高崎市新町に鎮座する「於菊稲荷神社」は、天正10(1582)年の神流川合戦の際、白い狐が現れて北条氏が勝利を収め、これに感謝して稲荷神社の社を構えたと伝えられています。そのため、神社には土焼の白狐が多数納められています。この神社が「於菊稲荷神社」と呼ばれるようになったのは、宝暦年間(1751~63)に、新町宿の妓楼・大黒屋の娼妓(遊女)に、新潟の貧農の娘でお菊と呼ばれた女性がいました。お菊は美貌で気立てが良く、新町随一の売れっ子でしたが、ある日、風邪をこじらせて、足腰が立たない程の重病となってしまいました。すると、大黒屋の待遇は一変し、行燈部屋に寝かせるという冷たい仕打ちをするようになります。これに同情した町の人々は、稲荷神社の裏に小屋を建てお菊を住まわせ、交替でその看病にあたりました。ある夜、お菊の枕もとにお稲荷さんが現れ、病は奇跡的に全快します。お菊は、その恩に報いるため稲荷神社の巫女となるのですが、ある時から、作物の出来具合や人の吉凶、失くし物のありかまで様々な事を言い当てるようになります。そこから、この稲荷神社を誰言うともなく「於菊稲荷」と呼ぶようになりました。 

 

 

 

御菊稲荷神社の水屋

この水屋は文政6(1823)年新町の人々の浄財により創建されました。建物は総欅、入母屋造りの重厚な水屋で、瓦屋根、彫り物も一見の価値あります。石水盤は、唐獅子牡丹が、「冰香」(ひょうこう)と刻まれた水盤を支えています。

 

 

 

於菊稲荷神社の逸話や奉納されている絵馬(高崎市指定重要文化財)でも見られるように遊女や飯盛女といった職業も成立していたようです。文化7(1810)年5月11日には小林一茶も新町宿の旅籠高瀬屋に宿泊して、しつこく神流川の灯籠建立の寄付金をせがまれた様子を日記に記し、「手枕や 小言いうても 来る蛍・・・」と一茶七番日記に記載しています。

岐阜県の昔話

昔、岐阜の中野村というところには、沢山のキツネが住んでいました。

 

ここのキツネたちは「桑下」「羽白」の二派に分かれて、いつも喧嘩ばかりしていました。桑下チームには三吉という男キツネ、羽白チームには小女郎という女キツネがいました。

 

ある喧嘩の最中に、三吉と小女郎が出合いました。三吉は、小女郎がメスだとわかると力勝負を避け、化け比べをすることで勝敗をつける事を提案しました。この提案にのった小女郎は、ある月の美しい晩に勝負することにしました。

 

この時、三吉は殿様行列に化け、小女郎はおいらん行列に化けました。どちらも素晴らしい化けっぷりで、化け比べをしている最中に二人は恋に落ちました。

 

 

この二人の禁断の恋に、それぞれのチームは激怒し、二人を合わせないように監禁しました。やがて、小女郎に会いたくてたまらなくなった三吉は、見張りのキツネを殴り倒して、小女郎が監禁されている羽白へ向かいました。

 

しかし、小女郎を見張っているキツネたちにボコボコに殴られて、その傷が元で三吉は死んでしまいました。小女郎は悲しみのあまり、後を追うように川に身を投げて死んでしまいました。

 

 

この事で、それぞれのチームは「こんな事だったら結婚させてやれば良かった。もう喧嘩は止めだ」と言って、自分たちの愚かさを反省しました。そして、中野村の人たちは「三郷稲荷」を建てて、三吉と小女郎をまつりました。

 

