G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』 | 文学どうでしょう

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百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))/ガブリエル ガルシア=マルケス

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G・ガルシア=マルケス(鼓直訳)『百年の孤独』(新潮社)を読みました。

ガルシア=マルケスは、以前『予告された殺人の記録』を紹介しました。そちらの記事もぜひ参照してみてください。

『百年の孤独』は、ラテンアメリカ文学の傑作という範疇を超えて、世界文学の金字塔と言っても過言ではない作品だろうと思います。

これほどの作品はこれまでにはなかったし、これからもないだろうと。文字による芸術の最高峰の作品の1つだろうと思います。

興味を持った方はぜひ読んでみてください。ぜひぜひ! ある種の読みづらさはありますが、難解さはありません。

ぼくはこんなことを考えます。ノアの箱舟に動物たちを入れて洪水から守ったように、もし本を洪水から守らなければならなかったとしたら。ぼくだったら、この『百年の孤独』を真っ先に入れます。

世界文学の名作と言っても、ブロンテ姉妹のように読みやすいものや、ドストエフスキーのように観念的(神の有無など抽象的なテーマ)で難解なものがあります。プルーストやジョイスのように、文体に凝っているものもあります。

ガルシア=マルケスは、どの作家とも違います。決定的に違います。ぼくは『百年の孤独』を初めて読んだ時、腰を抜かしそうになりました。なんなんだこれはと。

そこに書かれているのは、ブエンディア家の家族の歴史であり、〈マコンド〉という土地の歴史の物語なんですが、今までに見たことのない叙述のあり方で書かれていることに仰天しました。

それはいわゆる〈マジックリアリズム〉あるいは〈魔術的リアリズム〉と言われる技法です。折角なので、有名な場面をいくつか引用してみますね。

まずは〈マコンド〉にやってきたニカノル神父が、教会建設の寄付金を集めるために、村人の前でやったこと。

「しばらくそのまま。これから、神の無限のお力の明らかな証拠をお目にかける」
 そう言ってから、ミサの手伝いをした少年に一杯の湯気の立った濃いチョコレートを持ってこさせ、息もつかずに飲み干した。そのあと、袖口から取り出したハンカチで唇をぬぐい、腕を水平に突きだして目を閉じた。すると、ニカノル神父の体が地面から十二センチほど浮きあがった。この方法は説得的だった。(105ページ)


チョコレートによる空中浮遊ですよ。面白いですよね。でも、別にこの神父さんが特別な能力者というわけでもなくて、こんな不思議なことが起こってもおかしくないという〈マコンド〉の存在がより面白いんですよ。

それからこんな場面もあります。小町娘のレメディオスという絶世の美女がいるんです。独特のにおいがあって、男たちはみんなメロメロになってしまう。

でも小町娘のレメディオスはちょっと人間ばなれしているところがあるというか、赤ちゃんみたいな感じなんです。ちゃんと食事もできないし、服も頭からかぶればいい簡単なものを身につけています。

そんな小町娘のレメディオスがある時、「顔が透きとおって見えるほど異様に青白い」(279ページ)ので、周りの人が心配すると、こう答えます。

「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」
 彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。(279~280ページ)


この小町娘のレメディオスの昇天の場面からいくつかのことが分かるかと思います。ここでは現実にありえないことが起こっているわけです。ただ、この場面には驚きや怖れなど感情的なものが含まれていません。これはガルシア=マルケスの大きな特徴だろうと思います。

小町娘のレメディオスの昇天を、ブエンディア家の家族の人々、フェルナンダとアマランタとウルスラが見ているわけですが、視点は誰にも寄り添いません。

単に不思議なこと、幻想的なことが起こるというだけではなく、ルポルタージュ的な文体で神話的な出来事を描くことによって、その出来事をあくまで現実に起こったことのように感じさせるわけです。

『百年の孤独』が面白いのは、不思議な出来事が描かれているというところにあるのではなく、その不思議な出来事が起こりうる空間が作られているというまさにそこにあります。

一歩間違えれば、単なるファンタジーになってしまう。あるいは、途方もないほら話のようになってしまう。それをぎりぎりのバランスで現実と結びつかせながら描いているのがすごいところです。

ちなみに文体は全編こんな感じです。ぎっちりしていて、ゆるやかさがないので読みづらい感じもあるかと思います。でも事実の積み重ねなので、内容的な難解さはなく、こんなおもしろおかしい不思議な出来事ばかり起こるので面白いですよ。

ラテンアメリカ文体の特徴として、性的なものがわりと無造作に扱われているということもあって、若い読者にはおすすめしづらい部分もあるんですが、エロティシズムと言うよりは、もっと原初的で野性味あふれる感じです。

