ゆかりの史跡川越散歩

 関八州を制した後北条時代の小田原にゆかりのある支城跡を、歴史を学んだ仲間と訪ねたのは楽しい思い出である。とりわけ行田市に残された忍城は印象が強い。現在の天守閣は観光目的の近代的な建物で、戦国の往時を偲ぶ面影は薄らいでいたが、近くにある埼玉古墳群の丸墓山古墳に登ると城下が一望に見え、小説『のぼうの城』で読んだ石田三成の水攻めの様が一気に甦ったのを覚えている。そのときの石田堤といわれる堤防の一部も残されていて臨場感があった。

出掛ける前に小説を通読していたので色々なシーンを思い浮かべながら、三成が陣を敷いたとされる古墳の上から眺望を楽しんだのは3年前の秋だった。

和田竜が書いたこの小説が映画化されたので観た。狂言師の野村萬斎が、小田原城を守護するため留守となった城主に代わって城を守る主人公の成田長親を演じていた。

野村萬斎は今夏、「薮原検校」の舞台を観て達者な演技に感心し、この映画の上映を楽しみにしていた。新聞の映画評でも怪演と書かれていて、まさにそのとおり、上映時間が短く感じられた。秀吉役の市村正親、三成役の上地雄輔も存在感を示していたが、榮倉奈々の甲斐姫が画面でどんな活躍をするのか興味深々だった。本城の小田原が開城してもなお、家臣を鼓舞して自ら戦った雄姿は残念ながら画面では観られなかった。

映画は昨年春に完成していたが、3月11日の大震災で、連日テレビから流された津波の映像と、映画の水攻めのシーンとが重なり、公開が憚られたための1年半後の上映となったという。

 ゆかりの史跡を訪ねた企画で川越にも出掛けたことがある。青春18切符を使っての残暑が厳しい時期だった。美術館や史跡にそれまで何回か訪れていたがいつも夏だった。隣の狭山のホテルで、ある集まりがありその帰路にも立ち寄ったから時期も限られていたためである。喜多院の遠州流庭園をながめているとき、ふと秋の紅葉の季節は美しいだろうなと思った。川越祭も見たいがこれは10月下旬で、まだ紅葉には早い。そこで両方は無理だが、今秋の紅葉狩りは川越と決め、今月の半ばに妹夫婦を誘って出掛けた。 本川越の駅から東照宮、喜多院、川越本殿、時の鐘、菓子屋横丁と巡り、蔵の町並の散策を楽しんだ。行楽シーズンとあって、各史跡ではガイドが熱心に歴史を語ってくれ、乏しい知識を補ってくれた。川越は戦国時代には河越といい、北条氏康の夜戦が有名である。ここで勝利したことにより北条氏は一気に武蔵一帯を治めることに成功したとある。また喜多院には、家光の乳母、春日局の化粧の間が江戸城の紅葉山から移築されていて、そこから見える庭の楓も美しかった。春日局も稲葉時代の小田原にゆかりのある人物だ。

かつて喜多院の天海僧正に関心があっていろいろな本を読んだことがあった。

若き日、足利学校で兵法を学び、比叡山で修業しているとき、信長の焼き討ちに会うが、前日に計画を告げられ、一人逃げ延びた。助け出したのは一体だれなのか。信長の側近に間違いない。彼の見識を惜しんだ明智光秀か。

また彼が、のちに家康のあらゆる政の助言をするまでに絶大な信頼を得て、さらに臨終の床に呼ばれた3人のひとりに選ばれたのはなぜなのか。

俄か勉強の歴史知識では解けない謎が多い。そこが歴史散歩の面白みではあるのだが。(克)


真鶴を愛した画家たち

 

 今月のウオーキングは真鶴半島一周コースと木曽路だった。

 真鶴は昔、絵を描いていたころ、身近な写生地として何度も足を運んだ町である。海と森があり、高台から眺める漁港の風景は、格好のモチーフとして多くの画家に愛されてきた。地元の人が上道(うわみち)と呼ぶ岬に通じる道路沿いには、著名な4人の画家が住み、制作に励んでいた。

