安東みきえ『頭のうちどころが悪かった熊の話』 | 文学どうでしょう

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頭のうちどころが悪かった熊の話 (新潮文庫)/新潮社

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安東みきえ『頭のうちどころが悪かった熊の話』(新潮文庫)を読みました。

童話や寓話というものは、読み継がれることに意味があると言えるのではないでしょうか。

物語の面白い/面白くないとは、また違った次元で愛され続けるのが童話であり、寓話だろうと思います。

それだけに、新しい作品が生み出されても、定着するのはなかなか難しく、ましてや子どもだけではなく、大人にまで好んで読まれる童話や寓話は、なかなか現れないのが現状です。

そんな中、少し前から静かなベストセラーとなっている寓話集が、今回紹介する『頭のうちどころが悪かった熊の話』なんです。

まず何と言ってもタイトルがユニークですよね。「頭のうちどころが悪かった熊の話」ですよ。何だか妙に気になってしまうタイトルだと思います。

いやもう気になっちゃった方はぜひ読んでみてください。新潮文庫から出ているので、手に入れやすい本ですよ。おすすめの一冊です。

7編の寓話が収録されているのですが、どの話もユーモラスで、ちょっとひねくれていて、とても面白い話ばかり。

寓話というものは、一言で言えばファンシーというか、時に甘ったるく、空想的すぎて大人の口にはあわないことがあります。

その点、『頭のうちどころが悪かった熊の話』に収められている寓話は、時にシニカル、時にシュールで、ちょっとビターな感じが、なんともたまらなくいいんですね。

ブラックすぎるわけではないので、子どもでも楽しめると思いますが、大人がちょっとした息抜きに読むのに最適な本のように思います。

ちなみに、『頭のうちどころが悪かった熊の話』を読んで面白かったという方におすすめしたいのが、アーノルド・ローベルの「がまくんとかえるくん」のシリーズです。

ふたりはいっしょ (ミセスこどもの本)/文化出版局

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特に『ふたりはいっしょ』が最高です。がまくんとかえるくんの友情を描いたお話ですが、シュールでユーモラスで、そして哲学的な深さのある絵本です。

A・A・ミルンの『くまのプーさん』や、『ムーミン谷の彗星』などトーベ・ヤンソンのムーミンシリーズも、そうしたシュールさと哲学的な深さを兼ね備えた作品なので、機会があればそちらもぜひ読んでみてください。

作品のあらすじ


『頭のうちどころが悪かった熊の話』には、「頭のうちどころが悪かった熊の話」「いただきます」「ヘビの恩返し」「ないものねだりのカラス」「池の中の王様」「りっぱな牡鹿」「お客さまはお月さま」の7編が収録されています。

「頭のうちどころが悪かった熊の話」

こんな書き出しで始まります。

 気がついたとき、熊は頭をおさえてすわっていた。
 頭のてっぺんに大きなこぶがあったので、どこかでぶつけたらしいということはわかったけれど、そのほかのことはさっぱり思い出せない。
「いったいどうしたのだろう。それにしても、レディベアはどこにいるのだろう」
 と、熊はつぶやいた。しかしいってみたものの、いったいレディベアというのがだれだったのかがわからない。ただ熊にとっては大事な相手だということだけはぼんやりとおぼえていた。(11~12ページ)


頭をぶつけたらしく、レディベアのことを忘れてしまった熊は、姿形の分からないレディベアを探し求めて行くこととなります。

いつもそばにいたような気がしたので、たまたまそばにいた陸亀に「きみはレディベアかい?」(12ページ)と尋ねます。

レディベアはもっと黒くて毛だらけだという情報を得ると、今度は毛虫をレディベアだと思い込みます。

毛虫から、レディベアはもっと大きくて、四つの足があると聞くと、窓から見かけた、家の中にある毛皮のかかったゆり椅子をレディベアだと思って・・・。

記憶をなくしてしまった熊は、レディベアを見つけることができるのでしょうか?

