高崎市新町のひな祭りが、明治天皇新町行在所をメイン会場に3月3日まで開催されています。

 

 

 

 

スサノウノ命は、日本書紀では「素戔嗚尊」、古事記では「建速須佐之男命」と表記され、黄泉国から戻ったイザナキノ命が日向の阿波岐原で禊を行った際に最後に現れた三貴子の一柱とされています。三貴子とは、アマテラス大神、ツクヨミノ命、そしてスサノウノ命です。古事記によれば、イザナキノ命は三貴子が生まれたことをとても喜び、アマテラス大神に高天原を、ツクヨミノ命に夜食国をスサノウノ命に海原を治めるように命じました。

しかし海原を治めることを命じられたスサノウノ命は、まったく仕事をとようとせず、母親に会いたいと泣き叫んでばかりいました。強い力を持つ神が泣き叫ぶものですから、地上の樹木は枯れ、川も海も干しあがり、世界中には悪神がはびこって、災いが次々に起こります。これに怒ったイザナキノ命は、ついにスサノウノ命を見放し、追放することにしたのです。

追放が決まったスサノウノ命は、姉であるアマテラス大神に別れを告げようと高天原へ向かいましたが、乱暴狼藉を繰り返して天岩戸の騒ぎを起こし、ついに高天原からも追放されてしまいます。この時、スサノウノ命は贖罪の品を取り立てられ、髭や手足の爪を切られてその罪の穢れを祓われたうえで地上に追いやられました。スサノウノ命の乱暴者のイメージがガラリとかわるのが、この後、出雲に降り立ってからです。

 

―山口県の昔話―

周防の国の太陽寺に、天徳曇貞(てんとくどんてい)というえらい坊様がおった。

村の人々からは「どんてん様」と呼ばれて親しまれておった。太陽寺は寺の境内のどこを掘っても水が出ず、水は雨水をためるか、遠い谷川まで水を汲みに行くしかなかった。

 

 

ある日の事、どんてん様が小坊主さんたちと本堂でお経を読んでいると、空から雷様が落ちてきた。雷様は「お騒がせして大変申し訳ない」と丁重に詫びると、寺の境内の一本杉に登り、そこから天に帰ろうとした。

雷様が杉の木のてっぺんまでついたときに、突然どんてん様は雷様に対して「おつち」と呼びかけた。人間に名前を付けられた雷様は、天に帰ることができないのである。こうしておつちは、寺で小坊主さんたちと一緒に修行することになった。

毎日谷川まで水を汲みに行くのが、おつちの主な仕事になった。寺での生活に慣れないのか、おつちはやせていったが、それでも愚痴ひとつこぼすことはなかった。

ある夜の事、どんてん様の夢枕におつちの息子が現れた。父親が落ちたのは自分のせいで、父親を返してほしいと涙ながらに訴えるのであった。同じ夜、おつちも夢の中で、息子から「早く天に帰ってきてほしい」と訴えられた。

 

 

翌日、どんてん様はおつちに「天に帰りたいか?」と尋ねた。おつちは「私はまだ修行の最中です。修行を途中で投げ出すわけにはいきません」と答えた。おつちの答えに感心したどんてん様は、おつちに天に帰るように言った。

おつちは、夢の中の息子から言われた通り、杉の木ではなく寺の境内の岩に手をかけて、天に帰って行った。するとその岩からは水があふれ出し、それから太陽寺では水に困るようなことはなくなった。

この岩からあふれ出した水は「雷水」と呼ばれ、太陽寺では大切にされたという。

 

