辞にも清流とはいえません。ガンガーは黄色っぽいし、ジャムナー河は灰色だし、その水が混ざりあってミルク紅茶のような色になります。しかし、奇麗なことと聖なることは、この国では違うんです。河は印度人には聖なんです。だから沐浴するんです」
(中略)
「今の時代に輪廻や転生なんかを、信じているんですか」と三條は聞こえよがしに、「本気なのかしらん、印度の人たちは」
(中略)
「本気でなければ、何十万の人がこの河原に集まるもんですか。今から皆さんの到着するヴァーラーナスィでは毎日、死体を灰にして流したガンジス河で、体を浸し、口をそそいでいる人たちを、あまた御覧になるでしょう」(174~175ページ)


死体が灰になって流れる綺麗ではない河でありながら、人々が沐浴をする聖なる河であるガンジス河。まさに生と死が入り混じる”混沌”がそこにあります。その”混沌”こそが、この作品のテーマなのです。

なにが正しいことで、なにが罪なことなのか、法律はそれを実務的に判断し、宗教はそれを倫理的な問題として人々の心に訴えかけます。

法律や宗教の考え方で、スパッと割り切れる問題もあるでしょう。しかし、やはり割り切れない問題というのもたくさんあるわけですね。

この物語の仏跡訪問ツアーに参加した人々はそれぞれ、そうした法律や宗教で割り切れない、“混沌”とした気持ちを抱えているのでした。

妻を癌で亡くした磯辺は妻の転生があるかないかで迷い、誰かを心から愛することの出来ない美津子は、大津という男の行方を探します。

九官鳥が自分の身代わりになって死んでくれたと思う童話作家の沼田は、恩返しがしたいと思い、生きるか死ぬか極限状況で人肉を口にしてしまった戦友を持つ木口は、戦友たちを弔いたいと思うのでした。

「転生」や「身代わり」は本当にあるのかどうか、生きるか死ぬかの極限状況でも人肉は決して口にしてはならないものなのか、神様や、愛を信じられなかったら、どのように生きていけばよいのか――。

ツアーの参加者が抱える悩みは、簡単に解決が出来る問題ではありませんよね。参加者たちは、言わば”混沌”そのものであるガンジス河を前にして、どのようなことを考えるようになっていくのでしょうか。

ツアーの参加者ではありませんが、美津子が探している大津が、ある意味では、この物語でもっとも重要な人物と言えるかも知れません。

幼い頃からのキリスト教徒である大津は、若き日の美津子のいたずらな誘惑にもめげず神父の道を目指します。ところが大津のキリスト教観は異端的であるとして、神父の道は閉ざされてしまったのでした。

そうしてどうやらインドに流れ着いたようなのですが、一体大津がどんなことを考えてインドに渡り、そこでどんな生活をしているのか、それが孤独に生きる美津子が、どうしても知りたいことなのです。

参加者それぞれが抱えている問題が違うため、なにか一つのメッセージで貫かれているのではなく、まさに”混沌”そのものを描いたような物語。読む人すべての心をとらえ、感動させる名作だと思います。

作品のあらすじ


磯辺が医者から、癌におかされた妻の余命が残りわずかだと知らされた時、診療室の外ではやき芋屋が、間のびした声を上げていました。

痛みに苦しんでいた妻が、特別な点滴で体が楽になったと喜んでいるのを見て、ついにモルヒネを使い始めたのだなと磯辺は気付きます。

看護師の他に、若い時に離婚したという成瀬という女性が、土曜の午後にボランティアで看護に来てくれていましたが、妻の病状は次第に悪くなっていき、ついに最後の時を迎えることとなったのでした。

「俺だ、俺。わかるか」
 磯辺は妻の口に耳を近かづけた。息たえだえの声が必死に、途切れ途切れに何か言っている。
「わたくし……必ず……生れかわるから、この世界の何処かに。探して……わたくしを見つけて……約束よ、約束よ」
 約束よ、約束よという最後の声だけは妻の必死の願望をこめたのか、他の言葉より強かった。(26ページ)


人間が生まれ変わるということを信じていいのか分かりませんが、古風な生き方しか出来ず、妻へちゃんとした愛情を示すことが出来なかった後悔がある磯辺は、転生した妻の行方を探し始めたのでした。

インドにそれらしき子供がいるということで、仏跡訪問ツアーに参加した磯辺は、そこで偶然成瀬と再会します。成瀬美津子もまた、色々と複雑な思いを抱えながら、インドへ向かおうとしていたのです。

美津子は大学の仏文科にいた頃、遊び仲間の中で、「モイラ」というあだ名で呼ばれていました。授業でテキストとして使われていたジュリアン・グリーンの小説『モイラ』の女主人公に由来するあだ名。

自分の家に下宿していた清教徒の学生を誘惑したモイラのように、美津子が後輩たちにけしかけられて誘惑することにしたのは、大津というさえない学生でした。大津は熱心なクリスチャンだったのです。

