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ステレオ・タイプ

つらつらと、とりとめのないことを書いています。拙作ですが、小説も載せています。

 気が気じゃなかった。あんなことを去り際に囁かれれば誰だって驚くだろう。それも、意中の人なら尚更だ。とにかく、気が気じゃなかった。落ち着くために仮眠を取って、うっかり午後の十一時まで眠ってしまったのもそのせいに違いない。

 俺は心底焦っていた。凍えるような夜気の中、明りの付いているマンションの一室を目にした瞬間は、喜びと同時に罪悪感でいっぱいになった。それは今も、変わっていない。ただ、喜びは消えたが。

 焦燥と罪悪感の中、俺は立ち尽くしていた。梅原さんの部屋の前で。

 クリスマスソングが微かに耳に届く。十一時を回っているというのに、随分と非常識な輩がいるものだ。それもこれも、クリスマスという特別な一日が引き起こす現象の一部と思えば、なぜだか自然と受け入れられる気がした。そうだ。今日は特別な日なのだ。

 しかし俺の非常識さは許されるものなのだろうか。こんな特別な一日に人を待たせるというのはいかがなものだろうか。サンタクロースでさえ、しかめ面だろう。

暫くは、一体どう言い訳をするかなどと考えていたが、それ自体女々しく、情けなかった。いっそのこと堂々と、チャイムを鳴らせばいい、とも考えたが、残念ながら俺にはその度胸が無かった。

 しかしながら、いつまでも立ち尽くしている訳にもいかず、仕方なくチャイムを押した。

 酷く間の抜けた音が鳴った。不機嫌そうな彼女の顔をイメージしながら怯えていたが、いつまで経っても返事は無かった。

 もう一度チャイムを鳴らすが、相変わらず返事は無い。どうしたのだろうか。もしかしたら、待ちくたびれて寝てしまったのかもしれない。

 しかし、ここですごすごと引き下がるのは嫌だった。

 俺はドアに手をかけ、ノブを回した。どうやら、鍵はかかっていないようだ。

「お邪魔します」

 そう言ってから、靴を脱いで上がりこんだ。

随分と非常識な事をしているはずなのだが、なぜだか焦燥感に駆られていて、常識や遠慮などといったことに気が向かなかった。

「梅原さん、いますか?」

 そう呼びかけても、返事は無かった。リビングに入るが、電気が付いているだけで、梅原さんの姿は無い。どうしたのだろうか。

 そんな疑問を抱いていると、どこからか鳴き声のようなものが聞こえた。ナァオ。そんな感じの声だったと思う。

 その声は、リビングの隣の閉じられたドアの向こうから聞こえた。俺は息をのんで、そのドアに近づいた。

 再び、鳴き声が聞こえた。ナァオ、と鳴いている。猫の鳴き声だった。

 この部屋は何なのだろう。寝室だろうか。そんな軽い気持ちで、扉を開いた。そのおよそ十秒後、俺は激しい後悔に見舞われた。

 梅原さんは居た。壁に半身を預けて。

 裸であった。一糸まとわぬ姿だった。しかし、後悔したというのは、梅原さんの裸をみてしまったから、などという理由ではない。

 彼女は真紅に染まっていた。首元から下は、さながら真っ赤のドレスのようだった。こんな状況でそんな比喩を使うのは間違いかとも思えたが、そう見えたのだ。

 白い肌と、真紅の血液。白と赤。ああ、クリスマスの代表色じゃないか。何故こんな状況で目にしなければならないんだ。

 ふと、思った。梅原さんは生きているのだろうか。

 依然として俺は、部屋の外から呆然と中の様子に目を向けていた。ここからでは、彼女の生死は分からない。部屋に入る光の照らす範囲が少ないせいか、どれだけの出血量かも、正確には分からない。ただ、首から流れ出たであろうそれは、彼女の体を染め上げ、床にまで達していることだけが分かった。

 そんな、一刻を争う状況なのに、俺は呆然としていた。微かに聴こえるクリスマスソングが、ゆるやかに脳内で旋回している。

 怖気づいていたわけではない。錯乱していたわけでもない。ただ、何かがおかしくて、俺の体は動かなかった。今日は、特別な日の筈なのに。

 思って、気が付いた。ああ、何も特別なことは無い。たかが平凡な一日ではないか。人が浮かれるだけで、たかがひとくくりの時間だ。永遠に近い時間軸の中の、ひとまとまりの時間なのだ。しかし、今日が俺にとって正常な一日でないことは確かである。梅原さんと学食で談話し、彼女の家に誘われた。それだけでも充分、普通ではない。特別な、飛び上がるほど嬉しい特別な日だ。ただし、それだけで良かった。