出典:まんが日本昔ばなし〜データベース〜

新美南吉


 仔牛が ある 日 お父さん牛と お母さん牛の ところへ いつて、「父ちやん 母ちやん、あたい 體の 中が むぢゆむぢゆすんの」と いひました。お父さん牛も お母さん牛も すつかり よろこんで よだれを たらしました。そして お母さん牛が いひました。
「坊や その むづむづするのはね、今に 坊やの 體から 何かゞ 生えて くるのよ、さあ それでは、あの 丘の 南の なの花の 中へ はいつて、ぢつと すはつて ゐなさい、何か 生えて くるまで 待つて ゐなさいね」と いひきかせて、仔牛を 一人きり 送つて やりました。
 仔牛が いつて しまふと お母さん牛は むねを おどらせながら お父さん牛に いひました。
「ね、あの 仔は 世界中で 一番 美しい 仔牛だから、今に きつと 肩の 下から、いつか ほら 丘の ふもとで 池の 上に うかんでた あの 白鳥のやうな 美しい 白い 羽が 二つ 生えますよ」けれど お父さん牛は 大きな 顏を 横に ふりました。
「なにを 馬鹿な。けものに 羽など 生えるもんか。けものに 生える ものは 角に きまつてる。だが あれは、なかなか 勇ましい やつだ。だから きつと 鹿の 角みたいに りつぱな、枝の ある 角が できるだらう」
「おゝ いやだ、あんな みつともない もの。あんな いやな ものが あの かはいゝ 仔に 生える ものですか。きつと 羽が 生えます。もし あの 仔に 羽が 生えないなら わたし、この しつぽを あげても よろしいわ」
「そんな へんてこな しつぽなんか いらないよ、繩つきれの 方が よつぽど ましだ。お前が さう いふなら わしは かう いふ。もし あれに 鹿の 角が 生えないなら、わしは わしの ひづめを やらう」すると お母さん牛は 大きな 顏を できるだけ しかめて、「そんな ひづめより 道ばたに おつこつて ゐる お椀の かけらの 方が ましですわ」と いひました。
 丘の 南の なたね畑の 中で じつと まつて ゐた 仔牛の 頭に、やがて 小ちやく 生えて 來たのは、白鳥の 羽でも なく、鹿の角でも なく、ふつうの 牛の まるい 角でした。仔牛が お父さん牛と お母さん牛の ところへ かへつて 來ると 二人の 親牛は 眼を しばたゝいて よろこびました。そして いひあひました。
「まあ、よかつた。でも 何て りつぱな 牛に なつた ことだらう」

 

出典:青空文庫

ツキヨミノ命は、古事記において黄泉国から戻ったイザナキノ命が穢れを祓おうと禊をした際に生まれた三喜子の一柱です。姉はイザナキノ命の左目から生まれたアマテラス大神、弟は鼻から生じたスサノウノ命で、イザナミノ命は尊い子が生まれたと喜びました。ただし、日本書紀にはイザナキノ命とイザナミノ命の間に生まれたといる話と共に、白銅鏡から生じたとする説も記されています。

ツクヨミノ命はその名の通り月を司る神ですが、一般には農耕の神として敬われています。なぜなら「月読命」の「読」が月の満ち欠けを教える事、つまり暦を読むことを表しているからです。明治初頭までの日本人は大陰太陽暦を用いていたため月の動きで季節の変わり目を知り、これに従って種まきや稲刈りなどの農作業を行っていました。今でも月に供え物をして豊作を祈る行事もあるほどで、農耕にとって月は大切なものだったのです。その月の霊力を神格化したのがツキヨミノ命であり、人々はこの神を農耕の守護神として敬わってきました。

 

広島県の昔話―

むかしむかし、安芸の国(あきのくに)は呉(くれ)の浦(うら)、今の広島県(ひろしまけん)呉市(くれし)の呉の港のあるあたりは、三方山(さんぽうやま)に囲まれて、わずかに船で近くの島々と往き来したり、漁をするくらいの淋(さみ)しい村であったと。

それでも長者と呼ばれる家があって、美しい一人娘がおったと。

長者の娘への可愛がり(かわいがり)ようはひとかたではなく、ゆくゆくは金(かね)のわらじをはいて、金の太鼓(たいこ)で探しまわってでも、三国一の婿(むこ)を迎(むか)えてやろうと常々(つねづね)考えておったと。

娘は姫様のように育てられて、年頃になったと。 

その頃この村にひとりの貧(まず)しい若い漁師がおった。貧しいとはいえ、潮風(しおかぜ)にきたえあげられた黒光りのする体と澄(す)んだ眼を持った景色のいい若者であったと。

長者の娘とこの若い漁師が、どこでどう知り合う(しりおう)たものやら、互いに好き合う仲となり、末(すえ)は夫婦(めおと)になろうと固い約束をかわしたと。

人の口に戸は立てられん。うわさとなって長者の耳に入った。さあ、長者怒ること怒ること。

「親の心子知らずにもほどがある。この親不孝者めが」

と怒鳴(どな)って、娘を部屋に閉じ込めると、相手の若者が住むという浜へ行った。そしたら何と、砂浜に立てた小(こ)んまい掘立小屋(ほったてごや)に暮らすほどの貧乏ったれだ。 

