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ステレオ・タイプ

つらつらと、とりとめのないことを書いています。拙作ですが、小説も載せています。


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 近頃、江戸川乱歩の短編をいくつか読んでいますが、巧みな構成力に感嘆するばかりです。


 探偵小説という一ジャンルの先駆者であったエドガー・アラン・ポーからペンネームを取った江戸川乱歩ですが、彼が探偵小説を躍進させた一人であることは今現在では疑いようのない事実としてしばしば語られています。


『心理試験』、『二銭銅貨』も探偵小説として位置づけることができる類の作品です。江戸川乱歩の処女作である『二銭銅貨』。職業作家として立つことを決意した作品である『心理試験』。どちらも洗練された構成が光る作品です。ただ、私としては『二銭銅貨』に評価を、『心理試験』に残念を感じざるを得ませんでした。


 まず、『二銭銅貨』について。これは探偵小説の枠組みのなかにありながら、その枠に大きく揺さぶりをかける作品である、と私は読みました。


 それはなぜか。


 エドガー・アラン・ポーの作り上げた探偵小説の骨子についてごくごく簡単にいうと、探偵がいて、探偵よりも少々頭脳の劣る助手が語り手となって事件を解いていく、というものです。かの有名なシャーロック・ホームズシリーズ、森博嗣のS&Mシリーズなどに継承されている、今となっては伝統的なエンターテイメント的手法です。また、谷崎潤一郎『途上』などの短編完結モノにも使用されています。探偵小説を定義づけるうえで外せないであろう骨組みがこの探偵と助手の関係性です。


 さて、『二銭銅貨』はこれに当てはまるのでしょうか。広く捉えれば、当てはまります。ただ、『二銭銅貨』にはこの探偵と助手という枠組みを破壊しよう、という挑戦的な意欲が描かれています。説明すると、『二銭銅貨』において「探偵」として扱われていた「松村」という人物は、物語のラストでは「助手」でしかなかったことが書かれているのです。大泥棒の隠した大金を見つけるためにどんどんと謎を解いていく「松村」に対して、「私」はなにも知らされないまま、いわゆる事件の解決までサラリと過ごしています。解決までの部分では「松村」が優秀な探偵役であり、「私」は探偵に劣る助手役であるわけです。ここまではポーの築いた伝統的な流れに沿って展開します。しかし、最終部で、大泥棒の隠し財産に行きつくまでの暗号などを用意したのがすべて「私」であったことが判明します。つまり、優秀であったはずの探偵役が、じつは助手役の手の中で転がされていたわけです。ここで読み手は、本当の探偵役が「私」で、助手役が「松村」であったことを突きつけられます。ここにみられるのは、探偵小説における役柄の反転であり、伝統的なキャラクターの転覆です。語り手が探偵であるという事実は、しばしば助手を語り手に据えてきた探偵小説においては有効なミスリードとして働いています。この、伝統を逆手にとって形式を破壊し、価値を逆転させようとする試みにこそ(そして、その試みは見事に成功しているでしょう)、私は拍手を送りたいものです。


 一方の『心理試験』は、『二銭銅貨』とは逆に伝統を地で行く作品と位置づけられるかと思います。もちろん、犯人を追いつめる方法や、語り手の変化(悪漢小説のように、犯人の語りからはじまって、語りの視点は助手役である判事に移る)などの構成においては、『二銭銅貨』以上に巧みであることは間違いないでしょう。しかし、私は、犯人がおり、助手役が登場し、探偵役である明智小五郎が鮮やかに解決へと導く、というあまりに優等生じみたストーリーラインに首を捻るばかりです。『二銭銅貨』という、探偵小説への挑戦ではじまった江戸川乱歩が、『心理試験』によって、いわゆる職業作家としての道を選択するに至ったことが、少々残念なのです。確かに、挑戦的な作品ばかりでは売れはしても限界が訪れます。その点、伝統的なラインに乗れば、食っていけるだけ売れるでしょう(シリーズ作品、というのは一発ものの小説と比べれば遥かに集客力があり、安定感もあるものです)。むろん、伝統のなかでも勝負を続けていたであろうことは『鏡地獄』や『人間椅子』などの諸作品から読み取ることができます。


 そうした江戸川乱歩の歩みを批判することは決してできませんが、ただ、『心理試験』と『二銭銅貨』のどちらが優れているかと問われれば、私は後者を挙げざるを得ないのです。