レフ・トルストイ『復活』 | 文学どうでしょう

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レフ・トルストイ(木村浩訳)『復活』(上下、新潮文庫)を読みました。

トルストイの『復活』は知らなくても、「カチューシャ」を知らない人はいないでしょう。頭につけるあれです。

「カチューシャ」という名前は、実は『復活』のヒロイン、カチューシャから来ているんですよ。

大正時代に日本で『復活』が演劇になり、その恋物語が非常にうけたんですね。主題歌の「カチューシャの唄」のレコードも大ヒットしました。

そこで、カチューシャ役を演じた松井須磨子のファッションから、カチューシャは「カチューシャ」と呼ばれるようになったんです。

さて、トルストイというと、ドストエフスキーと並び称されるロシア文学を代表する文豪ですし、何と言っても、何冊にも及ぶボリュームのある作品が多いですから、なかなか手を出しにくい作家なのではないかと思います。

文学的な難解さがあるというよりは、ストーリーの面白さがある作家なので、あまり大袈裟に構えないで手に取ってほしい作家なのですが、中でも『復活』は、とても読みやすいです。

何故なら、すごくシンプルで、分かりやすい物語だから。

トルストイの他の長編は複数の人物が主人公になり、物語の筋がいくつかに分かれることが多いのですが、『復活』は、ほとんどすべてがネフリュードフ公爵という人物の目から語られていきます。

なので非常に読みやすいですし、物語の筋としては非常にシンプルでありながら、テーマ的には、とても深いものがあるんです。

『復活』は一言で言うと、”目覚め”を描いた小説です。

物語の主人公であるネフリュードフ公爵は身分も高く、土地をたくさん持っていますから、何もしないでも暮らしていけます。貴族と社交をし、豪勢な暮らしをする日々。

ある時、陪審員として裁判に出席したネフリュードフは、被告の女性を見て驚きます。それは自分がかつて愛し、そして無残に捨ててしまったカチューシャだったから。

カチューシャはネフリュードフ公爵の叔母の家にいた娘なんですが、ネフリュードフの子供を妊娠してしまったせいで、そこを出ることになってしまったんです。

赤ん坊は生まれてすぐに死んでしまったのですが、それからカチューシャはどんどん身を持ち崩して売春婦になってしまったんですね。

そして、今回の事件に巻き込まれてしまったわけです。

ネフリュードフは、初めて罪の意識に苛まれます。カチューシャが辛い境遇に置かれたのは、すべて自分のせいだと気付いてしまったから。

カチューシャにどうしてあげたらいいのか、自分はこれからどのように生きていけばよいのか、ネフリュードフは迷い、苦しむようになって・・・。

罪の意識を抱え、贖罪(罪をつぐなうこと)を求めるネフリュードフは、今まで見えなかったものを見て、今まで考えなかったことを考えるようになります。

そこで、お金持ちと貧乏人との差に気付くんですね。

お金持ちは悪いことをしても許され、貧乏人は罪がなくても牢屋に入れられてしまうのが現実です。

カチューシャを助けようとして、何度も刑務所に面会に行くネフリュードフは、刑務所に入れられている人々は、必ずしも罪深い人間なのではなく、環境がそうさせている部分があると思うようになります。

貧しいが故に罪を犯し、また罪がなかったとしても、裁く側の偏見の目によって罪人にされてしまうと。

たとえば、貴族の社交の場で、士官の決闘が話題になりました。

決闘を肯定する側、否定する側に分かれて議論がなされますが、ネフリュードフは一人、こんなことを考えます。

彼はなんとなく仲間を殺害した士官と、刑務所で見かけた若い美男の囚人とを思いくらべてみた。彼もけんかで人を殺したために懲役を宣告されたのである。酒のための人殺しという点では、二人とも同じであった。ところが、百姓のほうはかっとなったはずみに人殺しをし、妻とも家族とも親類とも引きさかれて、足枷をはめられ、頭を剃られて、懲役に行こうとしているのだが、一方は営倉内の立派な部屋に入れられて、ご馳走を食べ、上等の酒を飲み、読書をしながら、きょう明日にも釈放され、以前どおりの生活に戻るのだ。ただ違うところは、特別人の興味を惹くようになるということである。(下、67ページ)


同じようにけんかで相手を殺してしまったのに、片方は懲役、片方はたいした罪にならないのです。何故こんな差が生まれてしまうのでしょう。

そして、それは正しいことなのでしょうか?

