周防[見残しの塔]と長州の旅
夜中にふと目が覚めて寝つかれないとき、枕元のラジオを聴く。知らぬうちに再びまどろみ、朝には内容も、聴いたことさえも忘れている。だが、3年前の3月、89歳で初めて小説を上梓した女性作家へのインタビュー番組には脳が覚醒させられた。作家の名前は久木綾子、小説は『見残しの塔』という。平成元年に夫と死別し、70歳のときに訪れた山口の瑠璃光寺五重塔を仰ぎ、そこの資料館で巻斗という建築部材の展示物に描かれた墨書を見て、後世への強烈なメッセージと思い込み、塔を建てた番匠(大工)の物語を書こうと思いついた。驚いたことにそのとき女性の作者は、大工の作業も道具も何の知識も無かったという。夫と一時住んだことがあるという宮崎県の寒村椎葉村を舞台に物語は始まる。宮大工になることを夢に見て村を捨て、豊後竹田に行った若者左右近(そうちか)が、修業を積んで故郷に帰ろうとしたとき、棟梁が周防の瑠璃光寺五重塔建築に携わることを知り、そのまま同行してしまう。
これに若狭新田家の流れと縁ある初子が、やはり国を捨てた母を訪ねて周防に辿り着き、左右近に出会う。左右近の出自は平家の落人部落、新田家は源氏の一門である。
この番組放送が話題となって本は各紙の書評でも取り上げられ、小田原の書店にも並んでいた。いつか読んでみようと思っていたので、絶版にならぬうちにとりあえず買い求めておいた。後日、文庫版が出ていることを知ったのは最近である。
夫婦恒例の秋の旅行は山陽方面にしようということになり出掛ける前に読んだ。
歴史の中でも特に疎い中世が舞台とあって、ついこれまで敬遠し書架に眠らせていたのが悔やまれる。もっと早くに読んで読書好きの仲間に勧めればよかったと思った。
作家はこの小説を書くための調査に14年、書き上げるのに更に4年を要したというからそれだけでも作者に敬服する。左右近と初子が歩いた当時のそれぞれの道を辿り、宮大工の仕事は自ら弟子入りして覚え、寺のしきたりは若い頃の修業が生きたと語っていた。パソコンは80歳を過ぎて教室に通ったというから頭が下がる。
この小説は、山口地方の同人誌に掲載されたのが注目されて、新宿書房から刊行された。そしてラジオへの出演となったのが真相のようだ。
さて、私にとっての久しぶりの山陽旅行は好天に恵まれ、実に快適だった。
まず新岩国に下りて、架け替え工事が済んだ錦帯橋へ。青空と鱗雲を背景に河原から眺める五連の橋のカーブの美しさに感嘆。時間にとらわれない旅なので岩国城にも登ってみた。遠く瀬戸内海の島々が眺められ、陸地の手前には広い米軍基地が見えた。沖縄に移送する前のオスプレイ12機は今もここに駐機しているはずだ。展望台で眼を凝らしたが機影は見えなかった。
その日のうちに山口市を訪れ、憧れの瑠璃光寺へ向かった。塔がこの世とあの世の境に立つ結界に思えた作者の感性の豊かさを体感したかった。これまでいくつの五重塔を見ただろうか。権勢を誇る目的で建てた他の塔とは明らかに異なる趣に、時空を超えた荘厳さが加わった美しさを感じ、立ち去り難かった。向背の丘から塔の屋根が見下ろせる。折からの夕陽を浴びた桧皮葺きの一面と影の部分の一面とが明暗を分け、作者が言う「あの世が透けて見える」とはこのことだったのかと、蚊に刺されるのも忘れ、しばし見とれた。
翌日の観光予定は秋芳洞。ここを見るのは妻のかねてからの念願だった。
何億年かの前の海底の隆起が生んだ自然の造形に妻の驚嘆の声しきり。
洞の外、抜けるような青空のもとでの秋吉台も素晴らしい景観だが、一度は草紅葉の頃に訪れたいのが私の夢。余命を考えるともう叶わないと、コスモスの咲くカルスト台地を眼に焼きつけてきた。