出典:日本昔話データベース

明治天皇が明治11(1878)年、北陸・東海道各地の巡幸のおり、国立屑糸紡績所へ行幸されるとともに、9月2日新町に宿泊することになり、宿泊所として旧本陣が宿駅の西よりであることと、警備上問題があるとして、新築することに決まった。しかし、建設費788円に苦慮し、全町からの浄財と県からの借用金550円を合わせこれに当てた。行在所を新築して天皇をお迎えしたのは大変珍しく、その後羈客所と称し、翌明治12年には英照皇太后伊香保行啓の時の宿泊所にもなっています。平成3年12月7日高崎市指定史跡に指定されています。

 

 

岐阜県の昔話

昔、岐阜の立花に地蔵坂峠という峠があった。

 

ある日、飛騨からやって来た一人の大工がこの峠を通りかかった。すると突然霧が出てきて、その中に六角のお堂がぼんやりと現れた。よく見ると、お堂の前に一人の坊さんが、何か言いたげで寂しそうな顔をして立ちすくんでいた。

 

 

不思議に思いながら峠を下り、寺があったので住職に今の出来事を話した。その話を聞いた住職は「うんと昔、たいちょう(泰澄?)という坊さんがあの峠の頂きにお堂を建てて、旅人の安全を願ったり茶の接待ををしていたそうだ。たいちょうさんが亡くなられてからは、とうとう朽ち果ててしまった」と話した。

 

それを聞いた大工は峠に戻り、峠の木で幻の中に見た六角堂を作り始めた。大工は鬼気迫るような勢いで六角堂を作りはじめ、次の日の昼、六角堂は出来上がった。住職は、これが話に聞く名大工「飛騨の匠」ではないかと思った。

 

それからしばらくした日のこと、一人の男が六角堂を眺めていた。男は「よほどすごい腕前の人が作ったのだろう」と感心していた。そこで住職は、旅の大工が丸一昼夜でこのお堂を建てたことを話して聞かせた。男と和尚が六角堂の中も見ていると、さっと風が吹いて六角堂の入り口の扉が閉まり、中に閉じ込められてしまった。

 

住職は扉を開けようとしたがまったく開かない。旅の男は「これは中からは開かない」と言って、ノミを取り出すと木片を削り始め、まるで生きているようなカラスを彫った。その木彫りのカラスは、男の手から飛び立つと、六角堂の外に飛び出し、大きな声で鳴き始めた。

 

 

そのカラスの声に呼び寄せられるように、たくさんのカラスが集まってきた。あまりのカラスの数に驚いた村人達はただごとではないと思い、地蔵坂峠の上に集まってきた。村人たちによって、住職と男は外に出ることができた。

 

住職は「この間の大工は飛騨の匠、あの男は話に聞く『左甚五郎』ではないか」と思った。こうして霧の中に現れたたいちょうさんの願いが叶い、人々に忘れられていた六角堂が再び地蔵坂峠に出来上がった。そしてこの六角堂は、旅人の安全を願って今も長良川の上流、立花の地蔵坂峠の頂上に建っているということだ。

 

出典:日本昔話データベース

高崎市新町の旧中山道沿道に江戸時代後期の俳人小林一茶が宿泊した「高瀬屋跡」があります。一茶はたびたび江戸と信濃を往来していました。「七番日記」の文化7(1810)年5月11日に次の記述があります。「前日の雨で烏川が川留めとなり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前4時)頃に起こす者あり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の人がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が度々の洪水で流失するので、石灯籠を建てるため寄付をお願いされる。一度は断ったが、少ない所持銭より十二文を寄進することになった」。

 

 

 

「高瀬屋」があった場所の史跡看板の隣には、立派な石の説明板が建っています。それを見ると、「最近まで旅籠屋の姿を遺していた」とあります。 探してみると、平成元年(1989)発行の「新町町誌」に、かろうじてその姿が載っていました。一茶の「七番日記」というのは文化七年(1810)~十五年(文政元年/1818)に書かれた日記で、その中に、父の墓参のために江戸から故郷の信州柏原へ行く途中の、「高瀬屋」でのエピソードが記されています。
 

 