「いただきます」

旅人はないたトラと出会います。トラは、「ガオッと鳴かずに、メソメソ泣いた」(27ページ)のです。

トラは、キツネを食べたのですが、キツネの命を奪ってしまったことを後悔して泣いているんですね。おなかの中で泣いているキツネの声が聞こえるから。

旅人がトラのおなかの中のキツネに声をかけると、キツネはトラに食べられたことは構わないが、ニワトリを食べてしまったことを後悔して泣いているのだと言います。

ニワトリはトガケを食べたことを後悔し、トカゲはクモを食べたことを後悔し、クモはハエを食べたことを後悔しています。

旅人が、「もしもし、トラに食べられたキツネの、そのキツネに食べられたニワトリの、そのニワトリに食べられたトカゲの、そのトカゲに食べられたクモの、そのクモに食べられたハエ、なぜ泣くんだい?」(34ページ)と尋ねると・・・。

「ヘビの恩返し」

父さんヘビは子ヘビに重要なことを教えています。

木に登る時は、うっかりして脳みそを胸あたりまでずり下げてしまわないこと、そして、過去のことしか考えられなくなるカコの実は決して食べてはならないこと。

しかし父さんヘビはそうやって教えている内に脳みそがずり下がって、頭がからっぽになってしまったらしく、パクリとカコの実を食べてしまいました。

すると父さんヘビは子ヘビに見向きもせず、子ヘビの脱皮したぬけがらに夢中になってしまいます。「ああ、ぼうやよ。過ぎ去った過去こそが美しいのだ」(46ページ)と言って。

母さんヘビに何とかしてもらおうと思いましたが、母さんヘビはミライの芽を食べてしまったらしく、未来のことしか考えられなくなっているようです。

自分の相手をしてくれない両親に怒った子ヘビは「もう、ぐれてやるぞ」(51ページ)と言って、父さんヘビとケンカを始めてしまいました。

そこへおなかを空かせたトラが通りがかって・・・。

「ないものねだりのカラス」

カラスはずっと向かいの大きな木を眺めています。何故なら、そこにはきれいなシラサギがとまっているから。

雨が降っても、ひどい嵐の日でも、シラサギはいつでもそこにいます。

ところが、他の鳥たちはシラサギなんかいないと言うんですね。フクロウは片方ずつまばたきをしながら、こう教えてくれました。

「すきまだよ。木の枝にぽっかりあいた、ただのすきまさ。あそこだけ葉っぱがないからくもった空がのぞいてるんだ。ホウ。なるほどたしかにいわれてみれば、シラサギの形に見えはするがね」(65ページ)


しかしカラスはフクロウの言葉を信じず、うっとりとシラサギを眺め続けます。

ある日カラスは、フクロウの言葉は正しいことに気付いてしまいました。シラサギがいるのではなく、それはただのすきまがあるに過ぎないのだと。

それでもカラスはシラサギがいること、そのシラサギと友だちになることを夢見続けて・・・。

「池の中の王様」

おたまじゃくしは何しろたくさん生まれるので、行き当たりばったりに名前がつけられます。

あるおたまじゃくしは、クエスチョンマークのかたちで卵から飛び出したので、「ハテ?」と名付けられたのでした。

何にでも疑問を持つハテは、質問ばかりして、周りを困らせてます。

「ねえ、どうせまた寝ることになるっていうのに、なぜ起きなくちゃいけないんだろう」(84ページ)と早起きは嫌がりますし、ルールを守ろうとしません。

ついに父さんカエルは、ハテを呼び出してお説教をすることにしました。

「ハテ、わたしを見なさい。父さんみたいなりっぱなカエルになりたくないのか」
 ハテはいわれたとおりに父さんを見た。見たとたん、あんな姿には絶対ならないと自分に誓った。
「父さん。ぼくに見えているものと父さんに見えているものと、違っているような気がするよ」(88ページ)