遊びの席に誘ってお酒を無理やり飲ませ、大津を吐かせてしまった翌日、美津子は大津に、キリスト教を捨てるように言ったのでした。

「ごめんなさいね、昨日は。あなたがお酒に弱いと思わなかったんだもの」
「すみません。折角、誘ってくれたのに……」と大津は意外にも頭をさげた。「ぼく、いつもこうです。一所懸命、溶けこもうとしているんだけど結局は失敗し皆を白けさせてしまう」
 大津の人のよさに憐れみと軽蔑とを感じてそばに腰をおろした。そして彼を覗きこむように顔を近づけ囁いた。
「友だちができる方法があるわよ」
「はい」
「簡単よ。そんなサージの学生服着ないの。夕方にクルトム・ハイムに行って跪いてお祈りなんかしないの。あなたのお母さまは信じてていたかもしれないけど、あなたはあんなもの信じないの」
(68~69ページ)


胸の愛撫までは許して大津を誘惑し、信仰を捨てさせた美津子は、「あなたも充分、楽しんだんだから。こういうこと、そろそろ終りにしない」(82ページ)とあっさり大津を捨ててしまったのでした。

数年の月日が流れ、結婚相手の条件としては理想的ながら、ごく平凡な男性と結婚した美津子は、大津のことなどすっかり忘れていましたが、ひょんなことから、大津が神父の道を進んでいると知ります。

そこで新婚旅行でフランスのパリを訪れた時、夫を友達とでかけさせた後、自分は、はるばるリヨンまで大津に会いに行ったのでした。

捨てられて改めて神に近付いたと言う大津は、美津子が嫌がると「その言葉が嫌なら、他の名に変えてもいいんです。トマトでもいい、玉ねぎでもいい」(103ページ)と神を玉ねぎに言い換えます。

神の概念を広くとらえ「善のなかにも悪がひそみ、悪のなかにも良いことが潜在している」(106ページ)と思う大津の信仰は西洋人たちの信仰と少しずれているため、周りから煙たがられてもいます。

 この男と結婚していれば、幸福だったろうか、それとも矢野以上に退屈だったろうか、と美津子は思う。
「それに、ぼくは玉ねぎを信頼しています。信仰じゃないんです」
「あなたは……破門にならないの」と彼女はからかった。「今でも破門ってあるんでしょ」
「修道会からは、ぼくには異端的な傾向があると言われますが、まだ追い出されません。でもぼくは自分に嘘をつくことができないし、やがて日本に戻ったら……」彼はしゃぶるようにスプーンを口に入れた。「日本人の心にあう基督教を考えたいんです」
(107ページ)


誰と一緒にいても幸福を感じず、愛を信じられず、やがて離婚を経験した美津子の心には「玉ねぎとは無限のやさしさと愛の塊り」(110ページ)だと信じる大津が強い印象で残っていたのでした。

大津がインドにいるらしいという噂を聞いて、美津子は大津に会おうとするかどうかを決めないまま、インドへ向かうことを決めます。

ツアーの他の参加者たちも、みなそれぞれの事情を抱えていました。

肺の病気で、長い期間の入院を余儀なくされた童話作家の沼田は、一か八かの手術の時に、まるで自分の身代わりのように死んだ九官鳥のことが忘れられず、何らかの形で恩返しがしたいと思っています。

戦争中はビルマで戦い、人肉を食べてしまったことを生涯苦しみ続けた戦友を持つ木口は、インドで、敵味方の法要を行うつもりでした。

磯辺、美津子、沼田、木口、現代的な考えから何事も批判的な目で見る新婚旅行の三條夫妻などの参加者を含む仏跡訪問ツアーは、インドでの4年間の留学経験を持つ、江波のガイドで進んでいきます。

ところが木口が原因不明の熱病で倒れ、インドの首相であるインディラ・ガンジーが暗殺されたことで、現地の情勢が急変して・・・。

はたして、旅人たちは、それぞれが望むものを手に出来るのか!?

とまあそんなお話です。一神教の神を信じられる西洋人のキリスト教観と、八百万の神に馴染み深い日本人のキリスト教観の違いというのは、遠藤周作の作品でテーマになることが多い、大きな問題です。

「善のなかにも悪がひそみ、悪のなかにも良いことが潜在している」という大津の考えは、まさに”混沌”そのもので、純粋なキリスト教からは離れるのでしょうが、なんだか理解出来る部分もありますよね。

それぞれ事情を抱えたツアーの参加者たちは、ガンジス河のほとりで何を目にすることになるのでしょうか。日本とインドの文化や宗教の違いもそうですが、何より登場人物の心理が印象に残る作品でした。

短編の連作に近い構造なこともあって、わりとすっと読めてしまう小説ながら、テーマ的に非常に考えさせられることの多い作品です。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。おすすめの一冊です。

明日は、宮崎駿『風の谷のナウシカ』を紹介する予定です。