爺放談


小田原出身芸能人の活躍に期待している。特に落語家柳家三三は将来、名人といわれる存在になると信じているから楽しみだ。新聞での演芸評論家の評判も良い。

小田原や南足柄で定期的に公演する彼の独演会には欠かさず足を運んできた。今夏も市民会館で催され、達者な話芸を堪能した。彼が育った地元の谷津公民館での公演は、会場も古く、音響等も劣悪だが、それでもいつも満席になるほど人気があるが、市民会館の大ホールともなると入場者も7割ぐらいかなと思っていたのにほとんど空席がないので驚いた。前売り券もタバコ屋、酒屋、蕎麦屋などしか扱っていないのに、この盛況ぶりは応援する者にとって嬉しい。落語家になりたくて中学を卒業するとすぐ柳家小三治の門を敲き、せめて高校を出てからにしなさいと諭され、三年後、晴れて弟子入りしたというからよほど好きだったのだろう。父親の蛭田氏とは面識はないが私とほぼ同年輩で、知人の飲み仲間だというから機会があれば同席することがあるかもしれない。ぜひエールを送りたいものだ。

私が落語を好きになったのは、子供のころ、ラジオしか娯楽が無かった時代に育ったせいである。文楽、三木助、円生、志ん生、金馬などの名人芸をリアルタイムで聴く事ができたのはささやかな財産だったと今でも思う。寝苦しい夜は懐かしい声をテープで聞いている。タレント化して人気があるのに落語が上手くない噺家が多い最近の様子を残念に思っているファンにとって、古典一筋に芸を磨く三三の落語会『小田原提灯ぶらさげて』が、10月7日に小田原で行われるというから今から楽しみだ。そのときはふるさと大使・小宮孝泰も一席演じるという。今年の正月、一人芝居『線路は続くよ』で、終戦時、朝鮮半島の平壌から小田原へ引き揚げようとする国鉄マンだった父の苦悩を熱演して芸達者さを披露したが、小ホールなのに空席が目立った。興行としてなり立たなければ芸人もいつか小田原を敬遠するようになるだろう。

先日、『ういろう口上大会』にゲストとして舞台に立った市川団十郎は「私も昔、ここで歌舞伎を演じたことがある」と挨拶した。以前、松竹歌舞伎が毎年七月に行われ、楽しみにしていたから私も観劇したはず。だが当時は顔と名前がすれ違い、どんな演目だったのか記憶が無い。多分、成田屋歌舞伎十八番のどれかだったのだろう。これも入りが芳しくなくやがて廃止の憂き目にあった。

頓挫していた市民ホール建設話が復活している。人口二十万の町に似合う近代的施設を造ることより、せめて1%の市民が感動を共有する文化的成熟がつくづく欲しい。新劇も商業演劇も、もう小田原ではほとんど観ることができなくなって久しいのだ。

前市長だった小澤氏とハイキング仲間として永年親しくしている。彼は現職のころのいろいろな人脈を絆として4年前、“明日フォーラム”を立ち上げた。呼びかけに応じて会員になり、定例会として小田原ゆかりの講師による講演等を楽しんできた。私が住む蓮正寺でも地区グループができ、今月、2回目の会合があった。

尖閣諸島、竹島から教育問題、近いうちに行われる総選挙の行方と話題は尽きず、おおいに語った。2期目に入った加藤市政についても当然、われわれ市民の関心は高い。少年少女に夢を与えたオーシャンクルーズは廃止、我々世代の交流の場となったシルバー大学も無くなった。それに替わる施策も見えず、創設に尽力した小澤氏は無念さを滲ませた。目玉となる公共事業も無く、市の幹部職員は毎日、することが無く手持ち無沙汰な様子だと評判だ。

件の『小田原提灯ぶらさげて』のチラシを見たら主催者が小田原市になっていた。市の部課長さんたち、厚遇に応えて率先して前売り券の販売に協力したら、といいたい。市民会館が観客で溢れれば、小田原出身の芸能人もわが郷土を見直すだろうし、演技にも燃えるだろうに。

熱波が続いた夏の夜の時事放談ならぬ爺の放談でした。(克)