一茶が江戸を発ったのは文化七年五月十日、一茶、四十八歳の時です。新暦では六月なので、梅雨時の天気を見ながら延ばし延ばしの出立だったようですが、結果は「災いの日を選りたるよう也」と嘆いています。出立したその日に上尾でさっそく雨にあい、合羽を買ってさらに歩いて鴻巣宿で一泊します。江戸日本橋から鴻巣宿まで12里8町6間(約48.0km)ということですから、かなり頑張って歩いたんです。翌十一日も雨で、その中を鴻巣宿から新町宿まで11里22町34間(約45.7km)の距離を歩いています。それほど頑張って歩いてきたのに、雨で川留めにあい、「道急ぐ心も折れて」と言っています。そのうえ、「雨の疲れにすやすや寝て」いたら、「夜五更(よるごこう)のころ」にいきなり起こされて寄附をせがまれたというのですから、さぞかし、むっとしたことでしょう。史跡看板では「夜五更」を「午前四時」と言っています。

岐阜県の昔話

昔、美濃の国の全昌寺(ぜんしょうじ)という禅寺がありました。全昌寺は大変修行の厳しいお寺でそんな辛い修行の中でも特に辛かったのは食事でした。

 

弟子は増えて も食事に使われる米の量は決まっていたので、弟子が増えるに従って食事は天井が写ってしまうほどの薄い粥になり、お弟子さんはそれを誰ともなしに「天井粥」と呼んでおりました。そしてそんな天井粥を食べ続けるうちにお弟子さんはみんな歯を弱らせてしまい、歯痛に苦しむお弟子さんは増えていきました。

 

 

その寺で修行する禅栄(ぜんえい)さんというお弟子さんは、歯茎が腫れて酷く痛むようになりました。歯痛をこらえるのも修行のうちだと思った禅栄さんは歯が痛いのを誰にも相談せずにいましたが、それは日に日に悪化して痛みは全身におよび眠ることも出来なくなっていきました。

 

それでも修行に参加していた禅栄さんですが、あまりの苦痛に座れなくなり、座禅を組む修行中に和尚さんの居ない隙をついて仏の前座に置かれている箱型の前机の中に入って声をころして痛みをこらえていました。

 

 

戻ってきた和尚さんは、禅栄さんが居ないことに気づくとすぐに探し出すように言いつけましたが結局その日、禅栄さんが見つかることはありませんでした。

 

翌 日、仕事に使う道具を出そうと和尚さんが前机を開くと、そこには歯痛に苦しみぬいて息絶えた禅栄さんがいました。禅栄さんの手を開くと遺書があ り、自分を地蔵として祀って歯痛に苦しむ人の役に立ちたいと書かれてありました。和尚さんはただちに石工を呼んで地蔵を作らせ、丁寧に弔いました。

 

そ の地蔵に自分の使っている箸を供えて祈ると、歯痛がなくなったのでその噂は遠くまで広がり沢山の人々がやってくるようになりました。そして、人々がお礼と してお腹を空かせて死んだ禅栄さんのために「みたらし団子」を供えるようになったので、誰ともなしに「みたらし地蔵」と呼ぶようになったということです。

 

出典:日本昔話データベース

高崎市新町の落合山「宝勝寺」というお寺の境内に、「小判供養塔」という石碑があります。それは、まさに小判の形をしています。供養塔の右側面には「昭和四年八月十五日發掘・小判三九六枚・一分百三十三枚」とあり、左側面には「金壹百圓也・當町助成會寄附」、そして施主四人の名前が刻まれています。

これは新町のある家の庭から、小判396枚と一分銀133枚が発掘されたというのが、事の始まりでした。

 

 

 

