アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』 | 文学どうでしょう

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日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)/早川書房

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アーネスト・ヘミングウェイ(土屋正雄訳)『日はまた昇る〔新訳版〕』(ハヤカワepi文庫)を読みました。

新しもの好きのぼくは、新訳と聞くとすぐに飛びつくのです。

今回改めて『日はまた昇る』を読み返してみて、ぼくの中のヘミングウェイのイメージは、この作品によって決定付けられていたのだと気が付きました。

ヘミングウェイは「失われた世代(Lost Generation)」の作家と言われます。第一次世界大戦を経て、何かを失ってしまった世代ということです。

若者たちは傷つき、未来に希望を持てず、酒や遊びに溺れる日々を送るようになってしまったんですね。

『日はまた昇る』でも故郷を離れ、フランスのパリやスペインのパンプローナで豪遊する若者たちの姿が描かれます。

その気持ちは分からないでもないと言うと、少しあれかもしれませんけれど、「当たり前の生活」という既成概念が、物の見事に打ち砕かれてしまったことは何となく分かります。

努力して日々を積み重ねていけば、安定した「当たり前の生活」が手に入る時代ではなく、何をやっても圧倒的な暴力で打ち砕かれてしまう時代なわけですね。

理解できないというよりはむしろ、絶望し、享楽的な生き方に走るのにも納得ができる部分があります。

さて、何故この『日はまた昇る』がぼくの中のヘミングウェイのイメージを決定付けているかというと、そうした「失われた何か」が単に精神的なものというだけではなく、より分かりやすい形で描かれているからです。

『日はまた昇る』は、〈私〉ことジェイク・バーンズによって語られていく物語です。この〈私〉がですね、具体的な描写がないのでどうなっているかはよく分からないんですが、戦争で負傷して男性機能に障害を抱えてしまったんですね。

〈私〉には愛する女、ブレットがいます。ブレットも〈私〉を信頼し、それなりの愛情はあるようです。ところが、〈私〉とブレットとは決して肉体的に結ばれることはないわけです。

ブレットが色んな男と付き合うのを、〈私〉はただ見守り、ブレットに何か困ったことが起これば、助けてやるという役回りに徹する他ありません。限りなく近く、そして決定的に遠い〈私〉とブレット。

「一緒に暮らせないか、ブレット? 一緒に住むだけでいいじゃないか」
「だめだと思う。わたしはあなたを裏切る。何人もと。あなたはきっと堪えられない」
「いま堪えてるだろ?」
「これとは違うわよ、ジェイク。わたしが悪い、こう生まれついたわたしが・・・・・・」
「二人でしばらく田舎に行ってみないか」
「あなたが望むなら。でも、無駄だと思う。田舎でひっそり暮らすなんて、わたしには無理。心から愛する人とでも」(86~87ページ)


ブレットは情熱的な愛に身を任せるタイプというか、誰かのぬくもりなしには生きていけないような所があるんです。

自分の欲しいもの、大切なものが何かは分かっていて、しかもそれは目の前にある〈私〉。

けれど、それは決して手に入れることは出来ないんですね。男性機能を失ってしまった〈私〉の姿が、「失われた世代」のイメージとぴったり重なります。

ヘミングウェイについて、もう少しだけ書くと、かなり好き嫌いの分かれる作家だと思います。『武器よさらば』の所でも書きましたけれど、どちらかと言えば、ぼくも読みづらさを感じる作家です。

ハードボイルドの元祖と言われるくらい、文体としては短く平易で読みやすいです。ただ、事実だけを淡々と積み上げていくその手法は、心理がほとんど全く描かれないだけに、感情移入をするのがなかなか難しいんですね。

愛する女が他の男と付き合うのを見守るしかない〈私〉はおそらく辛いでしょうが、その辛さは描かれません。登場人物たちは酒や遊びに溺れますが、何故酒や遊びに溺れるのかは描かれません。

そうすると、一歩踏み込んだ解釈というか、深く読み込んでいく必要性が出て来ます。

戦争で傷ついた「失われた世代」を描いているんだと思って、小説内では描かれていないことも加味して読んでいかないと、ただ登場人物たちが馬鹿騒ぎをしているだけの退屈な小説になってしまうんです。

