その声を聴かせておくれ。凛と澄んだ君の声は美しいのだから。ああ、君のしなやかな体躯が紅であったなら、どんなに完璧だろう。
許しておくれ。どうか、許しておくれ。
塩田和美は美しい。この美術大学内にある、どの芸術作品よりも美しい。緩やかに流れる小川の如き黒髪、煌く黒曜石の如き瞳、小鳥のさえずりの如き声。頭脳は明晰で、芸術に関するセンス、特に色彩感覚は秀でている。
彼女の全てが麗しく、完璧だ。そんな彼女に俺が恋心を抱くのは必然であったのかもしれない。
「……佐久間君。君は人の話を聞いているのかい?」
塩田和美の凛とした声が耳に届いた。彼女に見とれていた俺の意識はたちまち、元に立ち返った。
「いや、そんなことないですよ。俺が梅原さんの話を聞かなったことなんて無いじゃないですか」
梅原さん、というのは彼女のことだ。彼女は、本名が塩田であるのにも関わらず、梅原さんと呼んでくれ、と言う。必ず、さん付けで、と。意図するところは分からないが、何故だか彼女はその名を呼ばせたがる。それは俺だけでなく、彼女の知り合い皆にもだ。実際のところ、意図なんてものはどうでもよかった。それが彼女との友好の証であると勝手に解釈しており、そう呼べることを誇っているからだ。
「どうかな。このところの君は、随分と落ち着きが無いように見える」
梅原さんは探るような目つきで俺を見た。その黒曜石の瞳で。心を見透かされたような気がして、苦笑が出た。
事実、最近の俺はそわそわしていた。今日がクリスマスイブであるにも関わらず、独り身だからかもしれない。しかし本心は、彼女をどう口説こうかと悩んでいるだけなのである。
この美術大学の入学式で彼女を見て以来、ずっとだ。入学式で見て以来、というのは少々大袈裟かもしれない。しかし、悩んでいたことには変わりない。どう話し掛けようかと、悩んでいた。話し掛けた後には、どう親しくなろうか、という悩みが生まれ、それが達成された後には更なる悩みが生まれ、といった具合に悩み続けてきた。しかし、俺の悩みはここにきて最高潮を迎えていることは明白である。二年の歳月をかけて、ここまでこられたのだ。男友達という位置付けまで。
だからこそ、悩んでいた。次に踏み出すべきステップは決まっていたが、いかんせん、素直になれない。多分、ふられるのを恐れているのだと思う。ふられてしまったら、今まで築いてきたものが崩れ去る気がしてならない。故に、悩んでいるのだ。
梅原さんは端正な顔を僅かに歪めた。考え込むように。そして何か思いついたのか、口元に微笑を浮べた。
「よし、僕の家に招待して上げよう。悩める青年のために、特別に」
思いも寄らない彼女の台詞に、思わず聞き返した。「今、何て?」
上ずった声だとか、自分でも聞き取りづらいくらいの早口だったとか、そんなことは今更気にならなかった。それよりも、彼女の言葉の方がずっと、気になった。
「自宅に招待すると言ったのだよ、佐久間君。クリスマスイブを独り寂しく過ごすのも嫌だろう?」
梅原さんは相変わらず口元だけに微笑を浮べている。
「すごく嬉しいんですけど、梅原さんはいいんですか? その、クリスマスイブに俺と過ごすなんて」
「気にすることはないさ。特に予定も無かったからね。何も気負うことは無いよ。僕と君は親友じゃないか」
親友、という響きが妙に心地良かった。
「じゃあ、ありがたくお邪魔させてもらいます」
そんな俺の返事に梅原さんは、満足そうに頷いた。
暫くの間、沈黙が訪れた。お互い、少なくとも俺は、すっかり満足してしまったせいか、言葉よりも想像の方に意識を傾けていた。
しかしながら、沈黙というのはどうも落ち着かない。俺は頭の中にあった話題を言葉にしていた。
「最近、この近くで野良猫の殺害が相次いでいるみたいですね」
我ながら、最悪の話題を出したものだ、と後悔した。案の定、梅原さんは怪訝な表情をしている。
「そうか」
興味の無さそうな彼女の声が返ってくると、更なる後悔に胸が痛んだ。ああ、俺は馬鹿じゃないのか。
そういえば、梅原さんは猫を飼っているらしい。そんなことを以前、彼女から聞かされたことがあった。それを思い出して一層、自らが犯した失態に後悔した。
「すいません」
気付いたら謝っていた。
「気にすることではないさ。それよりも、今日のことを考えるといい。君に是非とも見てもらいたいものがある」
さして気にしてない様子だったので、ほんの少しだけ安心した。それよりも、見せたいもの、というフレーズが気になる。
「何ですか、見せたいものって?」
梅原さんは口元に人差し指を当てて「秘密だよ」と囁いた。
その仕草にもどかしさのようなものを感じた。
「では、僕は講義に出なくちゃならないから」
そう言うと、素早くメモ帳とボールペンを取り出し、何か走り書きしたと思ったら、それを俺に手渡した。
地図だった。梅原さんの自宅、マンションまでの地図が簡単にだが、書かれていた。それを見る限り、大学からそう遠くない場所に住んでいるようだ。
「そのマンションの一階、一番左の部屋だから間違えないように」
早口で言うと、彼女は素早い動作で手提げのバッグを持って立ち上がった。
と、次の瞬間、梅原さんは口を俺の耳元数センチまで寄せて、囁いた。
「――裸で待っているよ」