長者の怒りに、更に火がついた。若者に、「わりゃ、こげなとこ住んで儂(わし)が娘に懸想(けそう)するたぁ、何さまのつもりじゃ。二度と会うこたならん。どこへなりと去(い)にさらせ」と、いまにもつかみかかりそうな勢い(いきおい)で悪態(あくたい)をついたと。

 

 

娘と若い漁師は、とうてい添(そ)いとげることは出来ないと悲観(ひかん)して、嵐の吹き荒れる晩、お互いの体を固くしばりあって、海に身を投げたと。海は一晩じゅう荒れた。

次の朝、二人の屍(しかばね)は荒波にもまれて離れ離れ(はなればなれ)になったのか、若者は能見島(のうみじま)に、娘は呉の浦に打ちあげられたと。

月日が過ぎて、若者が打ちあげられた能見島の浜に一本の男椿(おとこつばき)が芽を出し、それとほぼ同じころ、娘が流れもどった呉の浦でも乙女椿(おとめつばき)が芽を出した。二本の椿はそれぞれの地で大きくなった。そして乙女椿がたった一輪、花を咲かせたと。

しばらくすると、呉の浦の乙女椿が夜ともなれば怪しいまでに輝く青白い光を放(はな)ち、能見島の男椿は、それにこたえるようにかすかな光をまたたかせる、という噂が、あちこちで聞かれるようになった。

何年かの後(のち)、能見島の男椿は枯れ果ててしまったが、呉の浦の乙女椿は見上げるような大木(たいぼく)になり、一輪だった花を二輪咲かせるようになった。

呉の沖を通る舟人(ふなびと)たちは、この乙女椿を夜の舟旅の目じるしにするようになったと。

はかない二人の身の上をいとおしんだ長者は、全財産を投げ出し、この椿の木のそばに祠(ほこら)を建てて娘と若者の霊をとむらったと。以来、人々はこの椿の大木を「お椿さま」とか「椿大明神(つばきだいみょうじん)」と呼んでうやまうようになったと。

この祠は、添われぬ男女がお祈りすれば、どんな障害でも取り除いてくれ、逆に仲の良い夫婦者がそろってお参りに行けば、「お椿さま」がうらやましく思って、二人の仲をさくそうな。

いつの頃だったか、お椿さまに仲をさかれた夫婦が、腹を立てて椿の木を伐(き)り倒そうとしたことがあったが、二人は不思議な腹痛(はらいた)を起こし、狂いまわりながら海の中へ落ちて亡くなったと。 

 

 

そんなこともあって、誰も椿の木にさわる者はなくなったと。

 

出典:フジパン「民話の部屋」 

カグツチノ神は火を象徴する神で、古事記によるとイザナキノ命とイザナミノ命の間に生まれた最後の神です。なぜならイザナミノ命はこの子を生んだとき、ホト(陰部)を火傷しそれがもとで亡くなってしまったからです。この死を嘆き悲しんだイザナキノ命は、カグツチを斬り殺しました。するとその血からは雷神や水神が生まれ、死体からは山の神が次々と生まれます。カグツチの母神を死に追いやり、自らも破壊されながら多くの神々を生み出すという性格の背景には、古代の人々が火に対して抱いていた思いがあります。

古代の人々は、火がすべてを焼き尽くす破壊の力を持つと同時に、土器や鏡、鉄器など、多くのものを生み出す生成力があることを知っていました。

そのためあらゆるものを焼き尽くす火の力を恐れる一方で、必要不可欠なものとみなし、火を制御して操る力を求めたのです。この破壊と生成を司る火への思いに裏打ちされた神がカグツチだったのでしょう。

 

岡山県の昔話

むかし、備中(びっちゅう)の国、今の岡山県の殿様が、立派なお宮を造ろうと思うて、国中の大工を集めたことがあった。

たくさんの大工が集まって来たが、国一番のお宮を造れるような、腕のいい大工はおらんかった。

ある日のこと、一人の大工がお城にやって来た。殿様は、今までは、大勢弟子(でし)を連れて来る大工ばかりだったのに、たった一人で来るとは、不思議(ふしぎ)なやつだと思い、「お前、本当に一人でお宮を造れるのか」と、問いただした。大工が、 「必ず、立派なお宮を造ってごらんにいれます。そのかわり、お宮が出来るまでは、仕事場を絶対に見ないで下さい」というたので、殿様は、「面白い、一人でどこまでやれるか、やってみろ」と命令をした。