レバ刺と鰻


かつて家族や同僚と食事に行くときは、ほとんどが焼肉屋だった。そして私はユッケとレバ刺を注文し、ロースやカルビなどは、周りが気を使って皿に入れてくれるときぐらいしか食べない。始めてレバ刺を食べたのは、三十代の中頃だった。国道255号線沿いに「悟空」という店があって、そこで仲間の誰かが食べたのを見て、恐る恐る一切れを口に運び、驚いた。旨かった。どうしてこんな旨いものを今まで食わなかったのかとつくづく思った。以来、焼肉屋でのビールのつまみはレバ刺と決めている。時々、知り合いの精肉店で晩酌用に買ったりもした。以前は、スーパーでも見かけたことがある。 ユッケについてはいつごろから食べたのか記憶がない。元来、生ものが好きだったから、かなり以前から食べていたと思う。

昨年、焼肉チエーン店が、ユッケで食中毒を起こし、複数の死者まで出した。テレビニュースを見て、通常の3分の1の価格で提供していたとわかり、驚いた。雑菌が付きやすい肉の表面を削り落として、安全な中身だけを調理すべきところを、その手間を省いていたようだ。ロスが少ない分、安い。おかげでトリミングの基準が厳しく設けられ、ユッケの価格が倍になってしまった。

レバ刺は、娘の同級生が経営する居酒屋でも夏場を除き食べられた。この事件以来、夏場以外でも断られるようになった。そのレバ刺は、7月から全面禁止となってしまった。6月中に最後のレバ刺を食いに行こうと娘婿と約束していたが、彼の都合がつかず、機会を失してしまった。最後のレバ刺を食べたのがいつだったか記憶がないのが悔しい。

もうひとつの好物は鰻である。市内の老舗はもとより、築地、三島、浜松と鰻の名店には、こまめに足を運んだ。名古屋熱田の蓬莱軒のひつまぶしの味も忘れられない。

旧東海道を歩いた仲間も、皆鰻が大好きで、昼飯どきになるとまず鰻屋を探した。

肝の串焼きをつまみにビールを飲み、程よくうな重が出てくると、途端に午後の体力が補えそうな気がした。

土用の時期になると、田に引いた水を抜き、土用干しを行う。子供のころ、農家だった叔母の家では、堰き止めた小川から従兄弟が獲ってきた鰻、鯰、泥鰌、鮒、鯉をそれぞれに分けて樽に入れていた。今思えば貴重なタンパク源だったのだろう。

叔母に招かれて行くと、これらの煮物を振舞ってくれ、帰りには土産に、弁当箱に詰めてくれた。やはり鰻が一番美味だった。

暖かくなると近所の川にシラスウナギが沢山上ってきたのを懐かしく思い出す。川底がきれいだったからきらきら泳ぐ姿がよくわかった。

数年前、親しくしていた水産会社が、取引先の旅館業の衰退により、営業不振で廃業することになった。冷凍庫の中には鰻、鱧、鮎の在庫が大量にあった。廃棄処分するというので、マイナス30度の冷凍庫を当分そのまま使わせてもらうことにし、私が引き取ることにした。小分けして家に運んだが、我が家の冷凍庫は小型だから収納に限りがあり、仕方なくそれらは頻繁に食卓に上った。冷凍鰻は熱湯に通すとすぐ柔らかくなり、旨かった。蒲焼だけでは飽きるからと、卵でう巻きにしたり、刻んでひじきと一緒に煮たりしてよく食べた。

その鰻が今年、シラスウナギの不漁により高騰している。スーパーで値段を見て驚く。これまで十分食べたからあまり気にならない。しかし借家に住み、子育て中の娘夫婦には、それさえ手が出ないだろうと思い、日曜日、食事に呼んだ。たまたまお中元でいただいた鰻があったので、少し買い足し、食器棚の奥からうな重の器を取り出し、ご馳走したら、孫が実に美味そうに食べていた。

そんな鰻がこれからは気楽に食べられなくなると思うと哀しい。

川を遡上するシラスウナギが激減すれば、産卵のため海に戻る鰻も減って、更に高騰は避けられない。天候が原因ならば回復の期待はあるが、資源の枯渇は絶滅に繋がるわけで、スーパーの店頭からも消える日が来るのかも知れない。養鰻業者の廃業や輸出入取引規制の動きも気になる。