 中川一政は多くの作品を町に寄贈し、町では美術館を建て、一般に公開している。二十代だった頃、彼の絵が好きで、東京のデパートで行われた展覧会には必ず出掛けていた。梅原龍三郎、安井曽太郎と並び、戦後の洋画の三大巨匠と私は思っている。そんな憧れの画家が隣の町に住んでいたことを知ったときは大いに驚いた。尻卦海岸へと下る細い杣道に家の入り口があって、木戸に独特の字で書かれた表札があったのを覚えている。松永記念館では現在、美術館所蔵作品の一部を展示する交流展が行われていて、画家が現地で描いたという80号の『駒ケ岳』や自宅近くの『福浦港』シリーズ、晩年の『ひまわり』等が見られ、改めて豪放磊落な画風に魅了させられた。

 尻掛では高良真木も制作に励んでいた。現代画廊の洲之内徹に見出された女流画家だが高名な画家ではない。むしろ社会運動家で戦後、初めて女性参議院議員となった母親の高良とみのほうが知名度は高い。東京で精神科医院を経営していた父親の武久が、週末を過ごすために選んだのが真鶴だった。好きなイタリアに似ていたからというが、バブルでマンションが林立する前の自然がいっぱいの頃の話である。高良真木は生前、手元の作品を平塚美術館に寄贈した。美術館では湘南の女流画家3人展を開催する準備中だった昨年2月に亡くなってしまった。

 小田原に美術館があったら遺作は小田原に寄贈されたかも知れず、悔しい気がする。

波が噛む岩礁を描くのが得意だった田辺栄次郎は一陽会の重鎮だった。彼は半島の東側斜面にアトリエを建てた。建築を請け負った地元の工務店の社長が日頃の管理を任されていて、建物内を案内してもらったことがある。2階まで吹き抜けの画室は、こんな環境で存分に絵が描けたら俺も上手くなるのかなと思った。日動画廊で個展を開いたとき、オープン前日、お祝いのパーティーをやるというので、招待された社長に好奇心いっぱいに連れて行ってもらったことがある。

ワイングラスを手に客で溢れた会場を見回すと、恰幅のいい外国人が目に付いた。そのときのソビエト駐日大使で、名を成した画家の華やかな側面を見た。

さて、もう一人の真鶴の画家といえば三宅克己である。油絵に比べ低く評価されてきた水彩画を、美術のひとつのジャンルとして世間に認知させた功労者である。徳島出身だが東京で絵を学び、世界各国を回り、戦後は真鶴に町で初めてという洋館を建てて住んだ。1954年に亡くなったが、ここには娘夫婦と未亡人が住んでいた。ご夫婦とはハワイ旅行ツァーで一緒になり、飛行機では隣り合わせの席だった記憶がある。

三宅克己は真鶴風景も多く描いた。生活のためには絵も売らねばならず、地元にも佳作が多く残されたが、水彩画は評価がどうしても低く、世代が替わると価値がわからず処分される運命にあったのではないかと危ぶんでいる。町の長老は神奈川県文化賞を受賞したこの水彩画家を誇りにしていたが、今では名を知る人もわずかだろう。

 三宅克己で思い出すのは、島崎藤村との交遊である。小諸義塾の美術教師だった丸山晩霞に誘われ、三宅克己は小諸に移り住んだが、そのときやはり教師だった島崎藤村と出会い、乞われて同義塾の教師になった。馬籠の藤村記念館に藤村からの葉書が展示されているのを見たことがあったので、今回のウォークではもう一度立ち寄り、しっかり見たかったが、残念ながら勝手な行動もできず、建物だけを眺めてきた。

馬籠から妻籠にかけては藤村の代表作『夜明け前』書き出しの木曽路である。老後になったら読もうと、信州を舞台にした三大大河小説(臼井吉見『安曇野』小宮山量平『千曲川』)は全巻揃えてあるが、まだどれも読んでない。人はいつから老後というのか。石畳の道を転ばぬように気遣いながら考えた。

それにしても起伏に富んだ中山道のウォークアンド紅葉狩りは実に楽しかった。企画してくれた幹事さんに深く感謝しつつ、今月選ばれた地が遠く離れていても不思議な縁で結ばれていたことに感慨一入だった。(克)