新しい物の見方、考え方をするようになり、罪の意識に苦しみながら、ネフリュードフは自分が正しいと思うことを成し遂げようとします。

自分の財産や土地を農民たちに分け与え、カチューシャと結婚しようと。しかし、それを周りが許すわけもなく・・・。

罪のつぐないを求め続けるネフリュードフと、絶望のどん底を味わい、心を閉ざしてしまったカチューシャの波瀾万丈の物語です。

作品のあらすじ


名前を呼ばれ、法廷にやって来た女囚エカテリーナ・ミハイロワ・マースロワ。

マースロワは、地主の屋敷に奉公していた百姓女の娘として生まれました。

父親はいませんし、母親は3歳の時に亡くなってしまいますが、運のいいことに、地主の老嬢姉妹に面倒を見てもらえることになります。

姉はマースロワを小間使いにするつもりで、一方妹はいつか養女にしようと考えていたせいで、小間使いのような養女のようなどっちつかずの境遇で成長していきます。

その呼び名まで小間使風のカーチカでも、養女らしいカーチェンカでもなく、その中間をとってカチューシャと呼ばれるようになった。(上、12ページ)


カチューシャが16歳の時、老嬢の甥で大学生の公爵が遊びに来たのですが、カチューシャはその公爵に恋をしてしまいました。

18歳の時、戦場へ向かう途中でやって来た公爵とカチューシャはついに結ばれましたが、公爵は百ルーブル札を一枚握らせて立ち去ったきり、何の連絡もくれなかったのでした。

公爵の子供を身ごもってしまったせいで、老嬢姉妹の家を出ることになったカチューシャは、徐々に身を持ち崩していきます。

そしてついには売春婦に身を落としてしまったのでした。

現在カチューシャは26歳。毒殺事件の容疑者の一人として投獄された身の上です。

ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵は、ある名門の公爵令嬢と結婚目前だと噂されています。

しかし、権力者の人妻と秘密の関係を続けていたせいで、すぐには結婚できない状況にいます。お金があり余り、ぜいたくな暮らしをしているネフリュードフ。

ネフリュードフは裁判所から陪審員に任命されて、裁判所に向かいました。

裁判所に被告として引き立てられて来たのは、かつて自分が激情にかられてものにしたあげく、捨ててしまったカチューシャだったので、ネフリュードフは驚愕します。

ネフリュードフはそれまでカチューシャのことなど忘れていましたし、罪の意識に駆られるどころか、「彼女なり弁護士なりが何もかもすっぱぬき、公衆の面前で彼が赤恥をかかされることのないようにと、そのことばかりを念じていた」(上、107ページ)のでした。

カチューシャは、ある商人の毒殺への関与が疑われていて、陪審員たちの評議は長引きます。

結局は、事件に関与はしているものの、殺意はなかったとして、情状酌量に値するという結論が出ました。無罪ではないものの、罪には問われないような形です。

ところが評議で疲れていたせいか、誰もが「有罪である、ただし、生命を奪う意志なし」(上、134ページ)という但し書きを添えるのを忘れてしまっていたのでした。

カチューシャに下された判決は4年間の徒刑(強制労働が科せられる刑)というとても過酷なもの。

但し書きが抜け落ちていたことを、ネフリュードフは裁判長に訴えますが、下された判決はもはや覆るはずもなかったのでした。

カチューシャが再び目の前に現れたことによって震えていたネフリュードフの心は、この明らかな不正義によって、打ちのめされてしまいます。

それから財産に対するおれの態度は? 金は母から譲り受けたものだという口実のもとに、自分では不正とみなしている富を享有しているではないか! さらに、無為徒食をむさぼる、この汚れたおれの生活はどうだ! なかでもその最たるものは、あのカチューシャに対するおれの仕打ちだ。やい、この人でなし、卑劣漢め! 世間の連中は、なんとでもこのおれを批判するがいい。連中ならあざむくことができる。しかし、自分をあざむくことはできないのだ(上、166ページ)


ネフリュードフは自分の今までの人生に対して激しい後悔に駆られ、神に祈りを捧げます。「主よ、われを助けたまえ、われを教えたまえ、来りてわが胸にやどり、すべての汚れよりわれを清めたまえ」(上、169ページ)と。

