井上ひさしの母

井上ひさしが存命中ならば今年77歳になる。残念ながら2年前、亡くなってしまったが、訪れるべき喜寿を祝って、東京中心に「フェステバル2012」とし、8作品を公演することが、生前から企画されていたらしい。彼の作品を専門に公演するこまつ座が、70を超える芝居の中で人気があったものを選りすぐったという。

そのことを知ったのは3月で、そのときまでの2作品は見落とてしまった。そのひとつ『雪やこんこん』は昔、見た記憶がある。細かいことまで覚えていないからこの機会にもう一度見たかったが残念。これからの公演は見落とさないよう、情報をこまつ座からメールで頂くことにした。4月公演は『闇に咲く花』だ。三女の井上麻矢こまつ座社長が、この作品を「地味だが一番好きだ」と講演会で述べていたからどうしても見ておきたかった。終戦後の神田の小さな神社を舞台にしている。出征し、死んだはずの息子が捕虜生活ののち生還する。多くの出征する若者を、お国のためにと送った神主の父親と息子との会話が、戦争に突き進んだ時代を浮き上がらせる。

終戦後の混乱の時代を舞台から、市井の人々のたくましさに笑い、父と子の確執に戦争の理不尽に憤り、究極は善意に満ちた人たちに安らぎを覚えての終章となった。

『闇に咲く花』はこまつ座に長くかかわった仲間による井上作品の番付で、西の前頭だったと正月の読売新聞紙上に載っていたが、それより上位作品の出来栄えとはいかばかりと、これから見る舞台に夢が膨らむ。東西の横綱『父と暮らせば』『薮原検校』には強烈な印象からファンとして異存がない。だが『闇に咲く花』を凌ぐ傑作がそれぞれの三役にあるとは信じ難い。番付に得心するため、今年はどっぷり井上ワールドに浸りたい。

この天才作家が山形の田舎町に生まれ、訳あって施設に預けられ、大学卒業後、てんぷくトリオのコント台本作家になり、NHKこども番組で大ブレイクしたことは周知のことだが、井上麻矢が父の生前を語る講演で「祖母は小田原で生まれた」と聴いて驚き、ずっと棘のように突き刺さっていた。

井上ひさしの父、井上修吉は自ら小説を書き、孫文をテーマに『H丸伝奇』でサンデー毎日懸賞小説に入選した。しかし家業は薬屋で、薬剤師になるため東京で学ぶうち、同窓生のマスと知り合い、結ばれたという。そしてそれから、井上マスの出生が小田原であるとはいくつかの本で知ることができたものの、旧姓がわからないから実家がどこかはわからない。井上麻矢の母、西舘好子は最近、井上ひさしとの壮絶な生活を赤裸々に書いた。嫁の立場での義母との確執は離婚の遠因だったことは知れたが、義母の出自については触れていない。しばらくこの棘は私から抜けそうもない。(克)

 

1年後の独り言

あの日、私は仲間4人と旧東海道の天竜川沿いを歩いていた。街道をはさんだ家々から出てきた人から、大きな地震があったことを知らされ、急いで携行していたラジオを点けたところ、アナウンサーが津波の到来を予告し、繰り返し避難を呼びかけていた。その放送がやがて津波の実況と変わり、船が、車が、家が流される様が、絶叫となって伝えられ、ぞっとした。

最寄りの駅には電車が来ず、浜松へタクシーで向かい、兎に角、ホテルを確保した。食事のため駅周辺に行くと、構内は帰宅の手段を奪われた通勤、通学客等で溢れていた。夜遅く、ようやく自宅と電話が繋がり、東北方面に住む親族が、皆無事であることが確認でき、ホッとして就寝。翌朝、ホテルの食堂は満員だった。街中のホテルは多分同じ状況だったに違いない。

東京のはずれに住む次女が、生後半年の乳児を連れて都心に遊びに行き、地震に遭遇し、帰宅難民になっていたとは知る由も無く、夜半になって自宅に着いたと後刻、聞いた。

いつ余震が来て新幹線が停まってしまうかも知れないので、2日目は歩くのを断念し、早々に帰宅した。

それからしばらくの日々は地震報道に釘付けになった。自然災害の怖さは真髄に沁みたが、続いて起きた原発事故は、到底、赦し難いものだった。電力を供給する施設が、どうして冷却機能の電源を失い、メルトダウンを起こすのか。地震と津波はセットで来るのだし、危険な海岸沿いに発電所を建てる以上、そこから離れた高台に施設専用の発電所を建造しておかなかったのか。

