現代は、一億人総クリエイター時代と呼ばれることがあります。言葉通り、あらゆる人間がクリエイターになることができる、ということです。
すべての芸術にそれが当てはまるわけではないでしょうが、書く、という行為に関してだけいうと、誰もが執筆可能な環境のうえに立っているでしょう。誰もが識字能力をもっており、パソコンは一人一台持つ時代、ということです。もちろん、例外はありますが。
そうした「誰もがクリエイター」になりえる時代において、書く、という表現は特別なものでなく一般的なものになりつつあります。すでにそうなっているかもしれません。
小説について少し話します。
多くの「文豪」と呼ばれる人間の多くは明治、大正、あるいは昭和初期の作家です。ずっと以前から文学は存在してきましたが、それが小説として形を整えるのは明治から、といわれています。開国により多くの日本人が海外に留学し、そこで得たものを日本の文化に取り入れてきました。小説についても同様に、ヨーロッパなどの近代小説の技法、主題がまず輸入されました。それを受けて坪内逍遥が『小説神髄』を書いたりと、着々と小説の形式が整っていったのです。そうして文学結社が組まれたり(「硯友社」など)、今で言う同人誌が発行されたりしました(「白樺」など)。また、文壇も作り上げられ、小説が先進的で、かつ親しみやすい芸術として広く知られるようになりました。当時、作家は「特別な人(なろうと思って、少々書いた程度では決してなれない)」という認識が強かったように思えます。
振り返って、現在ではどうでしょう。書くことは日常的行為で、また、書いて表現することも(それを発信することも含めて)容易になりました。小説もその範疇にあり、書こうと思えば容易に書くことができます。それだけ環境が変化している、ということです。
そんな現代にも作家は存在するし、それを目指す人もいる。作家という存在が、いまだ特別な輝きを持って語られている(プロ野球選手や、宇宙飛行士と同じように、というのは過言でしょうか)。なぜか。
私たちは日常的にさまざまな芸術、物語に触れて生きています。テレビゲームにも物語があり、それも芸術と言えることと思えます。そういったものに多く触れている、ということはそれに魅了されている、とも言えるでしょう。魅了され続けた人が「自分も誰かを魅了したい。こんな物語を作りたい」と思うのはごく自然なことではないでしょうか。そうして、クリエイターを目指すようになる。同時に、クリエイター、というのが眩しい響きとなって耳を潤す(自分を魅了したものですから、そう響くのは当たり前でしょう)。
小説に関しては、手始めになにか書いてみて、次の段階としてそれを公開する(方法としてはさまざまありますが、ネットが最も容易でしょう)。公開した以上、その人はアマチュアのクリエイターとして一歩を踏み出したことになります。
しかし、ほとんどの人が作家として芽を出すことはありません。それは簡単なことで、クリエイター過剰供給、の言葉で説明ができるように思えます。新人賞にしても、年々応募者が増えている、という話もよく耳にします(賞の種類や出版社によって差はありますが)。
そんななか、作家になるにはどうすれば良いか。これはシンプルで、努力と、需要の見極めが必要です。すべてのことに言えますが、努力のない上達はありえません。また、作家は職業ですから、商業的な目線も必要です。だからこそ、需要の見極めが要点となるわけです。良い編集者と出会えるか、も作家としての長生きには必要でしょうが、こればかりはどうしようもない問題です。いくらリサーチをしてもカバーしきれない面もあるのです。加えて、書くことは(特に物語を生み出すことは)体力を要します。書きたくないときでも、締切のために書かねばなりません。毎日書く忍耐がなければ辛いことです。職業としての創作、というのはこういうことなのです。他にも、多様な問題はあるでしょうが、きりがないのでここで切ります。
好きなものを書いて食べていきたい、というのはとても理想的ですが、理想でしかないと割り切ってしまうのが良いでしょう。これらを熟慮したうえで、作家になりたいかどうかを考えるべきだと私は思っています。
一億総クリエイター時代に、職業としての創作を望むことは、相応の覚悟が必要、ということです。
副業としての創作を視野に入れると、ぐっと現状を俯瞰できるように思います。