一方、カチューシャは牢屋の中で様々な物思いにふけっています。しかし、ネフリュードフのことは全く思い出しません。

それはあまりにも悲しすぎる出来事なので、心の中に封印してしまっているんですね。

かつて、ネフリュードフが戦場から帰って来る時に、赤ん坊をおなかの中に感じながら、カチューシャは停車場まで会いに行ったんです。

雨まじりの風が吹き付ける中、深夜の二時に到着するネフリュードフに一目会いたいと、カチューシャはひたすら待ち続けました。

汽車は予定通り到着したものの、仲間と楽しそうにトランプをしているネフリュードフは停車場に降りようともせず、そのまま汽車は出発してしまったのでした。

 彼女はすっかり疲れて、雨に濡れ泥まみれになって、家へ帰った。が、この日を境にして彼女の内部には大きな精神的な変化が生れて、そのために彼女は現在のような女になってしまったのである。この恐ろしい一夜以来、彼女は善というものを信じなくなった。それまでは自分でも善を信じていたし、人びとが善を信じているということを信じていた。しかし、この夜以来、彼女は誰もそんなものは信じていないのだ、神とか善とかいわれているものは、みんな人をいつわるものであると確信してしまった。彼女が自分でも愛し、向うでも自分を愛してくれた彼が(彼女はそう信じていた)自分の肉体を享楽し、自分の気持ちをもてあそんで、すててしまったのだ。(上、216ページ)


現在のネフリュードフは、自分の持つすべてをなげうってでも、カチューシャを救おうと思っています。カチューシャを牢獄から解き放ち、そして結婚しようと。

なかなかカチューシャとは面会出来ないのですが、ネフリュードフは刑務所では明らかな不正義がまかり通っていることに気付きました。

刑務所は明らかな冤罪の人々をも収容し、体罰は禁止されているにもかかわらず、ムチをふるっての罰が行われているのです。

ネフリュードフが体罰は廃止されたはずだと指摘すると、副所長からは「それは公民権を剝奪されない者に対しての話ですよ。あんな連中には当然ですよ」(上、297ページ)という驚くべき答えが返って来ました。

正しさを求めるネフリュードフの行動は、周りの人を困らせます。正しいことを行うのは、時に困難なものなので。

裁判所や刑務所で働く人々からは煙たがられ、貴族の人々の物の考え方や生活の仕方に嫌悪感を覚えるようになったため、仲間たちからも浮いてしまいました。

さらに、土地はそこで働くものが持つべきだと考えるようになったネフリュードフは、農民たちに土地を分け与えようとしますが、そんなうまい話があるわけがないと思う農民たちからも、激しく憎まれてしまうのです。

何か罠があるに違いありませんが、何の罠だか分からないだけに、農民たちは一層ネフリュードフを不気味に感じます。

正しさを求めれば求めるほど、ネフリュードフの心に降りかかる苦しみや困難。

やがて、ネフリュードフを一番悩ませていた、カチューシャとの面会がようやく許されたのですが・・・。

悔い改めたネフリュードフのまっすぐな想いは、凍りついてしまったカチューシャの心を溶かすことができるのか!?

とまあそんなお話です。ストーリー的にはシンプルですよね。過去の罪を後悔し、なんとかつぐないをしようとする男の物語。

ですが、起こってしまったことはもうすでに起こってしまったことなわけで、今さら何をしたってつぐなえるものではなく、許されるものでもないわけです。

たとえば、カチューシャが一言「許す」と言えば、ネフリュードフは救われるのでしょうか。二人が結婚すれば、すべてがつぐなわれるのでしょうか。

そうではないですよね。誰かに罪だと言われるのではなく、ネフリュードフが自分で罪を感じてる以上、どんなことをしても救われることはないと言えます。

つぐなえないものをつぐなおうとする、そこにジレンマが生まれ、テーマの深さに繋がっています。

激しく後悔するネフリュードフはわりと特殊な主人公ですし、宗教的な色彩も強い小説なのですが、人間は誰もが迷い、悩み、苦しみながら生きていくものです。

それだけに、正しいことをするために困難に立ち向かっていくネフリュードフ、そして心を閉ざしてしまったカチューシャの姿が、とても印象に残ります。

上下巻と少し長く、テーマ的にもやや重いですが、小説としては読みやすく、色々と考えさせられる名作なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、葉室麟『銀漢の賦』を紹介する予定です。