先日、江戸川乱歩の『鏡地獄』を読みました。短編怪奇小説です。
語り手である男(以下「K」)の、友人である「彼」に関する物語。具体的に書くと、鏡に魅了された「彼」が両親の遺産を使って鏡に関する様々な実験を試みるという話です。
読後の印象としては、冷え冷えとした感じを受けました。語りのなかで「K」は、終始、「彼」に対して献身的なまでに付き添っています。「彼」の友人が次々と離れていくなか、「K」は「彼」の実験室にしばしば出向き、異様な実験の数々に付き合ってきました(助手的に実験の手伝いをするのではなく、「彼」の実験成果を目にする、というかたちで)。最終的に「彼」は内部が鏡張りの球体に入って発狂してしまうのですが、戦慄する小間使いをよそに球体を壊して「彼」を救出したのは語り手の「K」です。部分部分の、友人として「彼」に接する「K」に注目すると、決して冷えた印象は受けないであろうと思います。それなのになぜ、この作品に冷えた読後感を持ったのか。それはこの小説の「語りの環境」にあるのではないかと思います。
「語りの環境」は、「彼」の話に入る前の冒頭部ですべて説明されています。先ほど私は、語り手、という言葉を使いましたが、それはこの小説自体の語り手という意味ではありません。少し説明すると、「彼」という人物がKによって語られ、それを友人の「私」が聞いている、という構造です。小説における語り手はあくまで「私」です。『鏡地獄』はこういった多重構造のもとにある作品であり、冷えた印象を解くうえでも「この小説が誰の視点にあるか」という点は重要なので説明させていただきました。
次に、「K」が「彼」に関して語っている環境については、冒頭部分に書かれています。「私」と「K」を含めて五、六人の者が怖い話や珍奇な話を語りあっていた、とあります。友人同士で奇怪な話を披露しあう、というのは若い頃に何度か経験した人も多いかと思います。軽すぎず、重すぎない、そんな場です。そこで、「K」は上記した「彼」に関する、あまりにショッキングな告白をおこないます。場違いかとも思えるような、刺激の強いエピソードを。「私」は「K」の語りについて、本当か嘘かは分からない、としている。
友人たちとの語りあいのなかで「彼」の発狂話を「珍しい話」と言って平然と語る点、または嘘であったとしても鏡に関する「K」の興味(欲望、とも言い換えられるかもしれない)が語りの内部にあるのではないかという点(嘘を語るにしても自分の内部にあるものを元手にしなければならない、という前提)、それに冷え冷えとした印象の源泉があるかというと、私の場合はそうではありません(むろん、ひとつの要因ではありますが)。
小説内でキーワードになっているものとして、「気ちがい」という表現が挙げられます。狂ったような状態、正常な状態とはかけ離れた状態のことです。「彼」の発狂のほか、冒頭部でも「気ちがい」という言葉は使われています。「話すものも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていた」、という文。話し手も聞き手も、正常ではない、ということが表されています(むろん、「私」の視点から)。個人的な感覚で言うと、「気ちがい」とは、客観的に言動が理解不能な状態にある人物を指している、と思っています。どの方面の知識があっても、決して理解が及ばず、恣意的に解ったような気にしかなれないような、そんな状態。これを『鏡地獄』内の「気ちがい」という表現に当てはめると、「彼」の発狂とその理由が解明不可能であること、「K」が易々と「彼」の発狂を語ること、それに対して「私」がなぜか心打たれること、これらに一方通行的な恣意性が認められます。「K」は「彼」の発狂について恣意的に(または、なんとなく)理解し、「私」は「K」の語りに「なんとなく」心打たれました。
少々飛躍させて考えますと、このように一方通行的な恣意性がまかり通る理由に、他者理解の不可能性と、それに対する開き直りがあるかと思います。他人は決して理解できない、だから恣意的な判断が有効である、という思考です。それが「気ちがい」という言葉の蓑(みの)をかぶって平然と目を光らせている。そこにこそ、私は冷え冷えした印象の大元があったと考えています。そしてまた、それを江戸川乱歩が意図的に表出させていることも。
私が冷えた印象を受けたことも、辿っていくと江戸川乱歩の「構成の妙」に行きつくわけです。巧みな、あまりにも巧みな作品でした。
