(文化会館小ホールでの20周年のパネル展示)


先程、ホノルルから羽田に着きました。4/17のムーティ指揮のアイーダは多くの観客や評論家からは絶賛されていました。私が1番信用していない音楽評論家は「超名演」、あるオペラ評論家は数度に渡りSNSで「イタリアのヴェルディだ」「これぞヴェルディ!」などと発信していて、未だに違和感があり、ホノルルとの往復の機内で、アイーダの録音を聴きまくりました(ミラノ2本、フィレンツェ1本、ウィーン1本、ニュー・フィルハーモニア管1本)。ニュー・フィルハーモニア管はムーティ指揮で、アイーダの名盤と言われていますが、↓このCDと今回の春祭とは別の音楽としか思えません。

これぞムーティの音楽、ヴェルディの音楽であり、春祭のムーティは高齢が故に、腕を早く動かせず、気楽なテンポでドライブする感覚で指揮しているようにしか思えません。ミラノやフィレンツェの演奏も真のヴェルディの音楽だと思います。ヴェルディが人生面・恋愛面で絶好調だった時の素晴らしい作曲技法とコンチェルタートが感じられます。今回の春祭オケのメンバー表を見たら、半分が在京オケの若手メンバー(首席奏者含む)、半分が名の知らない若手奏者で肩書きには「ソリスト」と書いてありますが、実際はフリーの意味合いだと思いますし、楽器(特に弦楽器)のクオリティが低いです。そのため、このメンバーで本当のヴェルディの音を出すには限界があります(もしアカデミー、学生オーケストラでしたら、甘口評価にしていました)。例えば、このオペラで肝心のフルートの音は鋭くないですし、ピッコロがオケの音を突き抜けるような破壊的な音を出すことで、このオペラの情動的な部分を駆り立てるべきなのですが、それが全くできていませんでした。ハープはこのオペラでは2台が通常ですが、1台しか乗ってません。こんな状況をムーティが認めたのも不思議ですし、この方はもはや帝王でも何でもないなと感じました。このような違和感は他にもありますが、筆者の評価は今でも正しいと思っております。昨年4月の新国立劇場のアイーダの「演出は豪華絢爛、音楽は巧く、歌手が小粒」で星3つでしたので、それと比較すると、春祭は「演出無し、音楽は緩い、歌手はアイーダとラダメスが全くダメ」なので、星1つで良いのです↓。

「イタリアのヴェルディ」と言われる修士号取得者は論文書く際にきちんと言葉の定義をするように、定義と概念の明示して頂かないと議論にはならないです。感動に正解はないと思いますが、納得解はあると思います。今回のアイーダは納得解が得られませんでした。


春祭は今年で20年目と言うことで、過去最大で日本最大の音楽祭の規模でした。実行委員会の方々のご苦労に深く感謝しています。筆者は上野の文化会館が大嫌いですので(立地、雰囲気、音響、座席の狭さなど)、例年の春祭は2回しか行かないのですが、今回はラインナップが充実していたので、6公演も行きました。ブッフビンダーやパーペのリサイタルのような小ホールでの素晴らしい公演が多く、上野水香さんのバレエも秀逸でした。問題はオペラの演奏会形式です。今回は3/27のトリスタンから4/21のエレクトラまで、約3週間半で4本ものオペラ演奏会形式がありました。そのうちのラ・ボエームとアイーダを鑑賞しましたが、前者は主役の歌手が想定以上に良かったですし、ホーレンダー監督が出演する点が貴重だった上に、東響の演奏も良かったです。しかし、アイーダは前述の通りです。