周防[見残しの塔]と長州の旅



夜中にふと目が覚めて寝つかれないとき、枕元のラジオを聴く。知らぬうちに再びまどろみ、朝には内容も、聴いたことさえも忘れている。だが、3年前の3月、89歳で初めて小説を上梓した女性作家へのインタビュー番組には脳が覚醒させられた。作家の名前は久木綾子、小説は『見残しの塔』という。平成元年に夫と死別し、70歳のときに訪れた山口の瑠璃光寺五重塔を仰ぎ、そこの資料館で巻斗という建築部材の展示物に描かれた墨書を見て、後世への強烈なメッセージと思い込み、塔を建てた番匠(大工)の物語を書こうと思いついた。驚いたことにそのとき女性の作者は、大工の作業も道具も何の知識も無かったという。夫と一時住んだことがあるという宮崎県の寒村椎葉村を舞台に物語は始まる。宮大工になることを夢に見て村を捨て、豊後竹田に行った若者左右近(そうちか)が、修業を積んで故郷に帰ろうとしたとき、棟梁が周防の瑠璃光寺五重塔建築に携わることを知り、そのまま同行してしまう。

これに若狭新田家の流れと縁ある初子が、やはり国を捨てた母を訪ねて周防に辿り着き、左右近に出会う。左右近の出自は平家の落人部落、新田家は源氏の一門である。

この番組放送が話題となって本は各紙の書評でも取り上げられ、小田原の書店にも並んでいた。いつか読んでみようと思っていたので、絶版にならぬうちにとりあえず買い求めておいた。後日、文庫版が出ていることを知ったのは最近である。

夫婦恒例の秋の旅行は山陽方面にしようということになり出掛ける前に読んだ。

歴史の中でも特に疎い中世が舞台とあって、ついこれまで敬遠し書架に眠らせていたのが悔やまれる。もっと早くに読んで読書好きの仲間に勧めればよかったと思った。

作家はこの小説を書くための調査に14年、書き上げるのに更に4年を要したというからそれだけでも作者に敬服する。左右近と初子が歩いた当時のそれぞれの道を辿り、宮大工の仕事は自ら弟子入りして覚え、寺のしきたりは若い頃の修業が生きたと語っていた。パソコンは80歳を過ぎて教室に通ったというから頭が下がる。

この小説は、山口地方の同人誌に掲載されたのが注目されて、新宿書房から刊行された。そしてラジオへの出演となったのが真相のようだ。

さて、私にとっての久しぶりの山陽旅行は好天に恵まれ、実に快適だった。

まず新岩国に下りて、架け替え工事が済んだ錦帯橋へ。青空と鱗雲を背景に河原から眺める五連の橋のカーブの美しさに感嘆。時間にとらわれない旅なので岩国城にも登ってみた。遠く瀬戸内海の島々が眺められ、陸地の手前には広い米軍基地が見えた。沖縄に移送する前のオスプレイ12機は今もここに駐機しているはずだ。展望台で眼を凝らしたが機影は見えなかった。

その日のうちに山口市を訪れ、憧れの瑠璃光寺へ向かった。塔がこの世とあの世の境に立つ結界に思えた作者の感性の豊かさを体感したかった。これまでいくつの五重塔を見ただろうか。権勢を誇る目的で建てた他の塔とは明らかに異なる趣に、時空を超えた荘厳さが加わった美しさを感じ、立ち去り難かった。向背の丘から塔の屋根が見下ろせる。折からの夕陽を浴びた桧皮葺きの一面と影の部分の一面とが明暗を分け、作者が言う「あの世が透けて見える」とはこのことだったのかと、蚊に刺されるのも忘れ、しばし見とれた。
 翌日の観光予定は秋芳洞。ここを見るのは妻のかねてからの念願だった。

何億年かの前の海底の隆起が生んだ自然の造形に妻の驚嘆の声しきり。

洞の外、抜けるような青空のもとでの秋吉台も素晴らしい景観だが、一度は草紅葉の頃に訪れたいのが私の夢。余命を考えるともう叶わないと、コスモスの咲くカルスト台地を眼に焼きつけてきた。

