こんにちは!マロンですほっこり

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↓続きです↓


コレ以外に

やっていたこともたくさんあるのだが


私はひそかにやるのが昔から好きだった。




小学生の頃、嫌なことがあると私は

家のトイレ掃除をする習慣があった。


自分で決めた開運への行動なのか

自分でもよくわからないのだが


いい事が起きる気がして

自ら誰に言うでもなくやっていた。




大人になって

『トイレの神様』という歌が流行った。


私がやっていたことは合ってたんだな〜

と感動したのを覚えている。






あとは寝る前に呪文のようなものを

唱えていた時期もあった。



言っておくが別に

イジメられてた、とかじゃない。笑


学校では賑やかな方だし

学校に行くのが嫌だと思ったことはない。




コレは嫌なことがあった日に

してたわけではなく


毎日のルーティンとなっていた気がする。




机の中にキャラクターなどの

小さなおもちゃなどをきれいに並べていた。


そのキャラクターの

頭文字を一文字ずつとって


意味のない、ひらがなの羅列を

寝ながら心の中で唱えていた。



そして

『明日も良い日でありますように』

と付け加えて寝ていた。



その中にガーフィールドのゴム製の

小さな人形があったのだけ覚えている。


汚れて落ちていたのを

なぜか拾ったのだ。


汚れたガーフィールドを今でも覚えている。





なんでそんな事をしていたかというと

きっと家庭環境のせいもあると思う。



うちの親はいわゆる毒親と呼ばれる類だと

気付いたのは40歳になったときだった。


それまで気付かなかった。




私が小さい頃から母は私の話など

聞けるキャパなど持ち合わせてなかった。



何か嫌なことがあると

私に手紙で訴えてくる人だった。


狭いアパートなのに手紙なのだ。



あなたのためにしたのに、

あなたは理解してくれなくて傷つきました。



だいたい内容はこれだ。

それを手紙5枚くらい書くのだ。


どれほど傷ついたか、

どれほど家族の為に

自分が犠牲になってるか、を。



小さな私はそれを真に受け

申し訳ない気持ちでいっぱいになり

いつも母に泣いて謝っていた。


謝る私に対し、母はこっちを見ずに

わかればいいのよ

くらいの雰囲気を出していた。




私が全面的に悪い


を、しっかりと植え付けられた。

そんなはずないのに。




私が嫌なことがあった日に母に話しても

私の目も見ずに『あ、そう』くらいなもんだった。



深く傷ついた私は

この人に話しても無駄だな、と感じ

それから母に話そうとは思わなかった。


嫌なことがあればノートに出来事を書いて

脳内を整理し、相手の気持などを推測し

出来事を理解して納得する術も身につけた。



なので私は多分、大人になっても

人に相談する、不安を口にする、

という事がかなり身についていないのだ。





だが、よくも悪くも、俯瞰の目や

空気を読む力はそうとう養われた。



だから今回の脱毛という困難にも

独自の判断や独自の決断が多いのだろう。



よくも悪くもだが私の家庭環境が

活かされたのかもしれない。




ここにも書いたが↓



私は人生の伏線回収してるのかもしれない。

いや、しようと決めているトコもある。



独特な家庭環境が私を創ったなら

それを活かすような脚本があるはずだ。


私は逆説を信じている。



見事なハッピーエンドに向かって

今、舵を大きく切ってる最中なんじゃないか。



どこかでそうソワソワと

期待している自分がいるのだ。