ヒッグス粒子が捉えられ、南鳥島の沖ではレアアースの存在が確認されたという。自然界の謎を解明する技術を次々と開発する人間の叡智に感嘆しつつ、鰻の完全養殖できる日が孫の時代に果たして来るのだろうかと、つまらない感慨に浸った。(克)

あのころ、大人たちは竹で編んだモジリにミミズを入れ、夜、川に仕掛けていた。鰻が入っていた。


わが母の忌

母が脳梗塞で倒れ、息を引き取ったのは21世紀を迎えた12年前の7月だった。

3ヶ月の入院生活の間、昏睡状態のままで、せめてもう一度呼びかけに応えて欲しいとの私たち兄弟姉妹の願いはとうとう叶えられなかった。脳に血栓があって、取り除けば意識が回復するかも知れないと医師は言ったが、82歳の身体の、しかも脳にメスを入れることはどうしても躊躇われた。今でも命日が近くなるとそのことで悩んだ日々を思い出す。

13回忌の法要が訪れた。最近は葬儀や法要を質素に行う傾向になっていると新聞で読んだが、同感である。そこで新年会の席で、母の法要も親類を煩わせず、子供の夫婦と私の娘夫婦たちだけで済ませようと提言したら、だれも異論が無かった。従来なら墓参りを済ませて寺の客殿で会食するのだが、それを取りやめ、箱根のホテルで温泉に浸かり、湯上がりで歓談したら酒も話も弾むだろうと考えた。早速、知人が勤める湯本のホテル南風荘に予約したところ、社員割引を利用してくれた。

アメリカに単身赴任している弟も駆けつけてくれた。無理しなくていいと伝えてあったが、多分、社用にかこつけて出張扱いで来たに相違ない。甥や姪も出席してくれて賑やかな食事会となり、皆の元気な様子を泉下の母が知ったらどんなに喜ぶかと思わずにいられなかった。

母は中井町の農家に生まれた。山峡の村落では、周りの家も皆農家なのに田の面積は小さい。丘陵地には畑はあっても田はできず、今になって思うと、どうやって生活していたのか不思議でならない。戦後は兼業農家となり、食材が自給でき、勤めから現金収入を得て優雅に暮らしているが、母のころは学校を出ると奉公に出されたという。母の東京の奉公先は芸能関係の職業だったようで、出入りしていた相撲取りのことを子供ころ聞かされたのを思い出す。楽しそうに話していたからあまり苦労はしなかったのだろう。

父もまた飯泉の農家の出だが、次男坊で洋服の仕立て職人をしていた。独立した際、食うに困らないだけの農地を与えられたようだが、戦後の農地改革で失ったという。

今でも専業農家で、梨園などを経営する実家の従兄弟の話では、その農地は周辺に国道が開通し、商業地として急激に発展した一帯にあり、しきりに惜しがっていたが、所詮,我が家には縁が無かった資産だった。

その父も42歳で病死し、母は賄い婦などをして私たちを育てた。やがて安定した収入が得られる職業に就いて定年まで働き、大病もせず、経済的にも余裕ができ、孫にも慕われ、穏やかな晩年を過ごした。

平成の名優・役所広司出演の「わが母の記」が上映された。彼が出る近年の作品は欠かさず観ていて、当然これも観るつもりだった。出かける日を決めかねているうち、雑事に追われ、機会を逸してしまった。井上靖の原作を読んでいないから、どんな内容かわからない。昔読んだ自伝小説『しろばんば』の続編らしい。チラシに印刷された、役所広司が樹木希林を背負っているシーンを見ると母がしきりに思い出される。

特に親不孝をした覚えはないが、孝行らしきこともしなかった自分が責められるようなスチールである。子育てもローンも終えてこれからというとき、喜寿近い母はさすがに体力が衰え、旅行に誘っても「私は留守番しているから」と言うようになってしまった。命日を前に、「孝行をしたいときには親はなし」という言葉を苦く噛みしめている。(克)