近頃の私は、江戸川乱歩の短編を好んで読んでおります。恥を隠さず言ってしまうと、今まで江戸川乱歩の作品など触れたことすらありませんでした。それなのに学友との文学議論、特に文学史議論になると頻繁に乱歩の名を持ち出し、それにかぶせるようにエドガー・アラン・ポーの名前で探偵小説論をくくってしまうような、そんな浅薄極まりない人間であることは、私自身も認めざるを得ません。乱歩を知らぬのになぜ探偵小説論を展開するかといえば、それは私が『ル・モルグ』を読んでおったからです。
私語りはこの辺にとどめておいて、なぜ江戸川乱歩を読むに至ったのか、また、好むほどに惹きつけられたか、を綴っておかねばなりません。ごく単純な話なので端折っても良いのでしょうが、今の私の気分ですと、書かぬわけにはいられないような、そんな心地なのです。
私は乱歩の本を知らなければ、また、手に入れる気もなく、六畳一間の下宿でゴロゴロと安部公房を読む日々が続いていました。しかし、すべての行為が期限付きの約束手形であるように、無限に楽しめると思っていた安部公房さえも、私は飽きつつありました。黄ばんだ頁の余白に、行と行の間に、退屈が陰を落としていました。そしてとうとう私は、長らく好んでいた安部公房を放り投げたのです。エエット、タイトルはなんだったか、夢、という一字が入っていたように思うが、しかし、今となっては思い出すのは難しいことです。
しばらく煎餅蒲団の上で天井の木目を眺めていると、唐突に、押し入れの奥の奥に、以前知人からごっそり譲り受けた種々雑多な本があることを思い出しました。そうして私は起き上がり、押し入れから段ボール箱を引っ張り出したのでした。
そのときのことを思い出すと、今でも複雑な気持ちになります。箱のなかには雑然と、それこそ折り目も気にしないような具合でごちゃごちゃと本が身を寄せ合っているのでした。貰い受けてから一度も目にかけなかった本ですから、仕様のないことでしょう。しかし不覚にも、本の墓場だ、と思ってしまいました。嫌だなあ、と思いながら無作為に一冊の文庫本を取り上げますと、あの、ぬっぺりとしたトンネルの模型が現れました。そう、『江戸川乱歩傑作選』の表紙です。そこではじめて私は、ああ、実は意図せずも私は乱歩を持っていたんだな、なんて思ったものです。目次をめくって、「人間椅子」のあるのを確認すると、私は蒲団の上に腰を下ろして、「人間椅子」を読み始めました。大した作ではないだろう、などと得意になって、ゴロゴロとしながら読み進めました。
そうして気が付くと、私は『江戸川乱歩傑作選』を壁に立てかけておりました。むろん、足は正座です。文庫本をチラと見つめ、ごくゆっくりとした動作で、深く深く頭を下げておりました。いわゆる、土下座でしょうか。文学史議論でポーの二番煎じでしかないなどと酷評した私を、読んですらいないのに蔑んだ私をどうかお許しください、という心持であった。
巧みな構成力、抜群の発想力に私はすっかり魅入られてしまったのです。また、彼の文体が、容易に飲み込むことが可能な懐の深い文体であったため、その点も好感を持たずにはいられませんでした。
さて、長い導入でしたが、ここからが本題なのです。
私はひとつ、短編を読み終える度毎に、私自身の挙動というものがどんどんと大胆になっていくのを感じました。「鏡地獄」読了後には、偶然持っていた凹レンズを長らく見つめていました。「D坂の殺人事件」は途中でなんともウズウズとして、思わず近所の喫茶店に入って珈琲を飲みながら、続きを嗜んだものです。どの作品にも私は特別の行動を持って迎え入れたのですが、それを詳述するのは本記事の目的ではないので省かさせていただきましょう。
さて、私はいよいよ件の「赤い部屋」を読み始めました。冒頭数行、この小説の雰囲気や舞台装置というものを掴んだ私は、早速、「赤い部屋」にのめりこむべく、電燈を消し、一本の蝋燭を立てました。ウン、と納得して読み進めると、まあなんとも雰囲気と合っていることでしょう。未読の諸君のために一言を付すなら、蝋燭の薄明りのもとで読むべき代物です。私の捉えたとおりの、一種不可思議な、幻想的な雰囲気でもって物語は進行していきます。私はさながら赤い部屋倶楽部の一員にでもなったつもりでT氏の告白に耳を澄ませていました。実際には、目を鋭くさせていただけですけれど。
そうしていよいよ、ラストです。
紙面の銃声は私の耳に轟きました。思わず、身動きもできないほど。
そして、思うのです。嗚呼、恐れていたことがおこってしまった。そう、私は予想していたのです、この悲劇を。小説の出来事は往々にして、起こるために起こるものですから、起こらないわけがないのですが、気分のうえでは赤い部屋倶楽部の一員であった私は、動揺しながらも、この奇怪な悲劇に思い巡らすほかないのでした。それはちょうど、語り手である「私」と同様に……。
そうして、最後の頁をめくると、急に、鼓動が速くなりました。死人が立ち上がり、笑うのです。そうしてT氏はタネを明かし、赤い部屋を赤い部屋たらしめていた幻想的な薄暗闇は、突如点いた電燈によって、あまりにみすぼらしいものへと推移する。
部屋の電燈を点けると、こらえきれず口元が歪みました。そうしていよいよ、私は笑ってしまいました。T氏のあまりに鮮やかな手口に、感動を抑えきれないのです。よくよく思えば、あの、赤い部屋倶楽部の空間はいかに薄気味悪く、悪趣味で、おまけにちっぽけだったろう。それに浸っていた私自身も、よほどちっぽけであるに違いない。
T氏の銃弾は玩具だった。
しかし、彼は撃ち抜いてみせたのだ、無意味で気味の悪い幻想を。そうして丸い風穴からは、なんのことはない、現実の光が注ぐのである。
-------------------------------------------------------
今回は少し、創作的に書いてみました。いかがでしょう。では。
