我が青春の前半は日本、そして後半はUSAと、チャレンジだった。 | gozira hunterのブログ

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1968年3月後半に、オートバイ、スキューバ セットとスピアーガン3丁、スクーバタンクセット、ダブル タンクとシングル タンク、が主な荷物だった。船できたのでなんでも積めた。片道2週間かかったが、当時まだジャンボ ジェットができる前で飛行機代は高くて、船でアメリカに行くのが一番安かった。それと荷物は何でも積めた。当時は持ち出し金額があり、それが500ドルまでだった。

金がないので片道切符だった。ハワイに8時間船が止まったので、そこへイミグレーションのオフイサーが乗ってきてパスポートと所持金とチケットをチェックされた。

 

ハイ パスポート、所持金とチケットを見せてください。パスポートと所持金はOK チケットはハイ 帰りのチケットは? ありません。これはまずかった   それでは あなたのアメリカ滞在は10日間です。え、、、、、ここハワイからサンフランシスコまで4日かかるから、シスコに滞在できるのはたったの6日間だ。

 

高校を出てから6年間働いて安月給から頑張って貯めた金だ。ガックときたもんだった、、、。この頃の日本国は、まだまだ貧しかった、1ドルが360円の時代だった。

 

 

 

 

日本にいた時は東京の材木問屋が当時2000軒集まっているという東京の木場で朝から晩まで粗衣、粗食、粗給の最低の職場だった。

なぜ群馬の田舎から出てきてそんなところで働いていたか、、というと材木屋の3代目、、要するに跡継ぎだから、こんな最低のところに放り込まれたのだった。10年頑張って独立しようと思った。でも親父が倒産したので、その後はフリーだったが。

 

 

19歳になってからその頃60年代アメリカから輸入された新しいスポーツ、アクアラング(現在はスキューバというが)初めて日本に紹介された時代だった。当時は陸のハンターが多く、春から秋にかけて狩猟のシーズンができない時に海に潜って魚を水中銃で突くダイバーが多かった。

 

早速クラブに入会した。

 

 

 

 

 

写真の右下が22歳だったオレ、プロのライセンス(潜水士免許証)を取り、もう材木の仕事などまったくやる気がなく、友達と計画してサウジアラビアの会社でダイバーの募集を聞いて、そこへ行くべきの用意をしていたが、仕事がなかなか決まらないうちにアメリカ行くコネが見つかり渡米したが、その半年後に友達は仕事が決まり、サウジアラビアへ出発した。あと半年私のアメリカ行きが決まらなければ、友達と2人でサウジアラビアでダイバーになっていただろう。とにかくこの仕事は金になる、、、友達は日本の10倍以上の金を稼いでいた。その頃の私めは昼はアダルト スクールで英語ができないから語学学校でお勉強、夜はレストランで皿を洗っていました。

 

 

 

 

左上から2人目が私の22歳の頃でした。女の娘2人もダイバーでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水中でマスクをはずして、またつけて、この時はなんか女性週刊誌に紹介される写真を撮るので、誰だかかわかるようにマスクをとったりした。

 

 

 

 

 

クエ(35キロ)この年 我がダイビング クラブ ’’オールニッポン アクアラング クラブ’’(約180人のメンバー)の年間の大物賞をもらった。アメリカへ行く前の年だった。

 

このクエの魚拓が半世紀たった現在でも、田舎屋 という名のレストランに飾ってあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして渡米以来、学校へ行って英語のお勉強、、、それから射撃ツアー、アラスカ、カナダ アメリカでハンテング案内、メキシコのカボでマーリン フィシングの案内、それに並行して銃器の輸出入、ガンショップなどの仕事をずっと続けておりました。

 

持っているピストルはコルト社のスナップ ノーズ 38口径 自宅にセルフデフェンス用に当時置いときました。

 

 

 

そしてリタイヤー タフの仕事だったが、好きなことに集中できたので、まーまーの人生経験でした。