 ナオ、という声が耳に届いた。気付くと、足元に一匹の猫がいた。金色の瞳で俺を見上げている。

ああ、また普通じゃないことが起こった。何故今日は、こんなにも変なことばかりなんだ。まじまじと俺を見るその猫は、紅かった。頭の先から、脚の先まで。

俺はしゃがみ込んで猫を見つめた。やはり、紅い。何故なのかは容易に想像できた。しかし、血だまりの中にいたというだけで、こんなにも全身が紅くなるのだろうか。

ともかく、梅原さんの出血量がそれだけ多いということに違いない。

そこでようやく、救急車を呼ばなければ、という使命感が訪れた。早く、一刻も早く。

おぼつかない指で番号を打ち、回らない舌で状況を説明した。

僅かばかり落ち着いたのか、梅原さんに目を向けた。早く彼女の容態を確認しなければ。

俺は立ち上がり、少しだけ勇気を出して部屋に入った。電気のスイッチを手で探ると、案外すんなりと見つかった。

パチン、という軽快な音がして部屋に明りが灯ると、部屋の全体が明らかになった。

広い部屋だとか、机以外に物が無いだとか、そんなことは全くといっていいほど、意識の外であった。

大量の猫がいた。しかし全て、死体であった。部屋の隅にそれらは、積み上げられていた。瞬間、凄まじい吐き気が体を駆け上がった。

酷く醜悪な光景だった。おびただしい量の血と、猫。毛色も大きさも様々な猫が、雑然と。

ナオ。訴えかけるような鳴き声が聞こえた。紅い猫は俺の脇を通り抜けると、隅に置かれた机に乗った。そして再び鳴いた。さながら、そこへ導くように。

俺は上手く機能しない足を引きずって、机に寄った。

血しぶきの飛び散った机の上には、ぽつんと、ノートが置かれていた。

俺はただ無心で、それをめくった。



ナオ、と鳴いておくれ。凛と澄んだ君の声は美しいのだから。ああ、君のしなやかな体躯が紅であったなら、どんなに完璧だろう。

許しておくれ。どうか、許しておくれ。

君の同族を殺めることを、どうか許しておくれ。

紅が必要なのだ。君の中に流れるそれと、同様の紅が。

ああ、梅原さん。君は日増しに完璧になってゆく。それが羨ましい。狂おしいくらいに、羨ましい。

僕も君ぐらい、完璧であれたら良いのに。そうだ。僕も君の名を名乗ろう。完璧な君を。ならば僕も、完璧になれるじゃないかい? そうだ。そうしよう。

君はもうすぐ完璧になれるよ。僕の信ずる完璧な紅に、なれるのだよ。ああ、素晴らしい。でも何か足りない。まだ、完璧じゃない。君に流れる血潮の色の筈なのに、何か足りない。何が足りないのか、分からない。

そうか、同族だけでは、足りないのだね。完璧に近付こうとも、そうなることは出来ないのだね。ならば、他の紅が要る。

ああ、そうだ。彼の紅ならどうだろう。きっと、梅原さんも気に入るだろう。さあ、その準備をしなくてはならないね。彼ならきっと、喜んで僕へのクリスマスプレゼントになってくれるだろう。

許しておくれ、佐久間君。




そこまで読んでノートを閉じた。吐き気だとか、嫌悪感の類は無く、むしろ物足りなさに近い何かを感じた。

「梅原さん?」

 応えるように、猫はナオと鳴いた。随分とおかしな名前の猫だ。

 俺は何も考えずゆっくりと、塩田和美に寄った。あらためて、まじまじと首元を見ると、喉笛は無残に裂かれていた。まるで動物に噛み千切られたような傷だ。

「お前がやったのかい?」

 猫に向けて問いかけた。猫はただ、ナオ、と鳴くばかりであった。

 当たり前だよなあ、と呟いた。

 自分の同族が主人の手で次々殺されていくのだから。

 ふと、彼女は狂っていたのだろうか、という疑問が浮かんだ。が、すぐにその答えが出た。

 彼女は正常であったのだろう。一般的にみれば、いや、この行為だけを切り取って見れば、誰もが異常と感じるだろう。しかし誰しも、他人と相容れぬ部分を持っている。他人がどうしても理解できない一面を持っているのだ。彼女の場合、それがたまたまこの行為だったというだけなのだ。おかしなことなど何一つ無い。

 もしここで彼女が飼い猫に喉を食い千切られていなければ、俺は殺されていたのだろうか。深く考えなくても答えは出た。殺されていたに違いない。しかしなぜか、恐怖の類は感じなかった。寧ろ、虚しさだけが心にあった。

 彼女になら殺されても良かったかもしれない。そんな気持ちだった。不思議にも俺は、殺されなかったという事実に不満さえ覚えていた。

「これから、どうしようか?」

 誰にともなく呟いた。梅原さんに向けて言ったのかもしれない。猫の方か、彼女の方かは別として。

 ナオ、という声とともに、君の好きにするがいいさ、という声が聞こえた気がした。

 時刻は零時を過ぎ、日付は二十五日へと、クリスマスへと移行していた。何一つ特別ではない、ひとくくりの時間へと。

 クリスマスソングをかき消すような、やかましい音が聴こえた。