動物の交尾とかに近い雰囲気かもしれません。恋や愛のロマンティックな行為というよりは、もっと日常的で、かつどうしようもない欲求のものとして描かれています。

作品のあらすじ


ざっくり言えば、ある一族の物語です。ブエンディア家の物語。ホセ・アルカディオとウルスラという夫婦が新しい土地にやって来て、そこは〈マコンド〉と名付けられます。

なぜ新しい土地に来ざるをえなかったかと言うとですね、ずっと近い血での結婚がくり返されて来たんですが、この夫婦はいとこ同士の間柄なんです。親族でしっぽのある子供が生まれてしまったことがあるので、ウルスラは性行為を拒みます。

そのことをある男に馬鹿にされたので、ホセ・アルカディオは槍で相手を殺します。そのこと自体はまあいいんですが、その殺された人がずっと現れ続けるんです。死んでるんですよ。死んでるのに悲しそうな表情で存在し続けるんです。

まあそんなわけで、遠くへ行くことになったわけです。夫婦の間には、アルカディオ、アウレリャノ、アマランタという子供が生まれます。

孫、ひ孫と一族の物語は続いていくわけですが、アルカディオと名付けられた子供はアルカディオの、アウレリャノと名付けられた子供はアウレリャノの性質を持ちます。

基本的にはくり返しの物語です。戦争に出かけて行ったり、娼婦と関係を持ったり。ピラル・テルネラという占い師兼娼婦のような女性がいて、アルカディオとアウレリャノの子供をそれぞれ産みます。その子供もアルカディオとアウレリャノと名付けられます。

アマランタは悲しい恋物語のようなものがあって、ずっと1人で過ごします。甥のアウレリャノとちょっと奇妙な関係になったりもしますが、性行為自体はしません。

ホセ・アルカディオの子供のアルカディオの子供のアルカディオの子供の世代は、ホセ・アルカディオ・セグンド、アウレリャノ・セグンド、小町娘のレメディオスです。

このアルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンドがまた1人の富くじ売りの女性のペトラ・コテスと関係を持ちます。やがてペトラ・コテスはアウレリャノ・セグンドだけの愛人になります。

アウレリャノ・セグンドが結婚するのがフェルナンダという女性なんですが、このフェルナンダはよその土地の人間な上に、ちょっと変わった育てられ方をしたので、考え方や風習が丸っきり違うんですね。ウルスラと嫁姑の対立みたいになります。

最初のウルスラまだ生きてるんですよ。びっくりですよね。アウレリャノ・セグンドが奥さんのフェルナンダと愛人のペトラ・コテスの間を行ったり来たりするのが面白いです。

アウレリャノ・セグンドとフェルナンダの子供の世代で物語は収束に向かいます。〈マコンド〉はどのような発展をむかえ、物語の最後にはどんな形になるのか?

そんな物語です。物語の最初の方で、ジプシーの錬金術師のメルキアデスという人物が現れます。メルキアデスは結構変わっていて、あやしげな品物を売りにきたりもするんですが、科学では説明できないことをできたりもします。

のちのちに、鉄道でやって来た商売人なんかが気球を見せたりするんですが、〈マコンド〉の人々は驚かないんですね。なぜなら、ジプシーに似たようなものをすでに見せられていたから。

メルキアデスもずっと死ななくて、死んでからも存在し続けるんですが、このメルキアデスが残した羊皮紙が重要になります。羊皮紙と言うのは紙ではなく、動物の皮で作られた紙みたいなものです。

この羊皮紙にはなにが書かれているか分からないんです。物語の最後でこの羊皮紙が解読されます。これに書かれていたことが非常に面白いです。

以前、『百年の孤独』を読んだ時は、ぼくはアマランタの話が印象的だったんですよ。それはレベーカに対する嫉妬心なんかもそうですし、その後、求婚を拒絶し続ける心理も気になりますし、なによりアウレリャノとの奇妙な関係が忘れられませんでした。

今回読み直してみて、フェルナンダが気になりました。フェルナンダというのは相当異質な存在ですよね。ブエンディア家というのは、ずっと男性社会と言うか、奥さんよりも男性が強いんです。フェルナンダ以降それが少し変わりますね。

生まれる子供もずっと男2人に女1人だったのに、フェルナンダの子供は男1人に女2人。しかも長男の影は相当薄いです。

ブエンディア家にフェルナンダという異質な存在がやって来ることは、〈マコンド〉に外部からの文化がやって来ることと重なります。

『百年の孤独』はブエンディア家の家族の歴史の物語であり、〈マコンド〉という土地の物語です。色々なことが起こります。戦争があり、文化の発展があり。

くり返され続ける物語は、ある意味において人類の歴史がそこに重なっているとも言えます。これはブエンディア家、そして〈マコンド〉の歴史であるとともに、ぼくらの物語でもあるわけです。ぼくはそんな風に思います。

そんな歴史が簡素かつ濃厚な文体、そして〈マジックリアリズム〉という文学技法で不思議な出来事をとらえつつ描いた傑作です。難解さはないので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。ぜひぜひ!

ぼくらがいつの間にか持ってしまっている「小説とはこういうものだ」という固定観念のようなものを、ものの見事に吹き飛ばしてくれる、そんな小説です。