 

 

その日から、大工は、カキーン、カキーンと仕事をしはじめた。大工の仕事は一日経つと思わぬほど出来上がっている。

<一人でやっているのに、それはどうしたことだ>

と、殿様は不思議に思うた。

ある晩のこと、殿様はこっそり、大工の仕事場をのぞきに行った。すると、どうだ。一人のはずの大工が、何十人もいて、カキーン、カキーンと仕事をしている。それも、みんな同じ顔、同じ姿の大工だ。

「こ、これは、いったい、どういうわけだ。どれが本物の大工だか、見当もつかん」

殿様は、一人の大工を呼ぶと、「大工の頭(かしら)は、どいつだ」と聞いてみた。すると、その大工は、「眼(め)の所に、ほくろがあるのが、わたしたちの頭だ」と、教えてくれた。

お宮は、一日、一日、出来上がっていった。

そうして、やがて、立派な、国一番のお宮が出来た。

殿様は喜んで、喜んで、大工を呼び、「見事な出来ばえじゃ。ほうびを与えよう」というて、持てるだけの金銀を与えた。そのとき殿様がよおうく見ると、大工の目の所には、ほくろがあった。

大工が帰ろうとすると、「一寸(ちょっと)待て、ところで、仲間の大工たちはどうした」と、殿様は聞いた。大工は、何も答えず、そのまま、立ち去ってしもうた。

誰もいなくなった仕事場には、大工の姿形をした木の人形が、たくさん転がっていたそうな。

木の人形に魂を吹き込み、何十人という大工をこしらえて、お宮を造ったというわけさ。

そんなことが出来るのは、日本広しといえども、たった一人しかおらん。そう、飛騨の工匠(たくみ)という大工さ。

 

 むかしこっぷり杵のおれ。

 

出典:日本昔話データベース

イザナキノ命とイザナミノ命の間に、オノゴロ島で最初に生まれたのは蛭子(ひるこ)であった。蛭子とは、三年たっても足の立たない子という意味です。そこで葦船に乗せて流してしまった。最初に生まれた子を棄てたとするこのような記述は、古事記、日本書紀ともにあります。その後のことは分からないが、後世の人々は、神の子が簡単に死ぬはずはないとし、これを恵比寿様と呼び、七福神のひとりとして崇めました。室町時代には、大国主神の子どもで、国譲りを迫られた父の相談に応じたとされる事代主神と同一視されるようになりました。このとき、事代主神は釣りをしていたことから、恵比寿様も魚と釣竿を持った姿で描かれるようになりました。

 

―島根県の昔話―

昔、ある山奥に母親と娘が住んでいた。

二人は、大変貧しい暮らしだったので、娘は長者の家へ奉公に出ることになった。娘は、町の職人に頼んで母の顔の面を作り、母の面をもって奉公に出た。

長者の家での仕事は、朝は暗いうちから炊事・昼になったら掃除・洗濯、風呂を沸かす仕事など重労働であった。それでも娘は、一日の仕事が終わると、自分の部屋の針箱の引き出しにしまってある、母親の面と話をすることを楽しみにしていた。

 

 

ところが、娘が母親の面と話をしているところを、いたずら好きの下男に見られてしまった。下男は娘を脅かしてやろうと、こっそりと母親の面を鬼の面に取り換えてしまった。

そうとは知らない娘が、いつものように針箱の引き出しを開けると、そこには鬼の面が入っていた。「これは母親の身に何かあったに違いない」と思った娘は、夜の暗い中を自分の家を目指して走った。

やがて、暗い山道の中にぽつんと明かりが見え、そこには体格のいい3人の男たちがいた。娘は男たちに捕まってしまい、母のことが心配でしたが逃げることもできず、一晩中たき火の番をすることになった。

そのうち、男たちは賭け事を始めた。火の番をしていた娘の顔は、だんだんほてって熱くなり、持っていた鬼の面をかぶった。そうとも知らない男たちは、娘が鬼になったと勘違いし、小判も持たずにあわてて逃げて行った。

 

 

娘は、無事に家に帰ることができ、もちろん母も無事だった。娘は、男たちが忘れて行った小判をすべて奉行所に届けたが、お奉行様は「おまえの親孝行に免じて神様がくださったんだろう」と、すべて小判を娘に与えた。

その後、娘は母と一緒にずっと幸せに暮らしたそうだ。

 

出典:まんが日本昔ばなし〜データベース〜