そうしたことから、おすすめし辛い感じはあるのですが、闘牛の場面など、後半の盛り上がりはかなりすごいので、興味を持った方にはぜひ手に取ってもらいたい1冊です。

作品のあらすじ


プリンストン大学のミドル級ボクシングチャンピオンだったロバート・コーンについて書かれていきます。

ユダヤ人という劣等感から、必死にボクシングに取り組んだこと。結婚し、離婚し、父親の遺産で文芸評論誌を始めたが、うまくいかなかったこと。

文学をやろうとパリへやって来たコーンと、特派員(外国に派遣された記者)の〈私〉はテニス仲間として出会いました。

コーンは小説家を目指していますが、原稿を引き受けてくれる出版社がなかなか見つかりません。やがて、コーンは〈私〉を南米への旅行に誘いますが、〈私〉は夏にはスペインに行きたいからと断ります。

「・・・どこの国に行ったって、映画で見るのと変わらんよ」
 だが、一途な思いが気の毒ではあった。
「人生が飛び去っていくのに、ぼくはほんとうには生きていない。そう思うと堪えられない」
「人生を完全に生き切るなんて、闘牛士くらいしかいないさ」(18ページ)


ダンスフロアのある店で、〈私〉は知り合いのブレットと偶然会います。タクシーに乗った2人は引き寄せられるようにキスをしますが、ブレットは〈私〉から体を離します。

イタリアの戦線で大事な部分を負傷したことによって、〈私〉はもう女性と肉体関係を結べない体なんですね。なので、〈私〉とブレットは気持ちが近づくほど、決して埋められない溝が浮き彫りになってしまうんです。

「おれの身に起こったことなんて、普通は笑い話のネタだぜ。おれ自身、いまはもう考えることもない」(42ページ)と〈私〉はブレットに言います。離れているのが一番いいんですが、〈私〉ほど信頼できる人もいないので、何かあるとブレットは〈私〉のことを頼ります。

夏になると〈私〉は友人のビル・ゴードンと、スペインに闘牛を見に行くことになります。酒を飲み、飯を食い、途中で魚釣りをしたりと愉快に旅をします。

ところが、旅の一行に何人かが加わって、不穏な空気が立ち込めるようになります。ブレットは結婚しているんですが、離婚が成立したら結婚しようと思っているマイク・キャンベルと一緒に合流します。

ロバート・コーンもやって来るんですが、実は少し前にコーンはブレットとひそかに旅行に行っていたらしいんですね。コーンとしては、ブレットと愛し合っていると思っているわけです。

しかし、ブレットの態度は冷たく、マイクと揉めたこともあり、コーンは精神的にまいってしまいます。

「ブレットのことが堪えられなかった。地獄だったよ、ジェイク。まさに地獄だ。こっちに来てブレットと再会したら、まるで赤の他人みたいに扱われて、あれが堪えられなかった。サンセバスチャンでは一緒だったんだ。もう君も知ってると思う。これ以上、もう堪えられない」(291ページ)


ブレットを中心に複雑な関係を築いている一行は、目的だった闘牛を見ることになります。危険と隣り合わせの闘牛の描写はなかなかにすごいので、これはぜひ本編にて。

若くて素晴らしい腕前の闘牛士ペドロ・ロメロに、ブレットは夢中になってしまいます。やがてロメロとブレットは姿を消してしまい・・・。

はたしてブレットは幸せを手に入れることが出来るのか? そして、それを見守るしかない〈私〉に明るい未来はやって来るのか!?

とまあそんなお話です。いくつかの報われない恋と、浴びるように酒を飲んで遊ぶ、堕落した若者たちの姿が描かれた小説です。

「ね、ジェイク、わたしから離れないで。最後までわたしのそばで見守ってて」(275ページ)と言うブレットは、自分が言っているように、性悪女以外の何者でもないようにも思えます。ブレットを中心に人間関係がぐちゃぐちゃになっていくわけですから。

ただ、一番心が空っぽなのは、ブレットなのではないかという気もするんですね。満たされたいのに満たされない感じは、登場人物の中で一番強いのではないかと思います。

みんなでわいわい遊んでいても、酒をがぶがぶ飲んでいても、どこか空虚な感じが漂う「失われた世代」。

たわいない狂乱の風景を描いているようでいて、彼らが抱えているものがどれだけ重いかと考えると、心にぐさりと突き刺さるものがあります。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、ウイリアム・アイリッシュ『幻の女』を紹介する予定です。