秋芳洞から萩に向かって1日2便のバスがある。それに乗って東萩へ。始発から終点まで客は私たち二人だけ。私たちが居なければバスは1時間以上も空で走るのか。つまらない想像を巡らすうちに萩の町に着く。
明治維新の英傑を生んだ萩とはどんな町なのか。関心はあったが来る機会が無かった。まずホテルを確保。駅前のホテルの1階に貸自転車屋があるのを発見。町内を自転車で廻ることにした。萩の史跡は何と言っても松下村塾がある松陰神社だろう。まず参詣。私は長州から巣立った人物の名は浮かんでも、個々の果たした役割や逸話についてほとんど知識が無い。山口県出身の直木賞作家・古川薫にこの時代の人物を描いた小説がいくつかあることを知り、萩に行くならと車中で読むよう文庫を携えた。この一冊が、吉田松陰を軸に若き勤皇の志士たちが血を滾らせた様子を仄聞し、萩の町を身近にしてくれた。
志士のゆかりの地を巡る予定だったが、大きな目標物がない町中の地図はわかりにくく、探すのを早々に諦め、日本海を見ようと港に行った。
沖に小さな島がいくつもあり、各島に定期便が出ている。丁度、和牛の元祖がいる見島への船が寂しく汽笛を鳴らし出港して行った。買い物を詰めたらしき段ボール箱を脇に、別の島へ渡る船を待つ数人の老人が待合室で会話している。壁に貼られた観光ポスターなど眺めながらそれとなく聴いていると、話題は安部新総裁の党役員人事について、人材が適正かどうかを論じていた。さすが戦後、多くの首相を輩出した土地柄であると、政治に無関心な私は痛く感心した。
次の目的地は金子みすヾのふるさと仙崎である。
みすヾの父が生まれた青海島の通(かよい)という部落にくじら資料館があることを案内板で知り、長門市駅からタクシーで行ってみた。仙崎から指呼の距離かと思ったらこれが意外と遠く、山道と寂れた漁村をいくつも抜けてようやく着いた。みすヾが『鯨法会』という詩を詠んだ地だ。資料館は小さかったが展示物は充実していた。館長自らくじら組という漁の仕組みを熱心に説明してくれたが、運転手を待たせていたので後ろ髪引かれる思いで後にした。山本一力の小説『くじらぐみ』が面白かったのを思い出した。町に戻り、遍照寺でみすヾの墓に手を合わせ、記念館の金子文英堂に向かう。
みすヾの弟が大切に保管していた手帳から彼女の詩が世に出て、更に昨年、震災があって、詩がテレビCMで流されると山陰の小さな町に一層の観光客が押しかけて来るようになったという。町ではあいだみつおとのコラボによる企画展が、別の会場で行われているようだったが寄る時間が無い。厚狭に行く美祢線の本数が少ないのだ。
厚狭では新幹線を1本やり過ごし、駅前で三年寝太郎の餅を買い、1軒だけあった食堂で昼食をとり、帰路に着いた。
現代では、朝、小田原を発てば昼には山口県内に着く。とはいえ本州の西端はやはり遠い。それなのにこの二つの地域が不思議な人縁で繋がっていることをかねてから不思議に感じていた。
『見残しの塔』の作者久木綾子は戦時中、小田原に疎開し、駅で知り合った山口県出身の男性と結ばれた。夫と死別して山口を訪れ、瑠璃光寺に触発され小説を書いた。
動乱の幕末を生き抜いた萩出身の明治の元勲伊藤博文は御幸の浜に蒼浪閣を、山形有朋は板橋に古希庵を、田中光顕は現在の小田原文学館の地に別邸を建て、それぞれ各様に小田原をこよなく愛した。
26歳の金子みすヾが、離縁した夫に親権を渡すまいとして自らの命と引き換えに守った愛娘ふさえは、今、娘夫婦の家族と現在も達者に秦野に住むというが、85歳の彼女の主治医は小田原の山田クリニック院長山田洋介氏である。山田氏はみすヾの詩を歌う医師仲間の会を主宰している。これは昨年行われた震災復興のチャリティーコンサートで知った。山口県と小田原。不思議な絆を楽しんだ旅だった。(克)