秋芳洞から萩に向かって1日2便のバスがある。それに乗って東萩へ。始発から終点まで客は私たち二人だけ。私たちが居なければバスは1時間以上も空で走るのか。つまらない想像を巡らすうちに萩の町に着く。

明治維新の英傑を生んだ萩とはどんな町なのか。関心はあったが来る機会が無かった。まずホテルを確保。駅前のホテルの1階に貸自転車屋があるのを発見。町内を自転車で廻ることにした。萩の史跡は何と言っても松下村塾がある松陰神社だろう。まず参詣。私は長州から巣立った人物の名は浮かんでも、個々の果たした役割や逸話についてほとんど知識が無い。山口県出身の直木賞作家・古川薫にこの時代の人物を描いた小説がいくつかあることを知り、萩に行くならと車中で読むよう文庫を携えた。この一冊が、吉田松陰を軸に若き勤皇の志士たちが血を滾らせた様子を仄聞し、萩の町を身近にしてくれた。

志士のゆかりの地を巡る予定だったが、大きな目標物がない町中の地図はわかりにくく、探すのを早々に諦め、日本海を見ようと港に行った。

沖に小さな島がいくつもあり、各島に定期便が出ている。丁度、和牛の元祖がいる見島への船が寂しく汽笛を鳴らし出港して行った。買い物を詰めたらしき段ボール箱を脇に、別の島へ渡る船を待つ数人の老人が待合室で会話している。壁に貼られた観光ポスターなど眺めながらそれとなく聴いていると、話題は安部新総裁の党役員人事について、人材が適正かどうかを論じていた。さすが戦後、多くの首相を輩出した土地柄であると、政治に無関心な私は痛く感心した。

次の目的地は金子みすヾのふるさと仙崎である。

みすヾの父が生まれた青海島の通(かよい)という部落にくじら資料館があることを案内板で知り、長門市駅からタクシーで行ってみた。仙崎から指呼の距離かと思ったらこれが意外と遠く、山道と寂れた漁村をいくつも抜けてようやく着いた。みすヾが『鯨法会』という詩を詠んだ地だ。資料館は小さかったが展示物は充実していた。館長自らくじら組という漁の仕組みを熱心に説明してくれたが、運転手を待たせていたので後ろ髪引かれる思いで後にした。山本一力の小説『くじらぐみ』が面白かったのを思い出した。町に戻り、遍照寺でみすヾの墓に手を合わせ、記念館の金子文英堂に向かう。

みすヾの弟が大切に保管していた手帳から彼女の詩が世に出て、更に昨年、震災があって、詩がテレビCMで流されると山陰の小さな町に一層の観光客が押しかけて来るようになったという。町ではあいだみつおとのコラボによる企画展が、別の会場で行われているようだったが寄る時間が無い。厚狭に行く美祢線の本数が少ないのだ。

厚狭では新幹線を1本やり過ごし、駅前で三年寝太郎の餅を買い、1軒だけあった食堂で昼食をとり、帰路に着いた。

現代では、朝、小田原を発てば昼には山口県内に着く。とはいえ本州の西端はやはり遠い。それなのにこの二つの地域が不思議な人縁で繋がっていることをかねてから不思議に感じていた。

『見残しの塔』の作者久木綾子は戦時中、小田原に疎開し、駅で知り合った山口県出身の男性と結ばれた。夫と死別して山口を訪れ、瑠璃光寺に触発され小説を書いた。

動乱の幕末を生き抜いた萩出身の明治の元勲伊藤博文は御幸の浜に蒼浪閣を、山形有朋は板橋に古希庵を、田中光顕は現在の小田原文学館の地に別邸を建て、それぞれ各様に小田原をこよなく愛した。

26歳の金子みすヾが、離縁した夫に親権を渡すまいとして自らの命と引き換えに守った愛娘ふさえは、今、娘夫婦の家族と現在も達者に秦野に住むというが、85歳の彼女の主治医は小田原の山田クリニック院長山田洋介氏である。山田氏はみすヾの詩を歌う医師仲間の会を主宰している。これは昨年行われた震災復興のチャリティーコンサートで知った。山口県と小田原。不思議な絆を楽しんだ旅だった。(克)