目を閉じると世界はなくなることに気付いたハテは、自分が世界の王様だと思い、旅に出ることにして・・・。

「りっぱな牡鹿」

牡鹿のホーイチはみんなの相談係。何かあると森のみんなはホーイチに悩みを相談しに行きます。

しかし、みんなの悩みに真剣に耳を傾け、物事の意味について考えすぎたホーイチはついに意味を求めることにうんざりしてしまいます。

そしてついに、「ぼくはこれから、意味のあることは、いっさいしないことに決めたぞ」(115ページ)とおかしな決意をしてしまったのでした。

椅子があれば座りません。やかんがあれば、それを飼うことにします。

座ったら椅子には意味があることになってしまいますし、お湯を沸かしたら、やかんに意味があることになってしまうから。

おかしな様子のホーイチさんの元へ、心配した父さんシカがやって来ました。

 また牡鹿は思いをめぐらせた。自分の父親にはなにをしたら意味がなくなるだろう。
「父さんに話す、では意味がある。父さんをおこらす、では意味が大あり、というよりそのまんまだ」
 そうだ、牡鹿はひづめを打った。
「父さんを着よう」
 父さんを吹いてもいいし、くみ上げてもいいが、まずは着てやるんだ。
 牡鹿は父親を肩にかついだ。(118ページ)


すべての意味から解放されたような気がしたホーイチさんですが、森のみんなはそんなホーイチの姿を見て、予想外のことを口にして・・・。

「お客さまはお月さま」

親友である頭のうちどころの悪かった熊も冬眠してしまい、不眠症の熊はひとりぼっちで冬を越さなければなりません。

ただ、三日月だけがずっと熊の後をついて来てくれました。熊は大喜びで三日月をほら穴に迎え入れます。

三日月は「だんろの火はあったまるね。空の上はこごえるほど寒いんだ」(129ページ)と言いますが、だんろの火はだんだん小さくなってしまいました。

熊がまきを取ってくるためにほら穴を出たその瞬間、強い風が吹き、ほら穴の上にあった岩が落ちてきて、入口を塞いでしまったのです。

「月が・・・・・・三日月がとじこめられちゃった」(131ページ)と熊は大慌てで岩を動かそうとしますが、岩はびくともしません。

ほら穴に閉じ込められてしまった友だちを助けるため、熊は必死で頭をひねって・・・。

とまあそんな7編が収録されています。どの短編もシュールかつ哲学的で面白いですが、やはり表題作の「頭のうちどころが悪かった熊の話」がとりわけ印象に残ります。

自分の大切な存在がどんな存在だったのか、そもそもどんな姿形をしていたかすら分からない熊。大切だったという思いだけで、その大切な存在を追い求めて行きます。

それが何かすら分からないものを探していくこと。それはとても愚かで、滑稽なことであり、右往左往する熊の姿は、極めてユーモラスですよね。

しかしながら、愚かであると同時に、何かを探し求めることの本質が、巧みにとらえられている気もしませんか?

もしかしたら、愛でも夢でも願望でも、本当に欲しいものをはっきり知っていて探すことの方が、少ないものなのかも知れませんね。

頭をぶつけて記憶喪失になってしまうという、特殊な状況が描かれているにもかかわらず、普遍的な探求の物語が語られているような気にさせられました。

個人的に一番好きだったのは、へりくつばかり言うおたまじゃくしの出て来る「池の中の王様」です。

元々既存のものにとらわれず、思考停止しない主人公というのがぼくはわりと好きなんですけど、冒険的要素があり、そして後半では友情も描かれているお話なので、ベタながら面白かったです。

その他の話も、登場する愉快なキャラクターのシュールなやり取りにくすくす笑わされたり、思いがけない哲学的な深いテーマに唸らされたりするものばかり。

全部で140ページほどの短い寓話集なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、トルストイ『復活』を紹介する予定です。