熱海の山中に東京電力の豪華な保養施設がある。このような厚生施設は全国に27箇所にあるという。原発の安全よりも社員の保養のほうが大事なのかと嫌味も言いたくなる。

コストに利益を上乗せして設定する電気料金は一応理解できるものの、新聞でそのコストの内容を知り不快になった。高額な役員報酬、政治献金、天下りの巣窟となった265の連結子会社と関連会社、原発施設のある市町村への現地対策費等々、数えあげたらきりがない。今、その対策費で建てたハコモノが地域を苦しめているという。全国54基の原発のうち、稼動しているのはとうとう1基だけになったというのも不思議だなと思う。それで電力が賄えるのなら原発は不要と言う意見が説得力を持つ。

数年前、その1基だけとなった泊原発に行ったことがある。積丹半島を巡るバスツァーで寄ったのだ。展示館でPR用のパネルを眺めて、ウランから発電するという人間の英知に感心したが、しくみはわからず、ただ、ここで何か事故があったらあのシャコタン・ブルーの海は汚されてしまうのだろうなと漠然と思った。それが福島や茨城で現実となってしまった。  

1年を経て、原発事故を検証する報道に否応無く触れるにつけ、周辺住民の平凡な日常を炉心溶融させてしまった東京電力に不信が募る。

さて、日頃、スコップなど持ったことがほとんどないから現地に行っても被災地の復興作業にはなにも役に立ちそうに無く、無力感だけを味わってきた1年だったが、寸断されていた鉄道も徐々に復旧されてきたというから、三陸の景勝地を訪れてみようと思う。名産品を肴に銘酒を味わうのならいくらでも協力できそうだ。これだけは実現しようと時刻表と睨めっこしている。(克)


回想のシルバー大学


定年退職を迎えたとき、縦社会からの解放感は忘れられない。

早々と年金受給の手続きをしてまず、生活費の不安を除いた。

晴れた日には外へ、雨の日には買い貯めた本に埋もれる憧れのサンデー毎日が訪れたのだ。そして以前、一夜城に行き、ガイドの説明を聞いたとき、小田原に生まれて育ちながら、この町の歴史をほとんど知らなかったことを痛感し、一から学んでみようとも思った。シルバー大学「歴史と観光コース」の存在を知り、市の生涯学習課に電話したら、明日、入学説明会があるという。出掛けてみると申し込みが定員オーバーなので抽選となった。運よく入学できた。尤も定員を超えたといってもせいぜい10人ぐらいだったのだろう。ならば全員合格させても何の不都合が生じるのか、と今でもときどき、考える。せいぜい講義に準備するプリントが多くなるぐらいか。60人と定員を決めたら、ひとりも超えさせないのがお役所の仕事なのだろう。前日になって急に申込み、入学できた私のために誰かが選に漏れたのだ。申し訳ないと思ったが、その方の分まで勉強しようとは考えなかった。

授業は新鮮で楽しかった。2月に行われる文化祭での研究発表のため、班が編成され、私たちは“小田原の漁業の変遷”を追うことになった。打ち合わせが宮小路の料亭だったり、現地見学のため訪れた真鶴では船盛り磯料理を囲んだりと実に楽しかった。私以外のメンバー全員が酒豪なのに驚いた。

2年目は別のメンバーで“北村透谷”を、3年目は“小田原の支城の盛衰”をテーマとし、これは卒業後の「小田原ゆかりの史跡をめぐる会」に発展させ、賑やかなバスツァーを楽しんだ。

卒業後も気のおけない仲間が定期的に居酒屋に集まり、他愛のない話で盛り上がるのだが、先日は、本年をもって終了するシルバー大学の話題となった。そのとき、現市長への痛烈な批判が聞かれた。市長の個人的見解でそうなったとも思えず、市の財政事情によるものだろう。しかし知恵を絞れば継続も可能だろうから、残念な気がする。高齢化社会はさらに亢進しよう。暇で、年金と蓄えでゆとりあるリタイア組に、交流する機会を提供するのは行政の有益な施策である。3年間の在学中、随分と飲食店の売上げに積極的に貢献したし、それは卒業後の今でも続いている。健康維持にも効果があったように思う。毎年の文化祭を楽しみにしていたが、それも今年で終りだ。酔いが回った仲間が言った。「小田原のように歴史がある町で文化的な政策をなくすのはけしからん」と。難しい議論はわからないが、一度廃止したら復活は困難なだけに、我が母校を失ったような寂しさが残る。

昨夜、シルバー大学をスタートさせた前市長・小澤良明氏と、彼が主宰する集まりで会った。このことにどう思っているか聴きたかったが、多くの参加への挨拶で忙しく、会話する時間がとれずその機会を逃してしまい残念だった。(克)