このことが新聞に載ったことで、大騒動になります。昭和48(1973)年に発行された「新町明治百年史」で見てみると、「当時国内は不景気の真最中、各新聞紙は3~4段ぬきで報じ、各新聞とも地方版だけでなく、全国版にも登載した。そのためか今まで行先不明の旧地主や、旧借家人まで、数日を過ぎぬうちに集った。町の人達は小判の発見にもびっくりしたが、よくもこんなに早くこの人達が集まったものだと驚いた。結局警察署が中に入り、小判を配分して納まった。この人達は小判供養塔を作って宝勝寺に供養建立した」。当時は、地下三尺以上深い所から発掘されたものは、地主と発見者の権利ということになっていた。そこで、一万円を手にした人たちが、百円の供養塔を建立したということです。

 

 

騒ぎはこれで収まったのですが、そもそもこのお金はどういう金だったのか、「新町明治百年史」によると、「享和元(1801)年九月二十一日、金沢百万石前田侯の勘定方、土師清太夫一行が御用金を江戸に護送中、新町宿久保本陣に宿泊した。一行の主なる役人もあと三日で江戸に着く。やれやれ一休みと清太夫に連れられ、笛木宿のある茶屋で一杯やっていたところ、一家臣が顔色を変えて注進、御用金の内盗難で失ったものありと聞いて、清太夫は切腹した事件があった。盗難の金高は何程か不明、いや盗難も金高もすべて一切がなかったように固く口止めされた。急ぎ国元からこの不足分を取りよせ江戸に送り、表面は事なきを得た様だ。切腹した勘定方は、笛木宿浄泉寺に土葬された。当時の浄泉寺古文書には「遺品に御かご一丁、大小刀一振づつ、石高五百石、浄泉寺表門傍らの家にて急死す。大小を売り埋葬、小刀は笛木宿の某氏が買いたいと持参して返金なし」と記録されている」。確かに「浄泉寺」には土師清太夫の墓石があり、戒名は「高智院殿勇雄義仰居士」、左側面には「加州金澤/土師清太夫㕝(こと)」、右側面には「享和元年酉年九月廿一日」と刻まれています。 

岐阜県の昔話

飛騨の山奥で、焼畑を作って暮らしている貧乏な夫婦があった。この夫婦の間には娘が一人居たが、これが色の抜けるような白い肌の美しい娘であった。両親は 娘をとても大事にし、農作業にも連れず家から出さないようにしていた。娘は炊事や糸紡ぎなどをしてひっそりと暮らしていた。

 

 

この娘を山のぬしが見染め、「是が非でも俺の嫁にせねばならぬ」と家まで押し掛けた。折りしもその日は立夏で、両親は里に下りていて留守だった。山のぬしが入口に下げ たむしろを捲って中に押し入ろうとした時、山のぬしは叫び声をあげて退いた。入口には山の魔物を退ける霊力を持つ煮込んだ笹の葉がぶら下がっており、山のぬしの霊気が通じなくなる為だった。

 

諦めきれない山のぬしは今度は小さな蛇に化け、家の傍の草原に生えているわらびの葉の上で娘が家の外に出るの を待ちかまえる事にしたが、娘は出て来ず、待ちくたびれた山のぬしはわらびの葉の上で昼寝を始めてしまった。ところがその草原は娘がいつも小用を足す場所 であり、山のぬしは蛇の姿のまま、娘の小水を頭から浴びてしまった。女の不浄に触れて術が敗れた山のぬしは、蛇の姿のまま「来年こそは!」と悔しがりつつ 退散した。

 

次の年、山のぬしは今度は若い男に化けて娘の家に近づいた。その年、雪解け水が多くて田畑が荒れ果て、娘の両親は困り果ててしまい「畑を整えてくれる者があったら娘の婿に迎えても良いのだが」と口走ってしまった。それを聞いた山のぬしは瞬く間に田畑を綺麗に整えて見せた。

 

 

両親は若者を見て「娘には過ぎた婿殿だ」と大喜びしたが、若者が魔除けの笹の葉を見て気味悪そうにしたり、昼飯に作った笹のちまきを酷く嫌がるのを見て母親 の方が怪しみ、これは山の魔物の化身かも知れぬと思って、こっそりと笹の煮汁をお茶に混ぜて差し出した。知らずに飲んだ若者は叫び声をあげ、黒雲のような 姿になって逃げ去った。