この音楽祭でもう一つ残念な点は、やはりオペラのフルステージの公演がない点です。春祭期間中に小澤征爾音楽塾の「コジ・ファン・トゥッテ」(フル・ステージ形式)がありましたが、舞台演出があってのオペラ(イタリア語で作品の意)だと実感しました。舞台や衣裳はストーリー背景に合わせたオーソドックスなもので分かりやすいので感情移入がしやすく、歌手の演技がモーツァルトのオペラらしさを拡張していました。何度も会場に笑いが起こるのも演出があるからです。これこそ、オペラの醍醐味なのですが、春祭の実行委の方針で毎年のようにオペラは演奏会形式です。在京オケの東響や東京フィルは近年、オペラの演奏会形式を毎年のように定例化していますが、オペラの演奏会形式が第九並みのドル箱の様相になっています。オペラの演奏会形式の回数が多いのは日本が世界の中でダントツではと思います。演奏会形式のメリットは(1)オケの演奏や歌唱に集中できる、(2)チケット価格が安い、(3)時代読替などの理解不能な演出を見なくて良いなどの理由が挙げられますが、どれもメイクセンスしません。(3)に関しては、ヨーロッパの劇場では、時代読替の演出が常識的で、ゼッフィレッリやシェンクのようなオーソドックスな新制作の演出は少なくなってます。これは、現代のオペラ演出家の宿命で、彼らはゼッフィレッリのような完全美の舞台を制作不可能なので、標準的な演出だと常連のお客様か納得しないので、何らかの創作で、今までとは異なるクリエーティブなアプローチが求められているのです。そのクリエーティブな演出を解釈しながら、新しい演出を観るのが醍醐味なのですが、バイロイトの前衛的な演出にブーイングが飛びますが、今のバイロイトの指環の演出は筆者としては理解できます(指環を子供にした発想と演出意図は面白いです)。例えばウィーンで全裸の男女が出てくる演出があり、あまり観なくはないですが、演出家の何らの意図は感じられるものです。こういう演出を理解できない方は、オーソドックスな演出のオペラを観に行くしかありませんが、選択肢は狭まってしまうでしょうし、ザルツブルク音楽祭やバイロイト音楽祭のオペラはおすすめできません。


別の視点で考察すると、パリにいた時に、ルネ・フレミング出演のオーケストラ・コンサートがシャトレ座でありましたが、残席が多かったのです。この時にパリの友人に聞くと、「フランスでは舞台や演技・踊りがない公演は売れないだよ」と言われました。確かに、パリには著名な劇場が4つ以上あり、クラシックのコンサート専用ホールは1つくらいです。日本で演出無しのものが受け入れられているのは、筆者の仮説ではありますが、日本最古の総合芸術の「能」や、オペラと同じ時期に誕生した「歌舞伎」の舞台は、派手な演出・舞台装置は少なく、ミニマム主義です。ミニマム主義の伝統芸術の文化が日本にはあり、オペラの演奏会形式が受け入れられている理由と考えられます。歌舞伎の制作期間は短い点や、演奏は舞台上で行われる点もオペラ演奏会形式と似ています。春祭・実行委員長の鈴木さんとホーレンダー監督のインタビューが、↓こちらですが、鈴木さんは演奏会形式に肯定派です。

《以下、引用》

鈴木 今、東京春祭でも必ずワーグナーを演奏していますが、ヨーロッパの音楽祭のようにお金をかけて舞台装置を作って上演するというのは、この音楽祭で行うのはちょっと違うと思っています。演奏会形式で、クオリティの高い歌手と高い水準の音楽をお届けする。東京春祭はこの先もそういう形で上演するのがよいのではないかと思っています。

ホレンダー ヨーロッパのオペラは本当に悲劇的な演出が多いですからね。特にドイツ。イギリスもそうですね。だからみんな目を閉じて、音楽だけに集中する。だったら演奏会形式にしたほうがいいですよ、絶対に。

鈴木 日本は長い間、数多くの海外の舞台作品の引っ越し公演を招聘してきました。しかし、大々的な引っ越し公演を呼んでくるのは経済的にも難しくなってくると思います。だから、質の高い演奏会形式の演奏会を続けていくことで「新しい何か」を得られるのではないかと真剣に考えています。

ホレンダー その通りです。

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このやりとりではホーレンダー監督も同調していますが、これはウィーン人らしい外交的コミニケーションで本音ではないと思います。ウィーンも4つの著名な劇場があり、本格的なコンサートの本数よりもオペラの方が多く上演されている都市です。ザルツブルク音楽祭も、オーケストラの公演回数より、フルステージのオペラの公演回数の方が多いです。オペラ演奏会形式の回数の多さは日本独自のものですが、個人的には残念な話であります。