 

尚も諦めきれない山のぬしはとうとう正体を現わし、数丈もある巨大な蛇に化身して家ごと娘を攫おうとした。両親は 娘の頭に笹の葉を被せ、大急ぎで家から離れ遠くの丘に隠れた。それに気付かぬまま、山のぬしの大蛇は家をぐるぐる巻きにし、そのまま山の中に姿を消してしまった。

 

以来、山奥の里では魔除けの為に、お茶の中に笹の葉を共に入れて煮出すようになった。またこの出来事に因み、わらびの葉の上に眠る蛇はどんなに小さくとも、山の魔物が化けたものだと恐れられているそうな。

 

出典:日本昔話データベース

新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804~44年)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣脇本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩の陰影が保存されています。延享2(1745)年の「落合図」が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けて記されています。元禄4(1691)年の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。

 

 

 

本陣は小林甚左衛門家と久保五左衛門家が歴任し、両家の建物は共に失われていますが、小林家は建坪135坪、久保家の規模はやや小規模で文久元(1861)年に皇女和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁として江戸に向う途中に御小休所として利用されています。

 

 

「小林本陣」は建坪135坪余で門構えと玄関を備え、もうひとつの「久保本陣」は建坪42坪で玄関だけ、「三俣脇本陣」も玄関だけでしたが建坪は126坪あったそうです。

平成七年(1995)発行の「上州路 No.251」には、「天保十四年(1843)書上帳」による、いわゆる「中山道上州七宿」の各宿の規模が一覧で掲載されています。

 

 

    宿   本陣 脇本陣 旅籠  人口

新  町    2     1     43   1,437

倉賀野    1       2       32    2,032

高  崎     0       0       15    3,235

板  鼻     1       1       54    1,422

安  中     1       2       17      348

松井田     2       2       14    1,009

坂  本     2       2       40      732

岐阜県の昔話

昔ある山道は「化け物が出る」という噂があって「幽霊街道」と呼ばれていた。ある日近くの村の若い衆がその噂が本当かどうか確かめに、夜その幽霊街道に行ってみた。 街道に着いて夜になり、若い衆は眠ってしまったが、藤十郎という男だけは岩の上に座って考え事をしていた。

 

 

藤十郎は家を出る時仏様に供えてある「おぶくさん」という御飯を食べて来た。おぶくさんを食べるとどんなことがあっても嫁の元に帰って来れると昔から言われていた。その時突然、辺りの様子が変わった。藤十郎が見上げると、目の前に得体の知れないものが 「藤十郎はおぶくさんを食っとる、捕らまえるのに骨が折れる」と言って近付いて来た。藤十郎が驚くと突然宙に舞い上げられ、地面に叩きつけられた。そして持っていた山刀は溶かされてしまった。

 

その時若い衆が「藤十郎、何をしとる?」と声をかけてきた。藤十郎は我に返り、この峠にはやはり魔物がいるからすぐ帰った方がいいと言ったが、若い衆は何も見ていない内は帰れないと言って聞かなかった。藤十郎は溶けた刀を見せ必死に説得した。

 

 

とその時、藤十郎の猟犬のシロが吠え始めた。藤十郎がそっと覗いてみると、そこにはさっきの化け物が恐ろしい目を光らせてこちらをにらんでいた。若い衆は腰が抜けて動けなくなってしまったが、藤十郎とシロは化け物に吸込まれてしまった。藤十郎を飲込んだ化け物は満足気に去っていった。

 

若い衆は恐ろしくてその場から走り逃げた。そして藤十郎の家の前まで着いて、嫁さんにさっきのことを話そうとした。だがその時、藤十郎とシロが家に戻ってきた。若い衆はまた驚いて家から飛び出してしまった。 藤十郎もシロも、おぶくさんを食べていたので戻って来れたのだった。

 

出典:日本昔話データベース